深夜2時。君のとなりで ――世界中が知っている彼を、私だけが知らなかった
「とっても良いことだとは思います。でも来月頭にマスター上げなきゃいけないのに、今日だけで十七テイクも録ったんですよ……」
 
 九条が手を止め、顔を上げる。
 
「十七テイクか……」
 
「多いですよね。でも、妥協したくない気持ちが分かるから強く言えなくて」
 
「野口さんは、アーティストの味方なんですか、レーベルの味方なんですか」
 
 九条の素朴な疑問に、柚子は考えながら答える。
 
「どちらでもあって、どちらでもない、というのが正直なところです。どっちかの味方になった瞬間に、A&Rとしては終わる気がするので。どちらかに傾き過ぎないように、天秤を必死で調整している感じです」
 
「難しそうな、お仕事ですよね」
 
「はい。好きじゃなかったら絶対できない、かなあ」

 そう答えながらも、疲労の所為か、ため息が零れてしまう。
 そんな柚子を見て、九条は少しだけ声を和らげた。
 
 仕事の細かい話をここでするつもりはなかった。
 ここは日常を切り離す場所だからだ。

 LAMPのルールとして、というより、切り替えができなくなるのが嫌なのだ。
 この場所は、日常から非日常へと自分の存在を変質させる場所。

 それなのに九条の落ち着いた声を聞いていると、なぜか話したい気分になる。
 
「今担当しているアーティストさん。二十三歳の女の子なんですけど、歌い方に変な欲がないんですよ。うまく聴かせようとしない。ただそこに在る、みたいな歌い方で」
 
「――在る」
 
「声で何かを証明しようとしていない感じ、というか。それが聴いてて心地よいんです」
 
「今日録った曲、どんな感じですか。あ、これって聞いてもいいのかな」

 九条がマスターの方に視線を遣る。
 マスターは軽く肩を竦めただけだった。
 柚子が最初に話題を振ったのだから、任せるといったところだろうか。
 
「えーっと、ミディアムテンポで、歌詞がごく日常的で……。お腹が空いたとか、傘を忘れたとか、そういうことしか歌ってないのに、なぜか泣けてくる感じの曲」
 
「日常的で、泣ける。面白いですね」
 
 柚子は、琥珀色に揺れるカップを見ながら、しばらく考えた。
 
「本当のことを歌っているから、じゃないですかね。背伸びしていない言葉って、なんていえばいいかな……重力があるみたいに、すとんと心の奥の方に落ちてくる、気がして」
 
 九条は何も言わなかった。
 ただ、ゆるやかな笑みのまま、柚子の話を聞いているだけだ。
 
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