君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 凌は無意識の内に、固く握り締められた彼女の右手へと視線を落とした。
 細くしなやかな指先。爪の端に残る、画家の勲章のような絵の具の汚れ。そして、衣服の擦れる音に紛れてしまいそうなほどの、ほんの僅かな――けれど確実に始まりを告げている、筋肉の震え。
 未来は何処までも残酷だ。
 いつかその手が鉛筆の重さに耐えかね、思うように筆を動かせなくなる日が来ることを、医学の現実は無慈悲に予告している。
 それでもこの人は、タイムリミットの迫るキャンバスに向き合い、世界の全てを描こうとしている。

「……碧南」

 堪えきれず、祈るような心地でその名前を呼ぶと、碧南は静かに凌の瞳を見つめ返した。
 その瞳の奥は、今にも決壊してしまいそうなほどに、泣きそうに潤んでいるように見えた。

「凌には、凌にしか描けない絵があるよ」

 トントン、と心臓の鼓動を打つように、優しく、彼女の言葉が落ちてくる。

「私には描けない絵。誰かを待ちながら、誰かに会いたいって願いながら描く絵」

 碧南は愛おしそうに微かに目を細めた。

「君の絵、不器用で、真っ直ぐで、少し寂しくて……でもすごく優しいから」

 凌は完全に言葉を失った。喉の奥が熱くなり、上手い台詞が何一つ出てこない。
 これまでの人生で、そんな風に自分の本質を全肯定されたことなんて、一度だってなかったからだ。
 世間の大人立ちは、技術が上手いか下手か、数字としてのセンスがあるかないか、そんな味気ない物差しでしか自分を見てくれなかった。
 けれど、碧南は違った。
 この人は技術の巧拙などではなく、凌が引いた一本の線の奥に隠された、剥き出しの感情そのものを見てくれている。

「だから」

 碧南はそっと、今日一番の確信を込めて微笑んだ。

「どうか、君だけの絵を描き続けて」

 一段と強い風が吹き抜けた。
 碧南の長い黒髪がふわりと揺れて、微かに夏の青い匂いが立ち込める。
 その瞬間だった。
 凌は生まれて初めて、自分がこれからも「絵を描き続けたい」と、心の底から強く願っていることに気がついた。
 学校の評価のためでも、美術部という居場所を守るためでも、コンテストの賞のためでもない。
 ただ、この人に自分の絵を見せたいと思った。自分の描く不器用な世界を、この人があんな風に優しい目で見てくれるなら。
 たとえこの先、どんな絶望が待っていようとも。彼女がその目で見届けてくれる限り、自分は何度でも筆を執り、キャンバスに向き合い続けたいと、凌は強く心に誓っていた。
 賞のためでも。
 部活のためでもない。
 ただ、この人に見せたいと思った。
 碧南が見てくれるなら、この先も、描き続けたいと。
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