君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 遠くのグラウンドからは運動部の微かな掛け声が響き、屋上のフェンスが風に煽られて軋むような音が微かに聞こえてきた。
 けれど、凌にとっては、その瞬間だけ世界から全ての音が消え去ってしまったかのようだった。
 鼓膜に響くのは、ただ目の前にいる少女の静かな吐息と、繋がれた掌から伝わる熱だけだった。
 碧南は凌の手を握ったまま、視線をゆっくりと窓の外の空へと戻した。
 何処までも高く、何処までも深い、圧倒的な青。
 白い雲は生き物のようにゆっくりと形を変えながら流れていき、傾き始めた太陽の光は、一秒ごとにその色彩を変え、眼下に広がる街の輪郭を刻一刻と塗り替えていく。

「ねぇ、凌」

 刻々と移り変わる空を見つめたまま、碧南はぽつりと呟いた。

「私はね」

 降り落ちる西陽を浴びた彼女の横顔は、不思議なくらいに穏やかで、満ち足りているように見えた。

「頭の上で毎秒ごとに移り変わる青空を、全部絵にしたいんだ」

 凌は何も言えず、ただ黙って彼女の横顔を見つめることしかできなかった。
 碧南の声は低く、何処までも静かだ。なのに、その一言一言が重い質量を持って、凌の胸の奥深くへと沈み込んでくる。

「朝の空も、夕方の空も、雨が降る前の空も。夏と冬じゃ色が全然違うし、人の気持ちでも見え方が変わる」

 碧南は空いた左手を、自らの胸元へとそっとあてがった。薄い病衣の奥にある、彼女自身の心を確かめるように。

「苦しい日に見上げる空と、幸せな日に見上げる空は、同じ青なのに全然違うから」

 その言葉の意味を理解した瞬間、凌は小さく息を呑んだ。
 きっとこの人は、気の遠くなるような時間、ずっと一人で空を見続けてきたのだ。誰よりも必死に、誰よりも貪欲に。
 いつか訪れる「その時」が来て全てを失ってしまう前に、世界の美しさを網膜の裏へと焼き付けるように。

「だから私は描くの」

 碧南はゆっくりと凌を見上げて、優しく笑った。

「忘れたくないから」

 逆光のなかで咲いたその笑顔は、息を呑むほど綺麗だった。
 けれど同時に、指先で少し触れただけで粉々に砕け散ってしまいそうなほど、痛々しく、儚かった。
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