君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 部活の終了を告げる最終下校の放送が流れ、それまで沈黙を守っていた三人の部員達も、それぞれの道具を片付けて静かに部室を去っていった。
 ガラガラ、と引き戸が閉まる乾いた音が、終わりの合図のように響く。
 放課後の喧騒が完全に去った美術室には、今や西日のオレンジ色の光と、濃密な油絵の具の匂いだけが取り残されていた。
 外界からぽっかりと切り離されたようなその空間に、紫と凌の二人だけが静かに向かい合っている。
 紫は自分のイーゼルの前から使い古された木製の丸椅子を引き摺ると、凌が座っているすぐ近くまで運んできた。
 そして、椅子の背もたれが正面にくるように跨がって座る。
 背もたれの上の縁に両腕を乗せ、そこにちょこんと顎を載せると、彼女は凌の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。
 夕暮れの光が、彼女の大きな瞳の奥にあるヘーゼル色をきらきらと輝かせている。

「それじゃあ皆は帰ったことだし、じっくり話そうか」
「あの……話って、一体何なんすか?」

 あまりに真っ直ぐな視線に気圧され、凌は少し身を引くようにしながら尋ねた。
 手元には、先ほど紫から手渡されたあの『青空の絵』が、まだ大切に抱えられたままだ。

「凌君が初めてこの美術室の前へ来て、会った時に私が言ったこと、覚えてる?」
「え? えっと……」

 昨日起きた出来事を頭の中で引っ繰り返す。
 不意打ちのように肩を掴まれ、あの絵の前で勧誘された時のこと。確か、あの時――。

「……俺には、見る目がある、っすか?」
「そう、それ!」

 紫は嬉しそうにパッと顔を上げると、人差し指を凌に向けて突き出した。

「私はね、凌君の絵に対する感性の面に目をつけさせてもらったの。あの廊下には、もっと技術的に上手い絵や、派手で分かりやすく賞を獲ったような絵がいくつも並んでた。それなのに、凌君は真っ直ぐあの子の絵の前へ行って、目を奪われていたでしょう?」

 紫の声が、静かな部室に心地よく響く。

「絵を描く技術なんてものはね、後からいくらでも練習して、いくらでも身につけることができる。でも、作品の奥にある『本質』を直感で見抜く力や、心に響くものを敏感に察知するセンサー……つまり感性は、誰にでも教えられるものじゃないの。いわば、今の凌君は、まだ加工されていない眠ったままの最高級の原石、ってわけ」
「……はえ?」

 熱っぽく語る紫の前で、凌はぽかんと口を開けたまま完全に呆けていた。
 原石。感性。見る目。
 生まれてこの方、絵が苦手で、美術の授業からはいつも逃げ回っていた自分が、まさかそんな風に評価されるなんて夢にも思っていなかった。
 頭の中は処理しきれない情報で完全にキャパオーバーになり、文字通り頭の上に巨大な「?」のマークがぷかぷかと浮かんでいるようなマヌケな状態だった。
 そんな凌の分かりやすすぎるリアクションを見て、紫は目を細めた。

「ふふっ、あはは!」

 紫は我慢しきれないといった様子で、肩を小刻みに揺らしてクスクスと笑い出した。
 彼女の笑い声が、夕闇の迫る美術室の空気を優しく、けれど何処か悪戯っぽく震わせていく。
 凌はその様子を、ただただ赤面しながら見つめることしかできなかった。
< 27 / 107 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop