君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 無機質な病室のベッドへ身体を預けた碧南は、暗転したスマホの画面を静かに見つめていた。
 部屋の中は、耳が痛くなるほど静かだった。
 大きく切り取られた窓の向こうには、何処までも冷徹な冬の夜空が広がっている。
 地上を照らす街の灯りは遠く、天高い場所には冷たい白い月が、ぽつんと孤独に浮かんでいた。
 規則正しく、一定のテンポで鳴り続ける医療機器の電子音。
 鼻腔をツンと刺す、特有の消毒液の匂い。
 何度も見上げ、何度も絶望的な朝を迎えてきた、模様のない真っ白な天井。
 碧南はゆっくりと重い瞼を閉じる。
 胸の上に置かれたスマートフォンが、凌との他愛のない会話の名残で、ほんの僅かに温かかった。
 少し前までなら当たり前だったはずの日常が、今はその一つ一つが、指の間から零れ落ちる砂のように特別で、愛おしく感じられた。
 毎朝、眠い目を擦りながら学校へ行くこと。
 放課後、夕陽の差し込む美術室のドアを開けること。
 冷たい風に吹かれながら、二人で屋上へ上がること。
 そして――何よりも、自分の意志で木製の筆を握り、真っ白なキャンバスの前へ立つこと。
 どれもが、本当に少しずつ、確実に彼女の人生から失われていった。
 若年性パーキンソン病という病魔は、残酷なほどに静かだった。
 ある日突然、世界の全てを漆黒に染めて奪い去るわけではない。だからこそ、余計に質の悪い残酷さを持っていた。
 昨日まで出来ていたことが、今日、突然できなくなる。
 先月まで当たり前にこなせていた動作が、今はどうしても再現できない。
 そうやって、生きながらにして、自分という人間の肉体と未来が、少しずつ、少しずつ削り取られていくのだ。
 碧南は、シーツの上に投げ出されていた右手をゆっくりと持ち上げた。
 白く、細い指先。かつて何万本、何億本もの線をキャンバスに刻み込んできた手。
 世界の誰よりも執念深く、澄み切った青空を描き続けた手。
 絵を描くことを、世界で一番愛した右手。
 それが、今は自分の意志を拒むように思うように動かない。指を握ろうとしても、脳からの命令が途中で消えてしまったかのように、全く力が入らなかった。もう、筆を持つことすら、彼女の肉体は許してくれない。
 その不自由な手を見つめながら、碧南の薄い唇が、ふっと小さく歪んだ。

「……ほんと」

 掠れた、乾いた声が静寂に響く。

「嫌になっちゃうなぁ、私」

 笑っているはずだった。いつも通り、冷めた笑みを浮かべているつもりだった。
 なのに、紡いだ言葉だけが、情けないほどに細く震えてしまう。
 視界の端が、急激に熱を持って滲んでいく。碧南は慌てて何度も瞬きを繰り返した。
 泣くつもりなんて、最初からなかった。
 ずっと前に、あの白い天井を見上げながら、とっくに覚悟を決めたはずだった。
 この病気が二度と治らないことも、いつか大好きな絵が描けなくなることも、最後には全ての自由を失うことも。
 分かっていた。頭では、痛いほど分かっていたはずなのに。
 それでも、胸の奥の心臓が、引き裂かれるように痛かった。
 悔しくて、悔しくて、仕方がなかった。
 まだ、あの子の隣で描きたい絵があった。
 あの子と一緒に、見上げたい空があった。
 自分の手で、この世の何よりも美しいと証明したかった、最高の「青」があった。
 けれど、その全てに、もう自分の短い手は届かない。

「……っ……」

 ぽたり、と。
 堪えきれなかった一滴の涙が、シーツへ向かって静かに零れ落ちた。
 碧南は、動かない右手の甲で乱暴に目元を擦る。

「……駄目だなぁ、これじゃ」

 誰も見ていない。看護師も、紫も、朝比奈も、そして――凌も、ここにはいない。
 だからこそ、抑え込んでいた感情が決壊してしまった自分が、余計に情けなかった。
 碧南は細い肩を小さく震わせる。声を上げて泣くような、見苦しい嗚咽は出ない。
 ただ、音もなく、静かに、堰を切ったように涙だけが頬を伝って溢れていった。
 けれど。不思議と今の彼女の胸の内にあったのは、暗黒の絶望ばかりではなかった。
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