君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
——その時だった。
ブブッ、ブブブッ、と静まり返った部室の机の端で、無機質な振動音が響いた。
置いていたスマホが、液晶画面を怪しく光らせながら激しく震えている。
極限まで集中していた意識を無理やり引き剥がされ、凌は不快そうに深く眉を顰めた。
(……チッ、誰だよ、こんな時に)
握った鉛筆はキャンバスに付けたままで、視線だけを億劫そうにスマホの画面へと向ける。
暗転していた液晶に浮かび上がっていたのは、見慣れた『母』の二文字だった。
一度はそのまま見なかったことにして、再び絵の世界へ没入しようと試みる。しかし、拒絶を示すように一度無視したにもかかわらず、間髪を入れずに二度目の長い振動が机を鳴らした。その執拗な震えに、これ以上は無視しきれないと悟る。
凌は尖らせた口元のまま、仕方なくキャンバスから筆先を離し、乱暴にスマホを手に取った。
ロックを解除すると、目に飛び込んできたのは冷ややかな文字列だった。
『何時だと思ってるの。もう七時半よ』
用件だけが詰め込まれた、感情の温度が見えない短いメッセージ。そして、その文面を視線でなぞり終えた直後、まるで凌がスマホを見ているタイミングを計っていたかのように、通知音と共に追加でもう一件のメッセージが画面に滑り込んできた。
『ご飯冷めるから早く帰ってきなさい』
画面から放たれる青白い光が、凌の不機嫌な顔を冷たく照らし出す。
「……はあ」
誰に届くでもない小さな溜息が夜の部室に寂しく落ちた。
すぐに画面をスリープ状態に戻し、スマホを机へと放り出す。けれど、真っ暗になった画面の向こう側で、赤く点滅を繰り返す通知ランプの光が、妙に、そして酷く不快に網膜に焼き付いて離れなかった。
家に帰れば、またあの息苦しい日常が待っている。
冷めた夕食と、義務的な親の小言。せっかくキャンバスに向き合うことで忘れかけていた現実の気配が、スマホの通知という薄いガラスの板一枚を通じて、この神聖な旧校舎の部室にまで容赦なく侵食してくるようだった。
凌はしばらくの間、怒りをぶつけるようにして描きかけのキャンバスをじっと睨みつけていた。
あと少しだけ線を引けば、あと少しだけ色を重ねれば、何かが変わるかもしれない。そんな執念が彼を足留めしようとする。
けれど、一度途切れてしまった集中力の糸は、どれだけ手元を睨んでも元には戻らなかった。
やがて、これ以上抗うのは無駄だと諦めたように、凌は天を仰ぎ、胸の奥に溜まった澱を全て吐き出すようにして深く、長い息を吐き出した。
「……家でやるか」
誰に言い訳するでもなくそう呟くと、固く握りしめられていた鉛筆を、諦めの悪い音を立てて机の上へと転がした。
椅子の背もたれから身体を離し、ゆっくりと立ち上がった瞬間、何時間も同じ姿勢で描き続けていたせいで、完全に固まっていた肩や背中の関節が悲鳴を上げるようにパキパキと鈍く軋んだ。その肉体的な痛みが、自分がどれほど異常な時間をこの絵に捧げていたのかを、今更になって凌に自覚させる。
脱ぎ捨てていたブレザーを拾い上げ、乱雑に捲り上げていた白シャツの袖を戻しながら、凌は帰り支度の手を止めて、ちらりとイーゼルの上に残された描きかけの絵を見つめた。
夜の帳に包まれた部室の光の中で見るそれは、昼間よりもずっと、歪で、不格好に見えた。
まだ全然足りない。
碧南の見た世界にも、紫の隠す世界にも、そして自分の頭の中にある鮮烈な完成形にも、今の実力では遠く及ばない。
果てしない道のりと自分の圧倒的な技術不足に、普通なら絶望して投げ出してしまいたくなるはずだった。
なのに、不思議だった。
胸の奥を焦がすような悔しさのすぐ隣で、明日もまた、放課後になったら真っ先にこの場所へ来て、あの白いキャンバスの続きを描きたいと思っている自分がいた。
義務でも、誰かのためでもない。
ただ、自分の世界の全てをあの青に染め上げたいという静かな渇望が、凌の心の中で確かに、熱く脈打ち始めていた。
ブブッ、ブブブッ、と静まり返った部室の机の端で、無機質な振動音が響いた。
置いていたスマホが、液晶画面を怪しく光らせながら激しく震えている。
極限まで集中していた意識を無理やり引き剥がされ、凌は不快そうに深く眉を顰めた。
(……チッ、誰だよ、こんな時に)
握った鉛筆はキャンバスに付けたままで、視線だけを億劫そうにスマホの画面へと向ける。
暗転していた液晶に浮かび上がっていたのは、見慣れた『母』の二文字だった。
一度はそのまま見なかったことにして、再び絵の世界へ没入しようと試みる。しかし、拒絶を示すように一度無視したにもかかわらず、間髪を入れずに二度目の長い振動が机を鳴らした。その執拗な震えに、これ以上は無視しきれないと悟る。
凌は尖らせた口元のまま、仕方なくキャンバスから筆先を離し、乱暴にスマホを手に取った。
ロックを解除すると、目に飛び込んできたのは冷ややかな文字列だった。
『何時だと思ってるの。もう七時半よ』
用件だけが詰め込まれた、感情の温度が見えない短いメッセージ。そして、その文面を視線でなぞり終えた直後、まるで凌がスマホを見ているタイミングを計っていたかのように、通知音と共に追加でもう一件のメッセージが画面に滑り込んできた。
『ご飯冷めるから早く帰ってきなさい』
画面から放たれる青白い光が、凌の不機嫌な顔を冷たく照らし出す。
「……はあ」
誰に届くでもない小さな溜息が夜の部室に寂しく落ちた。
すぐに画面をスリープ状態に戻し、スマホを机へと放り出す。けれど、真っ暗になった画面の向こう側で、赤く点滅を繰り返す通知ランプの光が、妙に、そして酷く不快に網膜に焼き付いて離れなかった。
家に帰れば、またあの息苦しい日常が待っている。
冷めた夕食と、義務的な親の小言。せっかくキャンバスに向き合うことで忘れかけていた現実の気配が、スマホの通知という薄いガラスの板一枚を通じて、この神聖な旧校舎の部室にまで容赦なく侵食してくるようだった。
凌はしばらくの間、怒りをぶつけるようにして描きかけのキャンバスをじっと睨みつけていた。
あと少しだけ線を引けば、あと少しだけ色を重ねれば、何かが変わるかもしれない。そんな執念が彼を足留めしようとする。
けれど、一度途切れてしまった集中力の糸は、どれだけ手元を睨んでも元には戻らなかった。
やがて、これ以上抗うのは無駄だと諦めたように、凌は天を仰ぎ、胸の奥に溜まった澱を全て吐き出すようにして深く、長い息を吐き出した。
「……家でやるか」
誰に言い訳するでもなくそう呟くと、固く握りしめられていた鉛筆を、諦めの悪い音を立てて机の上へと転がした。
椅子の背もたれから身体を離し、ゆっくりと立ち上がった瞬間、何時間も同じ姿勢で描き続けていたせいで、完全に固まっていた肩や背中の関節が悲鳴を上げるようにパキパキと鈍く軋んだ。その肉体的な痛みが、自分がどれほど異常な時間をこの絵に捧げていたのかを、今更になって凌に自覚させる。
脱ぎ捨てていたブレザーを拾い上げ、乱雑に捲り上げていた白シャツの袖を戻しながら、凌は帰り支度の手を止めて、ちらりとイーゼルの上に残された描きかけの絵を見つめた。
夜の帳に包まれた部室の光の中で見るそれは、昼間よりもずっと、歪で、不格好に見えた。
まだ全然足りない。
碧南の見た世界にも、紫の隠す世界にも、そして自分の頭の中にある鮮烈な完成形にも、今の実力では遠く及ばない。
果てしない道のりと自分の圧倒的な技術不足に、普通なら絶望して投げ出してしまいたくなるはずだった。
なのに、不思議だった。
胸の奥を焦がすような悔しさのすぐ隣で、明日もまた、放課後になったら真っ先にこの場所へ来て、あの白いキャンバスの続きを描きたいと思っている自分がいた。
義務でも、誰かのためでもない。
ただ、自分の世界の全てをあの青に染め上げたいという静かな渇望が、凌の心の中で確かに、熱く脈打ち始めていた。