君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
掲げた紙の隙間から、容赦のない太陽の光が差し込んでくる。
碧南は眩しそうにその大きな瞳を細め、漏れ出る光をただ見つめていた。
二人はしばらくの間、何も言わずに空を見上げ続けていた。
時間が静かに流れていく。頭上であれほど輝いていた快晴の青は、ゆっくりと、けれど確実にその光量を落とし、世界の境界線を溶かすような鮮やかな橙色へと染まり始めていた。
「ロマンチスト、か……」
凌は、空のグラデーションを見つめたまま、心に引っ掛かっていた棘を口にした。
「俺が昨日、部室に入部届を持っていった時、綾瀬先輩が言っていたんです。自分は先輩に何度も侮辱されたって。……それって、本当ですか?」
碧南は天に向けていた手をゆっくりとおろし、小さく鼻で笑った。
「……したよ。何度も、お互いにね」
彼女の声音には、昨日までの鋭い刺はなかった。
ただ、何処か懐かしいものを振り返るような、不思議な平穏が混ざっている。
「絵を描くことそのものの楽しさを追い求める私。それに対して、絵の才能がなくて、周りに置いていかれることに激しい劣等感を抱いていた紫。当時の私達は、お互いの存在そのものが癪に障って仕方がなかったの。私がね、あいつに『色が正しく見えなくたって、動く手があるのだから絵を描き続けたらいいじゃない』って言ったらさ……紫は『色を正しく判別できて、溢れるほどの才能があるあんたには、私の気持ちなんて何も分からない』って、そう言って、私を睨みつけてきた」
「綾瀬先輩がそんな挑発的なことを言うところ……正直、全然想像できねぇっす」
凌は素直な感想を漏らした。いつも笑顔で、お調子者で、自分を優しく迎え入れてくれたあの部長が、そんな剥き出しの感情をぶつける姿など、到底結びつかなかった。
「だろうね。今は『後輩に頼られる優しい先輩』を必死に演じているから。きっと君の前では、そんな醜い姿、一生見せないと思うよ。……まあ、私が紫とそんな大喧嘩をしたのなんて、一年の、入部したばかりの頃の話だから」
そう言うと、碧南は手元のアトリエ用具を軽くまとめ、その場に座ったまま、ぐっと両腕を天に向かって大きく突き上げた。
背筋を伸ばし、深呼吸をするように気持ちよさそうに伸びをする。
夕日の暖かな光を浴びたその横顔は、昨日、凌を拒絶して泣き叫んでいた時のみっともないほどの焦燥や恐怖が嘘のように、驚くほど晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
伸びを終えた碧南は、すっと軽やかに立ち上がると、数歩先にある屋上の柵へと歩み寄った。
そして、冷たい鉄の柵を両手でしっかりと握り、体を少し乗り出すようにして、夕暮れの風の中に顔を出した。
オレンジ色の光が、彼女の横顔を逆光で照らし出す。
「君は、どうして絵を描きたいって思ったの?」
前を向いたまま、碧南は風に声を乗せるようにして問い掛けた。
それは、これまで凌を頑なに拒絶してきた彼女が、初めて彼の『内側』に興味を示した瞬間だった。
凌は少しだけ目を見開いたが、すぐに真っ直ぐな瞳で、彼女の背中を見つめて答えた。
「……初めて先輩の絵を見て、俺もこんな絵を描けるようになりたいって、心から思ったからです。それがコンテストで銀賞を取った絵だからでも、有名になりそうな先輩の絵だからでもない。……ただ、あの紙に描かれた青空の絵が、俺の目には、どうしようもないくらい綺麗に見えたからっす」
飾り気のない、けれど一切の迷いもない凌の言葉が、屋上の静寂に響く。
碧南はしばらく黙っていた。やがて、小さく、本当に小さく肩を揺らして微笑む。
「肩書じゃなくて、絵そのものを見てくれたわけだ。……うん、確かに、紫の言うとおりだね」
彼女はゆっくりと振り返り、凌の顔を正面から見据えた。
「君には、見る目がある。……それを『才能』と呼ぶか、ただの『器用』と呼ぶかは、君の自由だけどね」
その時、ゆっくりと流れてきた厚い雲が、夕暮れの太陽を完全に覆い隠した。
世界から一瞬にして鮮やかなオレンジ色の光が消え去り、柵の前に佇む碧南の顔に、昏い、静かな影が落ちた。
碧南は眩しそうにその大きな瞳を細め、漏れ出る光をただ見つめていた。
二人はしばらくの間、何も言わずに空を見上げ続けていた。
時間が静かに流れていく。頭上であれほど輝いていた快晴の青は、ゆっくりと、けれど確実にその光量を落とし、世界の境界線を溶かすような鮮やかな橙色へと染まり始めていた。
「ロマンチスト、か……」
凌は、空のグラデーションを見つめたまま、心に引っ掛かっていた棘を口にした。
「俺が昨日、部室に入部届を持っていった時、綾瀬先輩が言っていたんです。自分は先輩に何度も侮辱されたって。……それって、本当ですか?」
碧南は天に向けていた手をゆっくりとおろし、小さく鼻で笑った。
「……したよ。何度も、お互いにね」
彼女の声音には、昨日までの鋭い刺はなかった。
ただ、何処か懐かしいものを振り返るような、不思議な平穏が混ざっている。
「絵を描くことそのものの楽しさを追い求める私。それに対して、絵の才能がなくて、周りに置いていかれることに激しい劣等感を抱いていた紫。当時の私達は、お互いの存在そのものが癪に障って仕方がなかったの。私がね、あいつに『色が正しく見えなくたって、動く手があるのだから絵を描き続けたらいいじゃない』って言ったらさ……紫は『色を正しく判別できて、溢れるほどの才能があるあんたには、私の気持ちなんて何も分からない』って、そう言って、私を睨みつけてきた」
「綾瀬先輩がそんな挑発的なことを言うところ……正直、全然想像できねぇっす」
凌は素直な感想を漏らした。いつも笑顔で、お調子者で、自分を優しく迎え入れてくれたあの部長が、そんな剥き出しの感情をぶつける姿など、到底結びつかなかった。
「だろうね。今は『後輩に頼られる優しい先輩』を必死に演じているから。きっと君の前では、そんな醜い姿、一生見せないと思うよ。……まあ、私が紫とそんな大喧嘩をしたのなんて、一年の、入部したばかりの頃の話だから」
そう言うと、碧南は手元のアトリエ用具を軽くまとめ、その場に座ったまま、ぐっと両腕を天に向かって大きく突き上げた。
背筋を伸ばし、深呼吸をするように気持ちよさそうに伸びをする。
夕日の暖かな光を浴びたその横顔は、昨日、凌を拒絶して泣き叫んでいた時のみっともないほどの焦燥や恐怖が嘘のように、驚くほど晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
伸びを終えた碧南は、すっと軽やかに立ち上がると、数歩先にある屋上の柵へと歩み寄った。
そして、冷たい鉄の柵を両手でしっかりと握り、体を少し乗り出すようにして、夕暮れの風の中に顔を出した。
オレンジ色の光が、彼女の横顔を逆光で照らし出す。
「君は、どうして絵を描きたいって思ったの?」
前を向いたまま、碧南は風に声を乗せるようにして問い掛けた。
それは、これまで凌を頑なに拒絶してきた彼女が、初めて彼の『内側』に興味を示した瞬間だった。
凌は少しだけ目を見開いたが、すぐに真っ直ぐな瞳で、彼女の背中を見つめて答えた。
「……初めて先輩の絵を見て、俺もこんな絵を描けるようになりたいって、心から思ったからです。それがコンテストで銀賞を取った絵だからでも、有名になりそうな先輩の絵だからでもない。……ただ、あの紙に描かれた青空の絵が、俺の目には、どうしようもないくらい綺麗に見えたからっす」
飾り気のない、けれど一切の迷いもない凌の言葉が、屋上の静寂に響く。
碧南はしばらく黙っていた。やがて、小さく、本当に小さく肩を揺らして微笑む。
「肩書じゃなくて、絵そのものを見てくれたわけだ。……うん、確かに、紫の言うとおりだね」
彼女はゆっくりと振り返り、凌の顔を正面から見据えた。
「君には、見る目がある。……それを『才能』と呼ぶか、ただの『器用』と呼ぶかは、君の自由だけどね」
その時、ゆっくりと流れてきた厚い雲が、夕暮れの太陽を完全に覆い隠した。
世界から一瞬にして鮮やかなオレンジ色の光が消え去り、柵の前に佇む碧南の顔に、昏い、静かな影が落ちた。