君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 たまに美術室へ顔を出しても、ただパイプ椅子に深く腰掛け、動かない右手を見つめながら窓外の空を眺めているだけ。
 そんな、自らの世界を少しずつ閉じつつある彼女が。
 わざわざ自分を、「どっか行こう」と外へ連れ出そうとしている。

『急にどうした』

 そう送って、返信を待つ。
 今度は、少しだけ間が空いた。向こうの入力中を示す三点リーダーが点滅しては消える。
 やがて、ぽつんと返ってきたのは、

『たまにはいいでしょ』

 それだけだった。
 凌はスマホを見つめたまま、微かな胸騒ぎを覚える。
 何かがおかしい。何かが、決定的にいつもと違っている。
 けれど、それが何なのか、初心者の自分にはどうしても言語化できなかった。
 思案する凌の手元で、新しいメッセージが続けて届く。

『嫌だった?』

 ほんの少しだけ、画面の向こうで遠慮がちに縮こまっているような、弱気な文章。
 いつも自分を小馬鹿にして、傲慢に振る舞っていたあの先輩が、そんな言葉を紡いできたことが妙に珍しくて、凌は思わず小さく苦笑した。

『別に』
『じゃあ決まり』
『何処行くんだよ』
『秘密』
『意味分かんねぇ』
『楽しみにしてて』

 そこでぷつりと、テンポの良かった会話は途絶えた。
 既読は付く。だが、それ以上の新しいメッセージが送られてくる気配はなかった。
 凌はしばらくの間、バックライトが消えて真っ暗になったスマホの画面を、じっと見つめ続けていた。
 やがて深く、重い溜息を吐き出すと、それを放り出すように机へと置く。

「……なんなんだよ、マジで」

 誰に聞かせるでもない、呆れ混じりの独り言。
 けれど、胸の奥を占めているのは不快感ではなかった。
 不思議と、何処か浮き足立つような、悪くない気分がじんわりと広がっていく。
 凌はふと、窓の外に目を向けた。
 雲一つない、冬の鋭い夜空。
 人工的な街の灯りのそのもっと向こう側に、数粒の、寒さに震えるような星が小さく瞬いているのが見えた。
 凌は首を振って、再びスケッチブックへと向き直る。鉛筆を強く握り直し、紙の上の空へ視線を落とした。
 けれど、それから数分が経っても、一向に手元へ集中することができなかった。
 今の自分が描くべき未完成の空よりも。明後日、あの人が一体何を考えて自分を誘ってきたのか。
 そのことばかりが、冷え切った頭の中を、止めどなく支配し始めていた。
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