君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
夕暮れが迫る放課後の屋上。錆びついた柵に肘をつき、凌はぼんやりと眼下に広がる街並みを眺めていた。
西へ傾き始めた陽射しが校舎の窓をオレンジ色に焼き、遠くの鉄橋を走る電車の屋根が鈍く反射している。
グラウンドからは、遠い世界の出来事のように運動部の掛け声が小さく響いていた。
時折吹き抜ける生ぬるい風が、まだ熱を持ったままの身体をゆっくりと冷ましていく。
見上げた空は、何処までも青かった。
碧南が描くような、全てを吸い込みそうなくらいに澄み切った、深く鮮烈な青。
(……俺、何やってんだろ)
フェンスに背中を預けたまま、凌は肺の底から小さく息を吐き出した。
数日前の遣り取りが、どうしても頭から離れてくれない。
繋いだままだった手の、指先の温もり。真っ直ぐに自分を射抜いた潤んだ視線。そして、耳元に今も残る「どうか、君だけの絵を描き続けて」という掠れた声。
記憶がフラッシュバックするたびに、胸の奥が妙にざわつき、心臓が不規則なビートを刻む。
今まで生きてきて、一度も味わったことのない、名前も分からない感情に、凌は酷く戸惑っていた。
その時だった。
誰もいない静寂の屋上に、不意に無機質な電子音が響き渡る。
ブブッ、ブブッ、と、ズボンのポケットの中で短い振動が何度も繰り返された。
「……誰だよ」
凌は思考を遮られたことに眉を顰めながら、スマートフォンを取り出した。
液晶画面に浮かび上がっていたのは、『綾瀬先輩』の四文字。その文字の下で、緑色の通話ボタンがせわしなく明滅している。
いつもならメッセージの一言で済ませる紫が、わざわざ直に電話をかけてくるなんて珍しい。
不吉な予感が胸の隙間に滑り込んでくるのを感じながら、凌は画面をスワイプし、スマホを耳へと当てた。
「綾瀬先輩? どうしたんすか」
極めていつも通りのトーンを装って声を掛けた、その次の瞬間だった。
『大変なの! 凌君、今すぐ、とにかく今すぐ部室に来て!』
鼓膜に飛び込んできたのは、ひどく切羽詰まった紫の叫び声だった。
普段の、すべてを見透かしたような飄々とした緩い調子は欠片もない。呼吸の乱れすら、電波を通して生々しく伝わってくる。
凌の表情が一瞬で強張った。
「は、今からっすか? 一体何があったんすか、先輩」
『説明は後! お願い、とにかく今すぐに来て――!』
「ちょ、先輩、待って――」
凌の制止も虚しく、ツーツーという無機質な電子音を残して一方的に通話が切れた。
耳元から音が消え、スマホの画面がゆっくりと深い暗転に沈んでいく。
凌は数秒の間、その真っ黒な液晶画面を凝視したまま立ち尽くしていた。
「……なんだよ、これ」
ドクドクと、心臓の鼓動が嫌な速度で跳ね上がり始める。
ただ事ではない。紫のあんなに怯えたような声を、凌は今まで一度だって聞いたことがなかった。
学校で起きたトラブルか、あるいは、コンテストの絵に何かあったのか。
最悪の想像が脳裏を過ぎり、凌は舌打ち混じりにスマホをズボンのポケットへ突っ込むと、勢いよく踵を返した。
あの日、碧南と出会った時と同じように、開け放たれた屋上の扉に向かって全力で地を蹴る。
ガンッ、と鉄製の重い扉を力任せに押し開ける激しい音が屋上に響き渡り、旧校舎の階段を一段飛ばしで駆け下りる荒い足音が、薄暗い校舎の奥へと不穏に反響していった。
西へ傾き始めた陽射しが校舎の窓をオレンジ色に焼き、遠くの鉄橋を走る電車の屋根が鈍く反射している。
グラウンドからは、遠い世界の出来事のように運動部の掛け声が小さく響いていた。
時折吹き抜ける生ぬるい風が、まだ熱を持ったままの身体をゆっくりと冷ましていく。
見上げた空は、何処までも青かった。
碧南が描くような、全てを吸い込みそうなくらいに澄み切った、深く鮮烈な青。
(……俺、何やってんだろ)
フェンスに背中を預けたまま、凌は肺の底から小さく息を吐き出した。
数日前の遣り取りが、どうしても頭から離れてくれない。
繋いだままだった手の、指先の温もり。真っ直ぐに自分を射抜いた潤んだ視線。そして、耳元に今も残る「どうか、君だけの絵を描き続けて」という掠れた声。
記憶がフラッシュバックするたびに、胸の奥が妙にざわつき、心臓が不規則なビートを刻む。
今まで生きてきて、一度も味わったことのない、名前も分からない感情に、凌は酷く戸惑っていた。
その時だった。
誰もいない静寂の屋上に、不意に無機質な電子音が響き渡る。
ブブッ、ブブッ、と、ズボンのポケットの中で短い振動が何度も繰り返された。
「……誰だよ」
凌は思考を遮られたことに眉を顰めながら、スマートフォンを取り出した。
液晶画面に浮かび上がっていたのは、『綾瀬先輩』の四文字。その文字の下で、緑色の通話ボタンがせわしなく明滅している。
いつもならメッセージの一言で済ませる紫が、わざわざ直に電話をかけてくるなんて珍しい。
不吉な予感が胸の隙間に滑り込んでくるのを感じながら、凌は画面をスワイプし、スマホを耳へと当てた。
「綾瀬先輩? どうしたんすか」
極めていつも通りのトーンを装って声を掛けた、その次の瞬間だった。
『大変なの! 凌君、今すぐ、とにかく今すぐ部室に来て!』
鼓膜に飛び込んできたのは、ひどく切羽詰まった紫の叫び声だった。
普段の、すべてを見透かしたような飄々とした緩い調子は欠片もない。呼吸の乱れすら、電波を通して生々しく伝わってくる。
凌の表情が一瞬で強張った。
「は、今からっすか? 一体何があったんすか、先輩」
『説明は後! お願い、とにかく今すぐに来て――!』
「ちょ、先輩、待って――」
凌の制止も虚しく、ツーツーという無機質な電子音を残して一方的に通話が切れた。
耳元から音が消え、スマホの画面がゆっくりと深い暗転に沈んでいく。
凌は数秒の間、その真っ黒な液晶画面を凝視したまま立ち尽くしていた。
「……なんだよ、これ」
ドクドクと、心臓の鼓動が嫌な速度で跳ね上がり始める。
ただ事ではない。紫のあんなに怯えたような声を、凌は今まで一度だって聞いたことがなかった。
学校で起きたトラブルか、あるいは、コンテストの絵に何かあったのか。
最悪の想像が脳裏を過ぎり、凌は舌打ち混じりにスマホをズボンのポケットへ突っ込むと、勢いよく踵を返した。
あの日、碧南と出会った時と同じように、開け放たれた屋上の扉に向かって全力で地を蹴る。
ガンッ、と鉄製の重い扉を力任せに押し開ける激しい音が屋上に響き渡り、旧校舎の階段を一段飛ばしで駆け下りる荒い足音が、薄暗い校舎の奥へと不穏に反響していった。