君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 滑り出るようにして剥き出しになった一枚の紙が、狂った風に煽られながら、ひらひらと宙を舞う。
 バササッ、と乾いた音を立てて滑空したそれは、まるで引き寄せられるようにして、床に膝をついたままの凌のすぐ目の前へと落ちてきた。
 凌は無意識の内に、その紙へと手を伸ばしていた。
 先ほどまで胸を支配していた、彼女の狂気に対する恐怖や焦燥。それらの感情は、目の前に突きつけられた白い裏面の不気味な存在感を前にして、一瞬で強烈な「好奇心」へと変質していく。
 何かを見てはいけない。これに触れたら、もう引き返せなくなる。
 本能がそう警鐘を鳴らしていたにも関わらず、凌の指先は、磁石に吸い寄せられるようにして紙の端を掴んでいた。
 凌は息を殺し、その紙をゆっくりと引っ繰り返して広げる。

「っ……これ……」

 そこに描かれていたのは、あの鮮烈な『青空』ではなかった。

「――駄目!!」

 鋭い悲鳴が響いた。
 次の瞬間、目の前が陰ったかと思うと、猛烈な勢いで彼女が突っ込んできた。
 必死に形相を変えた彼女が、凌の手からむしり取るようにして、その紙を激しく奪い取る。

「あ……!」

 強烈な力に弾かれ、凌は驚いて反射的に紙を手放した。
 指先から紙が離れた瞬間、引き裂かれるような音が屋上に小さく響く。
 彼女は奪い取った紙を、まるで自分の命そのものを隠すかのように胸元で固く抱き締めた。
 その身体は、寒さからではない、剥き出しの恐怖によってガタガタと激しく震えている。
 涙で歪んだ瞳が、憎悪と怯えの入り混じった光を湛えて凌を凝視していた。

「その紙……先輩、それって……」

 凌の声は、かすかに震えていた。
 見てはいけないものを見てしまった。その確信だけが、冷たい現実となって凌の胸に重くのしかかる。
 
 『私には時間がない』
 『これまで奪われたら私は私じゃいられなくなる』
 『あなたの右手にして』

 バラバラだったパズルのピースが、あの歪んだ右腕のデッサンと重なり合い、最悪の形を結ぼうとしていた。

「もう帰って」

 彼女の声から、先ほどまでの激昂は消え失せていた。
 代わりにそこにあるのは、完全に心を閉ざした、奈落の底のような静寂。

「本当に、いい加減にして……。君は何も見ていない。何も知らない。……もう二度と、ここには来ないで」

 震える手で紙をトートバッグの奥底へと押し込み、彼女は凌に完全に背を向けた。
 曇天の鈍い光の中、その背中は酷く小さく、今にも崩れ落ちそうなほどに脆く見えた。
 けれど、そこから放たれる拒絶の意思だけは、二度と誰も寄せ付けないほどに冷たく、強固だった。
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