君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 少し悩んだ末、凌は迷いを振り払うようにして、ボールペンの先を勢いよく走らせた。
 カリ、カリ、と静かな美術部室に硬い金属音が響き、最後の一文字を力強く書き終える。
 その間、紫は何も言わず、ただ静かに凌の横顔を見つめていた。
 学校での普段の凌は、周囲に対して刺々しいオーラを纏っている。
 教師の言うことにはあからさまに反抗的な態度を取り、クラスの輪に混ざろうともせず、面倒事を嫌って誰かと深く関わることを避けているように見える。
 けれど、絵を描いている時、そしてこうして絵に向き合っている時だけは、彼はまったく違う顔を見せるのだ。
 今も、提出用紙に視線を落として文字を紡ぐその表情は、不器用なほどに真っ直ぐで、不思議なくらい真剣で穏やかだった。
 まるで、普段の尖った殻をすべて脱ぎ捨てた別人みたいに。

(本当に、この場所が……絵を描くことが、好きなんだな)

 紫は胸の奥を温かいもので満たされるような、ぼんやりとした心地でそんなことを思っていた。
 その熱を帯びた視線に気がついたのか、不意に凌が顔を上げる。

「……なんすか」

 至近距離で、二人の視線が真っ向からぶつかる。
 紫は一瞬だけ、秘密を見咎められた子供のようにヘーゼル色の目を丸くした後、すぐにいつもの笑みを浮かべて誤魔化すように言った。

「いや、ちゃんと真面目に書いてるなーって思って」
「……それ、完全に子供扱いしてません?」
「してない、してない。ただの感心だよ」

 クスクスと方を揺らして楽しそうに笑う紫。
 凌は居心地が悪そうにバツの悪そうな顔で眉を顰めながら、完成した用紙を差し出した。

「ん、書けた?」
「はい。一応、書けました」
「はーい、ちょっと確認するねー」

 紫は細い指先で紙を受け取り、上から順番に記入欄へ目を通していく。

「氏名おっけー、学年おっけー、連絡先も……うん。それで、作品タイトルは……。へえ、いいね、これ」
「……変ですか」

 凌は少し不安そうに視線を泳がせ、ぶっきらぼうに尋ねる。
 紫は顔を上げて、悪戯っぽく微笑んだ。

「ううん。全然。なんだか、すごく凌君っぽいなって思っただけ」
「なんすかそれ。意味分かんねぇし」

 揶揄われたと思ったのか、凌はふいっと顔を背けた。そんな彼の反応がおかしいのか、紫はまた少しだけ声を殺して笑う。
 彼女のその笑い方は、学校の廊下や教室で見せるものよりも、この美術部室にいる時が一番柔らかくて、嘘がないように思えた。

「うん、全部バッチリ。それじゃあ、この書類は私から顧問の先生に提出しておくね。作品の搬入の手続きもやっておくから、凌君は安心して」

 そう言って手元の書類をトントンと綺麗に重ねた紫は、ふと、教卓の隣に立て掛けられたままのキャンバスへと視線を移した。
 そこに描かれていたのは、あの「青空」だった。凌が自宅の部屋で、そしてこの部室で、自身の全てをぶつけるようにして描き上げた『凌に見える青空』。
 何処か冷たくて、静かで、少し寂しくて。けれど、画面の奥から滲み出る色彩は、言葉にできないほど優しく世界を照らしている。
 紫は、ほんの僅かにその目を細め、慈しむようにキャンバスを見つめた。

「……本当に、いい絵だね」

 ぽつりと、祈るように呟かれたその言葉を受け止めた瞬間、凌の喉が微かに詰まった。
 生まれてこの方、誰かに自分の成果を真っ直ぐに褒められた経験なんてほとんどない。
 だから、胸の奥がひどく疼いて、どう返せばいいのか、どんな顔をすれば正解なのかが全く分からなかった。

「……どうも」

 結局、視線を足元に落としたまま、不機嫌そうにぶっきらぼうな声を返すことしかできない。
 けれど紫は、凌のその不器用な照れ隠しがおかしくて堪らないと言うように、また小さく優しく笑っていた。
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