深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
第一話 深夜二時の住人たち
終電を逃したのは、今月で何度目だろう。
野口柚子は駅の改札を抜けながら、スマートフォンの画面に表示された時刻を見た。
午前一時四十七分。
中目黒に引っ越してきた理由がこれだ、と思う。
音楽業界――レコード会社のA&Rという華やかな肩書きとは裏腹に、現実は泥臭い調整と地道な作業の連続だ。
今日も防音室にこもりきりで何十曲というデモ音源を聴き続けていたせいで、耳の奥にはまだ微かなベースの低音がこびりついている。
会社まで電車で五分。
それでもこうなる。
以前は三軒茶屋に住んでいた。
終電を逃すたびにタクシーに乗って、翌月のカード明細を見て、少しだけ泣いた。
上司に「引っ越したら」と言われたのは一度や二度じゃない。
引っ越したら仕事が楽になると思ったのに、会社が近くなった分だけ帰りが遅くなった。
人間というのは与えられた器を満たすようにできているらしい。
冬の刺すような冷たい風が、厚手のコートの襟元から容赦なく入り込んでくる。
柚子はマフラーに深く顔を埋め、目黒川沿いをとぼとぼと歩いた。
目黒川沿いをとぼとぼと歩く。
春には花見客で溢れるこの道も、冬の深夜には柚子と、たまに千鳥足の酔っ払いくらいしかいない。
それが好きだった。
誰にも気を遣わなくていい時間。
仕事用の顔を外していい時間。
ただの自分に戻っていい、時間。
自宅マンションの前を当たり前のように通り過ぎて、柚子はいつものように向かいのビルの半地下で営業しているカフェへの階段を降りていた。
『LAMP』という名のカフェは、朝の四時まで営業している。
マスターの気まぐれで始めたと聞いたが、深夜に行き場のない人間にとっては命綱みたいな場所だ。
「ゆずちゃん、今日も遅かったね」
カウンターの中で磨いていたグラスをマスターが置く。
四十代、長身、いつも落ち着いた顔をしている。
本業は投資家で、カフェは趣味だと言っていた。
最初にそれを聞いたとき、世界は不公平だと思ったものだ。
「マスターおなかすいた……今日、食べる時間無くて、エネルギーゼリーしか飲んでないんです。それから」
「ホットのカモミール、ね」
柚子は小さく頷き、重いコートを脱いでカウンター席の端に座った。
奥のソファ席には、売れないお笑い芸人のトシさんが頭を抱えながら台本らしきものを広げていて、その向かいに弁護士の結城さんが高級そうな赤ワインを飲みながら静かに目を閉じている。
「おっ、ゆずちゃんお疲れ! この時間のマスターのラザニアは罪の味だよな! 多分まだ残ってるよ!」とトシさんが台本から顔を上げて笑い、結城さんが「静かにしなさい。せっかくのワインの音を聴いているのに」と目を閉じたまま窘めた。
いつもの深夜二時だった。
——そこに、見慣れない男の横顔があった。
野口柚子は駅の改札を抜けながら、スマートフォンの画面に表示された時刻を見た。
午前一時四十七分。
中目黒に引っ越してきた理由がこれだ、と思う。
音楽業界――レコード会社のA&Rという華やかな肩書きとは裏腹に、現実は泥臭い調整と地道な作業の連続だ。
今日も防音室にこもりきりで何十曲というデモ音源を聴き続けていたせいで、耳の奥にはまだ微かなベースの低音がこびりついている。
会社まで電車で五分。
それでもこうなる。
以前は三軒茶屋に住んでいた。
終電を逃すたびにタクシーに乗って、翌月のカード明細を見て、少しだけ泣いた。
上司に「引っ越したら」と言われたのは一度や二度じゃない。
引っ越したら仕事が楽になると思ったのに、会社が近くなった分だけ帰りが遅くなった。
人間というのは与えられた器を満たすようにできているらしい。
冬の刺すような冷たい風が、厚手のコートの襟元から容赦なく入り込んでくる。
柚子はマフラーに深く顔を埋め、目黒川沿いをとぼとぼと歩いた。
目黒川沿いをとぼとぼと歩く。
春には花見客で溢れるこの道も、冬の深夜には柚子と、たまに千鳥足の酔っ払いくらいしかいない。
それが好きだった。
誰にも気を遣わなくていい時間。
仕事用の顔を外していい時間。
ただの自分に戻っていい、時間。
自宅マンションの前を当たり前のように通り過ぎて、柚子はいつものように向かいのビルの半地下で営業しているカフェへの階段を降りていた。
『LAMP』という名のカフェは、朝の四時まで営業している。
マスターの気まぐれで始めたと聞いたが、深夜に行き場のない人間にとっては命綱みたいな場所だ。
「ゆずちゃん、今日も遅かったね」
カウンターの中で磨いていたグラスをマスターが置く。
四十代、長身、いつも落ち着いた顔をしている。
本業は投資家で、カフェは趣味だと言っていた。
最初にそれを聞いたとき、世界は不公平だと思ったものだ。
「マスターおなかすいた……今日、食べる時間無くて、エネルギーゼリーしか飲んでないんです。それから」
「ホットのカモミール、ね」
柚子は小さく頷き、重いコートを脱いでカウンター席の端に座った。
奥のソファ席には、売れないお笑い芸人のトシさんが頭を抱えながら台本らしきものを広げていて、その向かいに弁護士の結城さんが高級そうな赤ワインを飲みながら静かに目を閉じている。
「おっ、ゆずちゃんお疲れ! この時間のマスターのラザニアは罪の味だよな! 多分まだ残ってるよ!」とトシさんが台本から顔を上げて笑い、結城さんが「静かにしなさい。せっかくのワインの音を聴いているのに」と目を閉じたまま窘めた。
いつもの深夜二時だった。
——そこに、見慣れない男の横顔があった。
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