君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 圧倒されて言葉を失う凌に、紫は声を一段階落として、秘密を共有するような囁き声で告げた。

「あの子には内緒ね。凌君、随分とこの絵を気に入っていたみたいだから、特別に手に取ることを許してあげる。……まあ、私が描いたわけじゃあないんだけど」

 紫の手から離れた絵の重みが、凌の両手へと伝わってくる。
 ズシリとした木枠の感触と、キャンバスが持つ独特の存在感が、妙に現実味を帯びて両手に残った。
 
「私が描いたわけじゃない」という言葉。それはつまり、やはり昼休みに屋上で出会ったあの少女こそが、この美しい青空を生み出した張本人であるという決定的な答え合わせだった。
 どうして、あんなにも悲しそうな目で「全部失敗作だ」なんて言ったのだろう。こんなに、人の心を動かす絵を描けるのに。

「じゃ、私は作業に戻るから。気の済むまで見ていていいよ」

 凌に絵を手渡した紫は、それ以上何も語らずに再びくるりと背を向けた。
 自分のイーゼルの前へと戻り、何事もなかったかのようにパレットと筆を握る。
 そして、再び彼女の意識もまた、色の世界へと沈んでいった。
 手元に残された『青空の絵』を見つめながら、凌は激しく脈打つ自分の心臓の音を聞いていた。

 ――キィンコォン、カンコォン……。

 その時、放課後の終わりを告げるチャイムの音が、部室の窓を震わせて鳴り響いた。
 途端に、それまで静まり返っていた廊下の向こうから下校する生徒達の騒がしい話し声や、校庭から響く運動部の威勢のいい掛け声が一気に流れ込んでくる。
 世界が急に、慌ただしい現実へと引き戻される。
 しかし、賑やかさを取り戻していく外の世界とは裏腹に、凌の視線は、手の中にある静寂な『青空』からどうしても離れることができずにいた。
  どれほどの時間が経っただろう。現実の喧騒を遠くに聞きながら、ただ一枚の絵に見入る凌の背中に、再び紫の声がかけられた。

「凌君、この後時間ある?」

 キャンバスに視線を向けたまま、筆を動かす手すら止めずに紫は淡々と問いかけてくる。
 その声は部室の空気に自然と溶け込むほど静かだったが、凌の鼓膜を確かに震わせた。

「はい。大丈夫ですけど……」

 突然の問いに驚きながらも、凌は手元の絵を落とさないよう慎重に抱え直して答えた。
 特に放課後の予定などない。ただ、美術部の体験時間が終われば、いつも通り真っ直ぐ家に帰るだけのはずだった。
 すると、紫はサッと流れるような手つきで筆を置くと、椅子の上で器用に身体を反転させた。
 丸い椅子の背もたれに両腕を乗せ、そこにぽてんと頬杖をつく。

「それなら、少しお話しない?  貴重な新入生だから、勧誘も兼ねて話したいんだ」

 にっこりと、花が咲くような笑みを浮かべる紫。その瞳の奥には、やはり全てを見透かしているような、不思議な深みがあった。
 勧誘、という言葉。そして、自分の手の中にあるこの『青空の絵』。
 この先輩と話せば、あの屋上の少女のことに、もっと深く触れられるかもしれない。
 凌はごくりと生唾を飲み込み、手の中の木枠を少しだけ強く握り締めた。

「……うっす。お願いします」

 差し込む西日が、二人の影を部室の床に長く引き伸ばしていく。
 放課後のざわめきが遠ざかる中、美術部の一角で、凌の物語がまた一歩、静かに動き出そうとしていた。
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