君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 夕方の冷たい風が、どんよりとした曇り雲を少しずつ東の空へと押し流していた。
 雲の切れ間から溢れ出した西日が、世界を狂おしいほどの不穏な橙色に変えていく。
 放課後の終わりを告げるチャイムが遠く響く中、特別棟の最上階。
 綾瀬紫は、いつもの大きすぎる白衣の裾を揺らしながら、屋上へと続く階段を上っていた。
 一歩進むごとに、彼女の顔からいつものおどけたような笑みが消え、美術部部長としての、そして一人の『友人』としての静かな覚悟がその瞳に宿っていく。
 ギィ……と鈍い音を立てて鉄の扉が開く。
 紫は、橙色に染まる空間へと足を踏み入れた。
 彼女の軽やかな足取りは、屋上の端、コンクリートの上にぽつんと居座る人影へと向かっていく。
 紫は彼女のすぐ後ろまで近づくと、足を止め、見下ろすように辺りに乱雑に並んだキャンバスや画材を見つめた。
 地面には、昼休みに引き裂かれたままの白い紙切れが、夕日の光を浴びて血のように赤く染まりながら散らばっている。
 そのすぐ中心で、彼女は相変わらず、取り憑かれたように右手を動かし続けていた。ガリガリと硬い鉛筆の音が響く。
 背後に誰かが立っていることなど最初から分かっているはずなのに、彼女は一切の興味を示そうとはしなかった。

「先輩のくせに、何してんの」

 紫の声が、静かな屋上にぽつりと落とされる。
 いつもの快活な声音ではない。何処か呆れたような、けれど深い身内への情を孕んだ、低く落ち着いた声だった。

「…………」

 彼女は無言のまま、突然、狂ったようにスケッチブックのページを力任せに引き破った。
 ビリリッ、と鋭い音が屋上に響き渡る。彼女はその紙をくしゃくしゃに丸めると、ゴミでも捨てるようにその辺へと投げ捨てた。
 自分の右手が思うように動かない苛立ちを、そのまま紙にぶつけるかのように。
 紫は、その様子を悲しげに目を細めて見つめながら、言葉を続けた。

「大事な後輩がね、物凄く悲しそうな顔して部室に来たんだけど。泣き出しそうな、今にも消えちゃいそうな顔をしてさ」

 昼休みに凌がここへ来て、そして彼女から決定的な拒絶を受けて戻ってきたこと。紫には、全てが手に取るように分かっていた。

「……入部してないでしょ、あの子」

 彼女は、鉛筆を握る右手をガタガタと震わせながら、掠れた声でぽつりと言った。
 凌という存在を、自分の世界から、そして紫の関心から無理やり排除しようとするかのような、頑なな拒絶がその声にはあった。

「ううん。入部したよ」

 紫はふっと口元を緩め、少しだけ誇らしそうに胸を張った。

「ついさっきね、ボロボロになった入部届を持って、部室に来てくれた。きっと、ここで君に言われたことに、あの子なりに物凄く傷ついて、悩んで……それでも、ここに繋がっていたいって思ったんだろうね。まあ、あの子の字、緊張で手が震えてたみたいでさ。ぐちゃぐちゃで何書いてるか分からなかったけどね」

 橙色の光が、二人の影を屋上の床に長く、長く引き伸ばしていく。
 紫の言葉を受け止めた彼女の背中が、一瞬、痛々しいほどに強張った。
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