君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 凌は、数週間同じ姿勢を続けたせいで強張ってしまった肩を、パキパキと音を立てて回した。それから、ようやく呪縛の解けた椅子から立ち上がる。
 向かうのは、部室の奥だ。
 教卓の近くでは、部長である紫が一人、山積みにされた部活動の書類を整理していた。
 細く白い指先で、規則正しくプリントをトントンと揃える彼女の佇まいは、それ自体が完成された一枚の絵画のように見える。
 窓から差し込む斜陽が、彼女の憂いを帯びた横顔を淡く、美しく縁取った。
 凌は、まだ絵の具の匂いが瑞々しく残るキャンバスを両手で大事に抱えたまま、彼女の元へと近付いていった。

「綾瀬先輩、作品……できました」

 その声を掛けられた瞬間、紫は書類を繰る手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
 最初は、一瞬だけ驚いたようにそのヘーゼル色の目を丸く瞬かせ、それから、全てを察したようにふっと柔らかく、慈しむような笑みを浮かべた。

「お!  ついに完成したんだね、凌君」

 心の底から嬉しそうな、弾んだ声音だった。
 紫は教卓の上に広げていた書類の山から、あらかじめ用意されていたと思われる一枚の白い上質紙を取り出す。それを凌の前へと滑らせるように差し出した。

「それじゃあ、まずはこの紙に必要事項を記入してくれる?」
「……あぁ、こういう面倒くさい手順があるんすね」
「ふふ、コンテストの正式な提出用用紙だからね。作者の名前とか、所属とか、作品のタイトルとか、色々書いてもらわないと事務局が困っちゃうのよ」

 凌は「めんどくさ……」と声を潜めて小さく呟きながら、手渡された用紙を受け取った。
 そして、教卓の端の空いているスペースに、自分の命を削るようにして描き上げたキャンバスをそっと立て掛ける。
 傍らに置かれていた事務用の黒いボールペンを手に取った。
 用紙の白さに気圧されながらも、ペン先を落としていく。
 氏名、藤代凌。
 学年、一年。
 そして、その次にある『作品タイトル』という記入欄の項目を目にしたところで、凌のペン先が、ピタリと宙で止まった。

(タイトル……)

 今まで、ただただ目の前の青を形にすることだけに全神経を注ぎ込んできた。
 この絵にどんな「名前」を与えるべきかなど、これまでの思考の中に、一秒たりとも存在していなかったのだ。
 ボールペンのインクが、白い紙の上でじわりと小さな点を作っていく。
 目の前に立て掛けられた、自分だけの『青空』。
 碧南が絶望し、紫が灰色に捉え、そして自分が狂気の中で手繰り寄せた、あの屋上の景色。
 凌は動きを止めたまま、じっとキャンバスの青を見つめ、思考の海へと深く沈んでいった。
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