君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 病院を出てからしばらく経った。
 ガタゴトと揺れる電車を何度か乗り継ぎ、閑静な住宅街の路地を抜け、息が白くなるような緩やかな坂道を上りきった先。
 視界が開けたその瞬間、凌はようやく自分達が何処へ向かっていたのかを完全に理解した。

「……墓地、か?」

 思わず、驚き混じりの乾いた声が口から漏れる。
 雲ひとつない冬の寒空の下。冷たい陽射しを浴びて、無数の墓石が幾重にも整然と並んでいた。
 耳が痛くなるほどに静かな場所だった。時折、鋭い冬風が吹き抜ける度に、周囲を囲む木々が大きく揺れ、カサカサと小さく乾いた葉擦れの音を響かせるだけ。
 世界から取り残されたような静寂が、そこには満ちていた。
 碧南は凌の呟きに何も答えない。
 ただ、腕の中に小さな、けれど瑞々しい花束を抱えたまま、じっと前だけを見つめている。
 清楚な白い大輪の花。そして、彼女の瞳の奥にある色彩によく似た、淡い青色をした季節の花。
 それはどうしようもなく、彼女らしい静謐な色合いだった。
 そして凌の右手には、何故か目的地の途中で強引に手渡された、プラスチック製の掃除用バケツ。中には年季の入った柄杓や、固く絞られた雑巾が入っている。

「……いや、連れてくるなら最初から説明くらいしろよ」

 ようやくいつもの調子を取り戻し、不満げに文句を言う。
 すると碧南は、凌の腕に体重を預けたまま、悪戯っぽく少しだけ笑った。

「いいじゃない。もう少しで着くから」
「さっきからそればっかりじゃねぇか」
「ふふ、ごめんね」

 全然悪びれていない、いつもの澄ました調子だ。
 凌は盛大に溜息を吐き出したが、今さら彼女を置いて引き返そうなんて微塵も思わなかった。
 碧南は迷いのない足取りで、広大な墓地の中を奥へ奥へと進んでいく。
 カタ、カタと冷たい金属音を立てる一本の杖を地面につきながら。
 凌の右肩にその華奢な身体を支えられながら。
 それでも、彼女の視線と足取りだけは、不思議なほどに確かで揺るぎなかった。
 何度も、それこそ数え切れないほど何度も、ここへ来たことがあるのだろう。複雑に交差する分かれ道でも、彼女は一度だって立ち止まらない。
 無機質な墓石がひしめく通路をいくつもすり抜け、さらに風が冷たく吹き抜ける墓地の最奥へ。
 やがて、日当たりの良い高台にある一つの墓の前で、碧南はぴたりと足を止めた。
 胸いっぱいに冬の空気を吸い込み、静かに、深く息を吐く。
 それから、

「……着いたよ」

 そう、愛おしそうに呟いた。
 凌は促されるように視線を上げた。御影石の墓石には、一人の人間の名前が、端正な文字で深く刻み込まれていた。
 その瞬間、凌の彫りの深い表情が僅かに強張る。
 見覚えのある、決して忘れるはずのない名前だった。
 これまでに、目の前にいる先輩の口から、何度もその輪郭を聞かされてきた。
 碧南に絵を描く本当の自由と理由をくれた人。
 碧南と同じ、若年性パーキンソン病という冷酷な絶望を抱えていた人。
 そして、かつて圧倒的な、見る者の魂を奪うような『青空』を描いていた人。

「……この人が、春原澄朱華、先輩……」

 凌の何処か震える呟きに、碧南はゆっくりと、深く頷いた。

「うん」

 それだけだった。短く、そっけない返事。
 けれど、その瑞々しい声の中には、文字だけでは到底表現しきれないほどの、膨大な量の感情が濃密に滲んでいた。
 絶対的な尊敬。
 焦がれるような憧れ。
 言葉にできない感謝。
 何もできなかった後悔。
 そして、どうしようもないほどの寂しさ。
 様々な想いが、冬の光の中で複雑に混ざり合っている。
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