君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
しばらく流れていた沈黙を破り、中央のイーゼルの前から紫が不意に顔を上げた。
「あっ、そうだ。君の名前を聞いていなかったね。教えてくれないかな」
その唐突な問いかけに、部員達の背中を見つめていた凌は我に返り、慌てて姿勢を正した。
「あ、藤代凌っす」
「凌君ね。聞いたからには名乗ろうか」
紫はそう言って筆をパレットに置くと、くるりとこちらを振り返った。
初めて見た時よりも一層深みが増した笑みを浮かべ、紫は薄く目を細める。
「前に廊下で名乗ったけど、改めて。私は美術部部長、三年の綾瀬紫。――ほら、皆も名乗って」
紫は白衣の袖を揺らしながら、部室のあちこちで黙々と作業を続ける部員達を見渡した。
しかし、部長のその指示を、全員が見事なまでに無視した。
ガリガリ、サッ、サッ、と変わらない筆音だけが静かに響く。
挨拶をするどころか、誰一人としてピクリとも肩を動かさない。
その徹底したスルーっぷりに、再び紫が凌の方を振り返る。彼女は苦笑いを浮かべながら、申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせた。
あまりの光景に、凌は呆気に取られつつも、慌てて両手をブンブンと振りながら「平気です、気にしないでください」とジェスチャーで返した。
歓迎されていないことには慣れているつもりだが、ここまで個々の世界が確立されていると、むしろ清々しささえ覚える。
紫はそんな凌の反応を見て、満足そうにフッと口元を緩めた。それから、丸椅子の背もたれに遮るようにして両腕を乗せ、そこにちょこんと顎を置く。
「それで、どうだった? 屋上。――凌君にとって、いいことあったんじゃない?」
不敵な笑みを浮かべ、上目遣いで覗き込んでくる紫。
問われた凌は、一瞬何を言われたのか分からず、間抜けに首を傾げた。
いいこと? 屋上?
確かに昼休みに屋上へ行ったが、そこで起きたことと言えば、謎の先輩にいきなり怒鳴られ、不審者扱いされ、冷たく拒絶されて終わっただけだ。お世辞にも「いいこと」があったとは言えない。
紫は一体何のことを言っているのだろう。何故、あれから本当に凌が屋上へ行ったことを知って――。
そこまで考えた瞬間、凌の脳裏に、電撃のような閃きが走った。
(……あ)
脳裏に鮮烈に蘇るのは、遮るもののない青空の下、画材を派手に散らかしながら猛烈な勢いで筆を走らせていた、あの少女の姿だ。
泣きそうなほど悲しげで、けれど誰よりも熱い目でキャンバスに向き合っていた、あの不機嫌な先輩。
『明日でも明後日でもいつでもいい。気が向いた時に、屋上へ行ってみて。きっと、君にとっていいことがあるから』
昨日、紫が残したその言葉が、今になってパチリと音を立てて繋がった。
紫は彼女がそこにいることを知っていた。あの『青空の絵』を描いた張本人が、昼休みのあの場所にいることを。
凌の目が、驚きで徐々に大きく見開かれていく。
その様子を、紫は全てを見透かしたような、悪戯っぽい瞳で見つめ続けてた。
「あっ、そうだ。君の名前を聞いていなかったね。教えてくれないかな」
その唐突な問いかけに、部員達の背中を見つめていた凌は我に返り、慌てて姿勢を正した。
「あ、藤代凌っす」
「凌君ね。聞いたからには名乗ろうか」
紫はそう言って筆をパレットに置くと、くるりとこちらを振り返った。
初めて見た時よりも一層深みが増した笑みを浮かべ、紫は薄く目を細める。
「前に廊下で名乗ったけど、改めて。私は美術部部長、三年の綾瀬紫。――ほら、皆も名乗って」
紫は白衣の袖を揺らしながら、部室のあちこちで黙々と作業を続ける部員達を見渡した。
しかし、部長のその指示を、全員が見事なまでに無視した。
ガリガリ、サッ、サッ、と変わらない筆音だけが静かに響く。
挨拶をするどころか、誰一人としてピクリとも肩を動かさない。
その徹底したスルーっぷりに、再び紫が凌の方を振り返る。彼女は苦笑いを浮かべながら、申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせた。
あまりの光景に、凌は呆気に取られつつも、慌てて両手をブンブンと振りながら「平気です、気にしないでください」とジェスチャーで返した。
歓迎されていないことには慣れているつもりだが、ここまで個々の世界が確立されていると、むしろ清々しささえ覚える。
紫はそんな凌の反応を見て、満足そうにフッと口元を緩めた。それから、丸椅子の背もたれに遮るようにして両腕を乗せ、そこにちょこんと顎を置く。
「それで、どうだった? 屋上。――凌君にとって、いいことあったんじゃない?」
不敵な笑みを浮かべ、上目遣いで覗き込んでくる紫。
問われた凌は、一瞬何を言われたのか分からず、間抜けに首を傾げた。
いいこと? 屋上?
確かに昼休みに屋上へ行ったが、そこで起きたことと言えば、謎の先輩にいきなり怒鳴られ、不審者扱いされ、冷たく拒絶されて終わっただけだ。お世辞にも「いいこと」があったとは言えない。
紫は一体何のことを言っているのだろう。何故、あれから本当に凌が屋上へ行ったことを知って――。
そこまで考えた瞬間、凌の脳裏に、電撃のような閃きが走った。
(……あ)
脳裏に鮮烈に蘇るのは、遮るもののない青空の下、画材を派手に散らかしながら猛烈な勢いで筆を走らせていた、あの少女の姿だ。
泣きそうなほど悲しげで、けれど誰よりも熱い目でキャンバスに向き合っていた、あの不機嫌な先輩。
『明日でも明後日でもいつでもいい。気が向いた時に、屋上へ行ってみて。きっと、君にとっていいことがあるから』
昨日、紫が残したその言葉が、今になってパチリと音を立てて繋がった。
紫は彼女がそこにいることを知っていた。あの『青空の絵』を描いた張本人が、昼休みのあの場所にいることを。
凌の目が、驚きで徐々に大きく見開かれていく。
その様子を、紫は全てを見透かしたような、悪戯っぽい瞳で見つめ続けてた。