甘い夢はもう見ない〜お見合い結婚から始まる両片想いの恋〜
君の呼び名と子づくりについて
「左京さん」
夕食後のコーヒーをソファの前のローテーブルに置いた桜子が、改まって口を開き、左京は顔を上げる。
「どうした?」
「はい、あの。実は今日、近くまで来た姉が子どもを連れてここに立ち寄ったんです。お昼寝を始めちゃったから、休憩させてほしいと」
「そうだったのか。おもてなしするものも買ってなくて、悪かったな」
「とんでもない。左京さんにお断りもせず部屋に上げてしまい、申し訳ありませんでした。姉も、小さな子連れで押しかけてしまったことに恐縮して、家具を汚したりしないよう気をつけていました」
「まさか、そんな。気にすることなどない。君もお姉さんと姪っ子さんに会いたかっただろう? いつでもここにお呼びすればいい」
そう言いながら、左京はまたしても桜子をどう呼ぶかが気になった。
(彼女は俺を名前で呼んでくれるのに、俺は君という呼び方が定着しつつあるな。今こそ議題に挙げるべきか。ちょうど姪っ子さんの話題も出たことだしな。『君の呼び名と子づくりについて』これを今夜は改めて話し合い……)
すると桜子が頭を下げる。
「ありがとうございます。左京さんがどなたかご招待される時には、私も精一杯おもてなしさせていただきます。どうぞいつでもご友人をお招きくださいね」
「いや、俺は特にそんな友人もいない」
「では秘書の戸部さんは?」
「戸部? あいつも別に俺の部屋に来たくはないだろう」
「そうですか。先日『ぜひ遊びに行かせてください』とおっしゃったのは、やはり社交辞令なのですね」
なに?と、左京は食いつく。
「あいつとそんな話を? いつの間に?」
思いがけず強い口調になってしまった。
「つい先日です。毎朝左京さんが車に乗られてドアを閉めたあとに、戸部さんがひと言ふた言お話ししてくださるのですが、その時に」
「毎朝、ひと言ふた言?」
「はい。『今日は常務はお忙しいので帰りが遅くなりますが、出来るだけ早く送り届けますね』とか『奥様もお買い物などで車の送迎が必要であれば、いつでもご連絡ください。時間が合えばおつき合いいたしますね』とか」
なんだと?と、左京は心の中で悪態をつく。
(ひと言ふた言どころじゃないだろ! 奥様とか勝手に呼びやがって。それになんだ? ご連絡くださいって、もしや……)
気持ちを落ち着かせ、余裕ぶって聞いてみた。
「君、戸部の連絡先を知ってるのか?」
「はい。なにかの時に連絡が取れるようにと、名刺をいただきました」
左京は、ムッと表情を変える。
(あいつめー! 俺の妻をナンパしやがって)
すると桜子は、更に驚くことを口にした。
「毎日【これから常務をご自宅にお送りします。30分ほどで着きます】とメッセージもくださって。おかげで夕食の準備がしやすくて助かっています」
「なに!? 君、戸部とメッセージのやり取りを?」
「はい。私が【ありがとうございます。お待ちしております】と返すのがお決まりで。もはや定型文ですね。ほら」
そう言って桜子は、スマートフォンの画面を見せる。
そこには毎日、同じやり取りがズラリと並んでいた。
ちょっと待て、と左京は己に言い聞かせてから咳払いする。
「そのやり取りは、もうしなくていい。これからは俺がやる」
「えっ、本当ですか? 嬉しいです」
声を弾ませ、満面の笑みで左京を見上げる桜子に、思わず左京はドキッとした。
「おみおつけの具は、お豆腐か、なめこか、あさりか。冷奴の薬味は、九条ねぎか、あさつきか、白髪ねぎか、それとも梅和えか辛子味噌か。今夜はどのご気分ですか? って、いつも左京さんに聞いてみたかったので」
「……は?」
「あとはサラダのドレッシングも。和風しょうゆか、中華ごまか、かぼすビネガーとか。豆乳のシーザーサラダもいいし、チョレギサラダや、コブサラダも。ワインを召し上がるなら、モッツァレラチーズとトマトのカプレーゼの方がいいですよね?」
「えっ、あの」
「これからはご希望をうかがってから作れるから、迷わなくて済みます。ふふっ、メッセージ楽しみにしていますね」
「ああ、うん。分かった」
嬉しそうな桜子に見とれて、左京はなにも言えなくなる。
結局この日も『君の呼び名と子づくりについて』は話し合えなかった。
夕食後のコーヒーをソファの前のローテーブルに置いた桜子が、改まって口を開き、左京は顔を上げる。
「どうした?」
「はい、あの。実は今日、近くまで来た姉が子どもを連れてここに立ち寄ったんです。お昼寝を始めちゃったから、休憩させてほしいと」
「そうだったのか。おもてなしするものも買ってなくて、悪かったな」
「とんでもない。左京さんにお断りもせず部屋に上げてしまい、申し訳ありませんでした。姉も、小さな子連れで押しかけてしまったことに恐縮して、家具を汚したりしないよう気をつけていました」
「まさか、そんな。気にすることなどない。君もお姉さんと姪っ子さんに会いたかっただろう? いつでもここにお呼びすればいい」
そう言いながら、左京はまたしても桜子をどう呼ぶかが気になった。
(彼女は俺を名前で呼んでくれるのに、俺は君という呼び方が定着しつつあるな。今こそ議題に挙げるべきか。ちょうど姪っ子さんの話題も出たことだしな。『君の呼び名と子づくりについて』これを今夜は改めて話し合い……)
すると桜子が頭を下げる。
「ありがとうございます。左京さんがどなたかご招待される時には、私も精一杯おもてなしさせていただきます。どうぞいつでもご友人をお招きくださいね」
「いや、俺は特にそんな友人もいない」
「では秘書の戸部さんは?」
「戸部? あいつも別に俺の部屋に来たくはないだろう」
「そうですか。先日『ぜひ遊びに行かせてください』とおっしゃったのは、やはり社交辞令なのですね」
なに?と、左京は食いつく。
「あいつとそんな話を? いつの間に?」
思いがけず強い口調になってしまった。
「つい先日です。毎朝左京さんが車に乗られてドアを閉めたあとに、戸部さんがひと言ふた言お話ししてくださるのですが、その時に」
「毎朝、ひと言ふた言?」
「はい。『今日は常務はお忙しいので帰りが遅くなりますが、出来るだけ早く送り届けますね』とか『奥様もお買い物などで車の送迎が必要であれば、いつでもご連絡ください。時間が合えばおつき合いいたしますね』とか」
なんだと?と、左京は心の中で悪態をつく。
(ひと言ふた言どころじゃないだろ! 奥様とか勝手に呼びやがって。それになんだ? ご連絡くださいって、もしや……)
気持ちを落ち着かせ、余裕ぶって聞いてみた。
「君、戸部の連絡先を知ってるのか?」
「はい。なにかの時に連絡が取れるようにと、名刺をいただきました」
左京は、ムッと表情を変える。
(あいつめー! 俺の妻をナンパしやがって)
すると桜子は、更に驚くことを口にした。
「毎日【これから常務をご自宅にお送りします。30分ほどで着きます】とメッセージもくださって。おかげで夕食の準備がしやすくて助かっています」
「なに!? 君、戸部とメッセージのやり取りを?」
「はい。私が【ありがとうございます。お待ちしております】と返すのがお決まりで。もはや定型文ですね。ほら」
そう言って桜子は、スマートフォンの画面を見せる。
そこには毎日、同じやり取りがズラリと並んでいた。
ちょっと待て、と左京は己に言い聞かせてから咳払いする。
「そのやり取りは、もうしなくていい。これからは俺がやる」
「えっ、本当ですか? 嬉しいです」
声を弾ませ、満面の笑みで左京を見上げる桜子に、思わず左京はドキッとした。
「おみおつけの具は、お豆腐か、なめこか、あさりか。冷奴の薬味は、九条ねぎか、あさつきか、白髪ねぎか、それとも梅和えか辛子味噌か。今夜はどのご気分ですか? って、いつも左京さんに聞いてみたかったので」
「……は?」
「あとはサラダのドレッシングも。和風しょうゆか、中華ごまか、かぼすビネガーとか。豆乳のシーザーサラダもいいし、チョレギサラダや、コブサラダも。ワインを召し上がるなら、モッツァレラチーズとトマトのカプレーゼの方がいいですよね?」
「えっ、あの」
「これからはご希望をうかがってから作れるから、迷わなくて済みます。ふふっ、メッセージ楽しみにしていますね」
「ああ、うん。分かった」
嬉しそうな桜子に見とれて、左京はなにも言えなくなる。
結局この日も『君の呼び名と子づくりについて』は話し合えなかった。