君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 放課後の部室に西陽が差し込む。
 窓際に並べられた石膏像の影が長く伸びる中、誰もいなくなった室内には、鉛筆の擦れる音だけが静かに響いていた。
 カリ、カリ、カリ――。
 凌は一言も発さず、キャンバスへ向かっていた。
 制服のブレザーはとうに脱ぎ捨てられ、白シャツの袖は肘の上まで乱雑に捲り上げられている。
 足元には丸めた紙が散乱し、机の上には消しカスが雪のように積もっていた。

「……また描き直しかよ」

 小さく吐き捨て、再び描いた線を消しゴムで消す。絵の基礎など何も知らない凌には、ひたすら鉛筆を動かすしか方法がなかった。
 基礎を知らないのに書き上げなくてはならない。なのにどれだけ線を重ねても気に入らない。
 構図も、色も、光の入り方も、その全てが。
 頭の中にある鮮烈な完成形に、現実の線がまるで届かない。
 コンテストの提出期限まで、あと二週間。
 本来なら、入部したばかりの高校一年生がそこまで本気になるような大会ではないはずだった。
 けれど、凌は異様なくらいに執着していた。
 描いている間だけは、余計なことを考えなくて済むから。
 満員電車の息苦しさも。
 学校の退屈さも。
 教師への苛立ちも。
 それら全てが、白いキャンバスの中に消えていく。

「藤代君」

 不意に背後から声を掛けられ、凌の手がぴたりと止まった。
 振り返ると、美術部顧問の朝比奈(あさひな)が、呆れたような、けれどどこか心配そうな面持ちで立っていた。

「もう七時前よ」
「……マジっすか?」
「マジ。完全下校時刻、とっくに過ぎてる」

 凌は壁の時計を見て、初めて眉を顰めた。
 窓の外はすっかり帳が下りている。いつの間にか、あれほど強かった西陽も消え去っていた。

「帰りなさい。貴方、最近ずっと最後まで残っているでしょう」
「……もうちょいだけ、やらせてください」
「その“もうちょい”を、私はもう三時間前から聞いてるの」

 朝比奈は深いため息をつきながら、凌の描きかけのキャンバスへと視線を向けた。
 この学校の屋上から見た青空の絵。

「……いい絵になりそうね」

 背後から掛けられたその言葉に、凌の指先が僅かに凍りつく。

「まだ、全然っすよ」

 自嘲気味に返した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「そう思えているうちは、まだ伸びるわね」

 小さく、そっと背中を押すように笑った朝比奈は、それ以上は引き止めず、そのまま静かに部室を出ていった。
 ガラガラ、と扉が閉まり、再び濃密な静寂が落ちる。
 凌は数秒の間だけ、先生の言葉の余韻をなぞるようにぼんやりと空間を見つめていたが、すぐにまた、取り憑かれたように鉛筆を握り直した。
 カリ、カリ、カリ――。
 暗闇に、再び乾いた音が鳴り響く。
 もう、止まれなかった。止まり方が分からなかった。
 もっと上手く描きたい。
 もっと、あの人の、あの青に近づきたい。
 もっと。
 もっと――。
 熱を帯びていく頭の奥で、鉛筆の芯が削れる音だけが、心臓の鼓動のように速くなっていく。
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