深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
「同僚が一人、大門から歩いてこっちに向かってるんですけど。ここで休ませてもらえますか。彼の家町田なんです」

「もちろん」とマスターが言った。

「え、町田まで歩くつもりだったんですか?」

「お子さんが一人でいるみたいで、絶対帰りたいんだと思います」

「あー自転車、速攻売切れてましたよ、環七もめっちゃ渋滞してたし、真っ暗な歩道みんな黙々と歩いてて、俺、怖くなってシフトじゃないのにここ来ちゃった」

 レイ君の語る光景は、先程、柚子も見た光景だ。

 マグカップのお茶の表面が、細かく揺れている。
 ひっきりなしに続く余震の中、惨憺たる状況の自分の部屋に一人で居たら、と想像すると、途端に息苦しくなる。

『首都圏の交通網が完全にストップ。都内で火災、エレベーター閉じ込め多数。帰宅困難者、想定800万人』

 タブレットに、ニュース配信画面の赤字テロップが流れ、九条は額を右手で抱え込むようにしながら溜息を吐く。

『新宿駅周辺でビル外壁の落下報告あり。歩行者は頭上を警戒してください。東京メトロ、全線で運転再開の見込み立たず。駅構内での滞留を避けるよう呼びかけ。警視庁が都心部への車両流入規制を開始。緊急車両の通行を優先』

 柚子は社用チャットのDMメールで真下にメッセージを送った。

 野口:真下さん、足は無事ですか? 中目黒これそうだったら、どうですか?
 真下:中目黒ですか?
 野口:駅前に朝四時まで営業してるカフェがあって。コンビニはもう全滅だと思うので
 真下:今大崎なんですが
 野口:歩いたら三十分くらいかと。無理そうなら無理しないでください
 真下:行きます。ありがとうございます

 ヒルズの火災はまだ続いているらしい。
 臨海地区の液状化は、想定より広範囲に及んでいるとSNSに流れてきていた。

 マスターが「落ち着かない夜ですね」と言いながら、床におろされたアルコールの瓶の間に緩衝材を挟み込んでいる。



 真下がLAMPに現れたのは、一時間ほど後だった。
 扉を開けて入ってきた顔は、流石に疲労が滲んでいる。

「あー、野口さん、本当に助かりました! 会社は帰宅困難社員でいっぱいだったんで。それに、近いですね恵比寿と中目」

 三十二歳、営業部の真下悠人。
 背が高くて、声が明るい。
 どんな状況でも笑顔が崩れない人で、社内ウケも社外ウケも良い。

「息子さん、無事で良かったです」

「ほんとに。うちの両親と合流できて。電話繋がった瞬間、声聞いてちょっとやばかったですよ」

 真下はカウンターに座って、マスターが渡したペットボトルの水を受け取り「助かります!」と少し掲げる。

「非常用のウイスキーでも出しますか」

「非常用のウイスキーって何ですか」

 緩衝材と格闘していたらしきレイ君が顔をあげる。

「いざというときのために取ってあるウイスキーです」

「それ、今じゃなかったらいつ出すんですか」

「確かに」とマスターはのんびり言って、棚の奥からボトルを出した。


 停電がいつ復旧するか。
 電車はいつ動くか。
 大門から中目黒まで歩いてきた道の話。
 コンビニの棚が空だった話。

 九条は基本的に聞いている側だったが、真下が「このあたりに住んでるんですか」と聞いたとき「野口さんと同じマンションです」と答えた。

「おお」

「隣の部屋です」

「仲良しってやつですか?」

 いやらしい言い方じゃない分、素直すぎる問いに、どきりとする。
 柚子は慌てて「最初はカフェで顔見知りになって、まあそれくらいなんですけど」

 九条は慌てる柚子の横で、考え込むような顔をしている。

 マスターだけが、忍び笑いをひとつ漏らした。


 夜の十一時を過ぎた頃、在来線も私鉄も運転再開の目途がつかないという公式発表が流れる。
 灯りのみえる地下のカフェには、帰宅に疲れ切った人たちの、一時的な休憩所と化していた。
 次から次へと、訪れる客――避難民に、マスターが店舗を開放したからだ。
 地上に出してある看板には『どなたでもお気軽に。ペットボトルの水一本無料』と臨時で張り紙されている。
 階段にまで人が溢れ始めた店内に居座るのも申し訳ない気がして柚子は思わず「真下さん、よかったら、うちに泊まりませんか」と口にしていた。

「えっと、一応ソファで寝れますし、あー部屋ちょっと色々落ちてるから片付けないとだけど」

「いいんですか」

「息子さんのこともあるし、早く動けた方がいいでしょう。歩くとしても明るくなってからの方がいいかと」

 真下は一瞬だけ九条に視線を流したが、九条はタブレットのニュース配信を見たまま微動だにしない。

「それじゃ、お言葉に甘えます」

 真下が財布を片手に腰を上げると、マスターが「今夜はいいですよ」と言った。

「え、でも」

「非常事態ですから。また落ち着いたら、遊びに来てください」

「ありがとうございます、必ず」

 そのタイミングで九条も立ち上がった。

「俺も、一緒に出ます」

 暗闇を歩くのに、灯りは一つより、二つより、三つの方が良いに決まっている。

 そういうことかもしれない。
 そうじゃないかもしれない。

 レイ君が「お気をつけて」と扉を押さえてくれたのと同時に、また疲れ果てた知らない顔の集団がLAMPへと続く階段を降りて来た。
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