君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
「ちゃんと、見つけてもらえたんだ」
ぽつりと零れ落ちたその言葉に、隣にいた紫は不思議そうに首を傾げた。
「見つけてもらえた……? 審査員の人に、ってこと?」
「うん、それもあるけど。そうじゃなくて」
碧南の視線は、キャンバスの深い青から一瞬たりとも離れない。まるで、そこに描かれた筆跡のひとつひとつから、彼の体温を感じ取ろうとするかのように。
「この絵の奥に隠れている、藤代凌っていう、どうしようもなく不器用な人間を……ちゃんと、見つけてもらえたんだなって」
紫はそれ以上は何も言わず、ただ静かに碧南の横顔を見つめていた。
西陽を反射する瞳が、かつてないほど穏やかで、同時にひどく厳かだったからだ。
しばらくして、紫は張り詰めた空気を和らげるように、小さく肩を竦めてみせた。
「……ふふ、きっと、あの病院で眠っている澄朱華先輩がこの場にいて、凌君の絵を見ても、今の碧南と全く同じことを言うだろうねぇ」
――『澄朱華』。
その懐かしい名前が紫の唇から形を成して零れ出た瞬間、碧南の瞳が微かに、繊細に揺れた。
けれど、その揺らぎは、かつて彼女の胸を幾度も締め付けた「絶望」や「痛み」によるものではなかった。
今の彼女の瞳にあるのは、ただ通り過ぎていった大切な季節を愛おしむような、純粋な懐かしさだけ。
「いや……」
碧南はゆっくりと、しかし明確に首を横に振った。
「それは違うよ、紫」
「何が違うの?」
紫が素直に聞き返す。
碧南は再び、顔を上げて展示された作品を見上げた。
圧倒的な広がりを見せる、たった一枚の青空。
切り取られた世界の境界線である、屋上の鉄柵。
誰もいないはずなのに、確かにそこに“大切な誰か”が存在しているのだと肌で感じられる、温度を持った風景。
その絵を、自らの魂に焼き付けるように見つめながら、碧南は静かに、けれど強く言葉を紡ぐ。
「この絵は、澄朱華先輩の絵と同じじゃない。先輩の真似でも、劣化コピーでもない。これは、紛れもなく凌だけの絵だよ」
紫は驚いたように、ぱちぱちと目を瞬かせた。碧南がここまで他人の芸術を、藤代凌という後輩の存在を個として認める発言をするなんて、思ってもみなかったからだ。
碧南は言葉を止めない。
「でもね……一度その視界に入れたら、死ぬまで二度と忘れられなくなってしまうところだけは――あの人の絵と、全く同じなんだ」
その声には、不思議なくらいに絶対的な確信が満ちていた。
展示会場を満たす一般客たちの静かなざわめきが、今の二人にとっては、遠い世界の出来事のように掠れて聞こえる。
碧南は愛おしそうに目を細めた。
「澄朱華先輩の絵はね、私に『世界はこんなにも美しくて、綺麗だったんだ』ってことを、命を懸けて教えてくれた。……そして」
そこまで言って、碧南はそっと自分の右手を左手で包み込んだ。近い未来、動かなくなるかもしれない、絵の具の滲んだ自分の手を。
「凌の絵は――……誰かを想うということが、こんなにも苦しくて痛いのに、どうしようもないくらい温かいんだってことを、私達に教えてくれる」
紫は思わず息を呑み、言葉を失った。
碧南の視線は、もう作品から、凌の描いた青空から離れることはなかった。
「技術の高さじゃない、計算された構図でもない、天性の色彩センスでもない」
自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を重ねていく。
「この絵のなかには、藤代凌という人間が、彼の魂が、そのまま生きて呼吸している。だから強いんだよ」
その声は、何処までも優しく、何処までも静かだった。
だからこそ、聞いた者の胸を直接震わせるような、計り知れない重さがある。
「かつて、澄朱華先輩が私に、絵を描く本当の理由をくれたように」
碧南は、ふっと悪戯っぽく、けれど最高に美しい笑みを浮かべた。
「きっとこの子は……この先、誰かに『生きる理由』を丸ごと与えてしまうような、そんな救いの絵を描く画家になる」
まるで遠い未来の、まだ誰も見たことのない、けれど確実に訪れる光輝く奇跡の瞬間をその目で見つめているかのように、最大級の確信を込めて呟いた。
「だから私は、この絵から……藤代凌という始まりの光から、どうしても目を離せないんだよ」