One year left -家族ごっこ-
「……もう、決めてるの」
揺れる気持ちを必死に抑えながら、彼の胸をそっと押し戻し、私はソファからゆっくりと立ち上がった。
リビングの壁に掛けられた鏡へと、静かに視線を投げる。
「……おばさんが、あんたを恨んでるようには見えない」
薄暗い明かりの中、碧くんがソファに座ったまま、鏡越しに私の心をねじ伏せるような光の強い瞳で見つめてくる。
「お母さんは優しいから。ずっと隠してきただけだよ」
私は鏡の中の碧くんから視線を逸らし、遠い昔の記憶を手繰り寄せた。
「あの日、お父さんと二人で公園に遊びに行ったんだ。そしたらね、猫が私の前を横切ったの」
碧くんの、押し殺したような息遣いを感じる。
「茶色い猫でね、すごく可愛かった。首輪がついてなかったから、野良猫だなってお父さんが言ってた」
脳裏に広がるのは、眩しいほどの秋晴れの公園。
賑やかな子どもの歓声。
キーキーと高く響くブランコの金属音。
「追いかけたの、私。猫のこと。触りたくて必死だった」
追いかける私をあざ笑うように、茶色い塊は草むらの上をすばしっこく駆け抜け、公園の出口から車道側の歩道へと一直線に飛び出していく。
私は目の前に迫る白い車線の意味も、ガードフェンスの切れ目の先が車道であることにも気づかず、夢中で猫の後を追ってアスファルトへ踏み出していた。
その瞬間、背後でお父さんの、すべてを引き裂くような叫び声が響いた。
強烈な衝撃が私の背中に加わり、気づいた時には道路の反対側へと強く投げ飛ばされていた。
固い地面に激突し、痛みに顔を顰(しか)めながら隣を見る。
そこには、お父さんが倒れていた。
傷一つなく、血も流さないまま。
「車道に飛び出した私をかばって、お父さんは車に轢かれて死んだんだ」
そこからの記憶は、ほとんどない。
思い出すのは、ただ家の布団で静かに眠っているようなお父さんの姿だけ。
そっと手に触れると、びっくりするほど冷たかった。
いくら声をかけても、お父さんはピクリとも動かなかった。
「……命をかけても子供を守るのが、親の役目だ」
碧くんは低く、確かな熱を持った声でそう言った。
鏡越しに、目と目が合う。
「私のせいで、お父さんは死んだの」
「たとえ俺があんたの父親でも、同じようにそうしてた」
「私が死ねば良かったんだよ」
「そんなに自分を責めるなよ」
その瞳は濁りのない深い光を宿して、私を射抜いていた。
大きな器で私の罪悪感ごと全てを包み込んで消し去ろうとするような眼差し。
彼の放つ言葉が、直(じか)に肌を侵食していく。
急激に引いていく体温のなかで、その言葉の温もりだけが驚くほど優しい。
このまま彼に全てを委ねてしまえれば、どれだけ楽だろう。
だけど、熱を欲した瞬間に、お父さんの冷たい手の記憶が脳裏をかすめる。
心地よい温もりを内側から凍らせるように、自罰的な冷気が一気に身体を駆け巡った。
「……私が、お母さんの幸せを奪った」
碧くんに向けて、静かに拒絶の笑みを浮かべた。
「話を聞いてくれて、ありがとう」
揺れる気持ちを必死に抑えながら、彼の胸をそっと押し戻し、私はソファからゆっくりと立ち上がった。
リビングの壁に掛けられた鏡へと、静かに視線を投げる。
「……おばさんが、あんたを恨んでるようには見えない」
薄暗い明かりの中、碧くんがソファに座ったまま、鏡越しに私の心をねじ伏せるような光の強い瞳で見つめてくる。
「お母さんは優しいから。ずっと隠してきただけだよ」
私は鏡の中の碧くんから視線を逸らし、遠い昔の記憶を手繰り寄せた。
「あの日、お父さんと二人で公園に遊びに行ったんだ。そしたらね、猫が私の前を横切ったの」
碧くんの、押し殺したような息遣いを感じる。
「茶色い猫でね、すごく可愛かった。首輪がついてなかったから、野良猫だなってお父さんが言ってた」
脳裏に広がるのは、眩しいほどの秋晴れの公園。
賑やかな子どもの歓声。
キーキーと高く響くブランコの金属音。
「追いかけたの、私。猫のこと。触りたくて必死だった」
追いかける私をあざ笑うように、茶色い塊は草むらの上をすばしっこく駆け抜け、公園の出口から車道側の歩道へと一直線に飛び出していく。
私は目の前に迫る白い車線の意味も、ガードフェンスの切れ目の先が車道であることにも気づかず、夢中で猫の後を追ってアスファルトへ踏み出していた。
その瞬間、背後でお父さんの、すべてを引き裂くような叫び声が響いた。
強烈な衝撃が私の背中に加わり、気づいた時には道路の反対側へと強く投げ飛ばされていた。
固い地面に激突し、痛みに顔を顰(しか)めながら隣を見る。
そこには、お父さんが倒れていた。
傷一つなく、血も流さないまま。
「車道に飛び出した私をかばって、お父さんは車に轢かれて死んだんだ」
そこからの記憶は、ほとんどない。
思い出すのは、ただ家の布団で静かに眠っているようなお父さんの姿だけ。
そっと手に触れると、びっくりするほど冷たかった。
いくら声をかけても、お父さんはピクリとも動かなかった。
「……命をかけても子供を守るのが、親の役目だ」
碧くんは低く、確かな熱を持った声でそう言った。
鏡越しに、目と目が合う。
「私のせいで、お父さんは死んだの」
「たとえ俺があんたの父親でも、同じようにそうしてた」
「私が死ねば良かったんだよ」
「そんなに自分を責めるなよ」
その瞳は濁りのない深い光を宿して、私を射抜いていた。
大きな器で私の罪悪感ごと全てを包み込んで消し去ろうとするような眼差し。
彼の放つ言葉が、直(じか)に肌を侵食していく。
急激に引いていく体温のなかで、その言葉の温もりだけが驚くほど優しい。
このまま彼に全てを委ねてしまえれば、どれだけ楽だろう。
だけど、熱を欲した瞬間に、お父さんの冷たい手の記憶が脳裏をかすめる。
心地よい温もりを内側から凍らせるように、自罰的な冷気が一気に身体を駆け巡った。
「……私が、お母さんの幸せを奪った」
碧くんに向けて、静かに拒絶の笑みを浮かべた。
「話を聞いてくれて、ありがとう」