深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
 カウンターの、柚子から二席分空けた場所。
 黒いパーカーのフードを少し深めに被って、コーヒーカップの取っ手を、長く形の良い人差し指で弄んでいる。

 横顔しか見えないけれど、なんとなく、ここの空気に馴染んでいる気がした。

 初めて来た人間は大抵、この店の深夜の密度に少し戸惑う。
 でもその人は違った。
 まるで前からずっと、ここにいたみたい。
 この店の静かな影の一部であるかのような、ひどく落ち着いた座り方。

「新しい常連さん?」

 小声でマスターに聞くと、彼は少しだけ意味深に笑って答えた。

「かもね」

 なんだその返事、と思ったけれど、カモミールティーが来たのでそれ以上追及しなかった。

 柚子は温かいカップを両手で包み込み、ゆっくりと目を閉じる。
 立ち上る甘い香りを胸いっぱいに吸い込むと、強張っていた肩の力がふっと抜けた。
 今日のプレゼンの重圧、来週の容赦ない締め切り、まだ返せていない大量のメール。
 全部を一旦、ここに置いていく。

 それがこの店のルールだった。

 誰も明言して決めたわけじゃないけど、ここに集う夜の住人たちはみんなそうしている。
 ふと気づくと、二席分の空白が、一席分に縮まっていた。

「隣、いいですか」という低く落ち着いた声を聞いた気がするし、それとも幻聴で、気づいたらただそこにいたのかもしれない。
 深夜二時の曖昧な輪郭の中では、すべてがひどく自然だった。
 黒いパーカーの人が座っていて、新しいコーヒーを頼んでいる。

「どうぞ」と言った自分の声が、初対面の相手に対するものにしては、驚くほど無防備で自然だったことに後から気づいた。

 会話もなく、名前も知らず、ただ同じカウンターで、一席の余白を挟んで並んでいるという現状。
 不思議と、居心地は悪くなかった。

 一時間ほど経ち、カフェからの帰り際。
 会計を済ませた二人は、申し合わせたわけでもないのに、そろって同じ方向へ流れることになった。
 冬の深夜の冷たい空気が、火照った頬を撫でる。
 等間隔に響く二人の足音だけが、静まり返った住宅街に落ちていく。
 
 エントランスの自動ドアを抜け、明るいエレベーターホールで並んで立った時。
 蛍光灯の白い光の下で、柚子は初めて彼の顔をまじまじと見た。

 三十代前半くらい。フードの奥から覗くのは、驚くほど整った、なんとなくだけど、疲労の色を滲ませた瞳。
 
 まあ既に時刻は3時過ぎ。
 皆、似たような疲労を抱えていて当たり前の時間帯。

「同じマンションですね」

 彼が先に口を開いた。
 耳の奥にす、と入り込んでくる、心地の良い低音。

「あ、はい。何階ですか」

「五階です」

 柚子は少し間を置いた。

「えっと、私も五階です」

 チン、と無機質な音を立ててエレベーターの扉が開く。
 無言のまま乗り込み、『5』のボタンのランプを見つめた。
 やがて扉が開き、それぞれの部屋に向かって歩き始めたとき。
 柚子はふと足を止め、息を呑んだ。

 彼が足を止めて鍵を取り出したのは、501号室の前。
 自分の部屋である、502号室の、真隣。
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