君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
展示教室の最奥。そこだけ、他とは明らかに密度が違う、不自然なくらい大きな人だかりができていた。
数人の学生が熱心に何かを囁き合い、保護者らしき女性は手元のパンフレットと絵を何度も交互に見比べながら、心底感心したように深く頷いている。
紫が驚いたように小さく目を丸くした。
「……あそこじゃない?」
「みたいだね」
碧南の声はいつになく静かだった。二人は人混みの隙間を縫うようにして、その一角へと近づいていく。
白い壁面に飾られた、数枚の最優秀賞作品。
その中央、天井からのスポットライトを一身に浴びるようにして、一枚の絵が堂々と鎮座していた。
「あ…………」
その絵が視界に入った瞬間、碧南は思わず小さく口を開けたまま、立ち尽くしてそれを見上げた。
『君の手が動く限り、俺は隣にいたいから』
添えられたそのタイトルが、全てを物語っていた。
凌がこの絵にどれほどの祈りを込めたのか、そして、この不器用で真っ直ぐなタイトルがあるからこそ、この作品が本当の意味で「完成」したのだということが、碧南の胸に強烈な質量で突き刺さる。
そして、タイトルの下に丁寧に記された、制作者の名前。
『一年 藤代 凌』
紫が隣で、思わずといった風に息を呑んだ。
「……ほんとに、飾られてる」
分かっていたはずのことなのに、こうして額縁に収まり、スポットライトに照らされる我が身を見ると、妙に現実感が薄れていく。
絵に描かれているのは、あの日、碧南屋上で見上げた広大な空だった。
疎らに浮かぶ白い雲と、その先へ何処までも続いていく深く澄んだ青。
一見すれば何処にでもある、ただの風景画なのかもしれない。けれど、不思議なほどに冷たい一貫性はそこになかった。
そのキャンバスは、まるで誰かが訪れるその瞬間を、ずっと、健気に待ち続けているかのような体温を孕んでいる。
世界に二つとない、この一枚でしか表現し得ない唯一無二の青空が、そこに確かに広がっていた。
周囲の来場者たちからも、途切れることなく小さな感嘆の声が漏れている。
「この空気感、凄くない……?」
「なんか、映画のワンシーンを切り取ったみたい」
「人が一人も描かれていないのに、不思議と『誰かがそこにいる』感じがするよね」
断片的に耳へと飛び込んでくる称賛の言葉に、紫はまるで自分のことのように誇らしげに、何度も深く頷いていた。
「ほら! 碧南、ちゃんと伝わってるじゃん、凌君の想い!」
けれど、碧南は何も言わなかった。
ただ静かに、魂を吸い込まれるようにその青を見つめ続けている。長い、長い沈黙。
やがて彼女は、愛おしむように小さく目を細めた。
「……本当に」
ぽつりと、掠れた声が零れ落ちる。
「君らしい絵だね」
その声音は何処までも優しく、そして、ほんの少しだけ寂しそうだった。
紫が隣から、そっと碧南の横顔を覗き込む。彼女の表情は穏やかだった。けれど、その美しい瞳の奥には、様々な色が混ざり合った複雑な感情が微かに揺らめいている。
もうすぐ筆を奪われる自分への――羨望。
自分の遺した風景を彼が繋いでくれたことへの――安堵。
そして、自分の見込んだ後輩がここまで連れてきてくれたことへの――誇らしさ。
碧南はゆっくりと絵に一歩近づき、作品のすぐ横に貼られた小さなプレートへと視線を落とした。
そこには、審査員の講評がこう添えられていた。
『描写技術以上に、“誰かを待つ感情”が空間全体へと強く表現されている。観る者の記憶や眠っていた感情を、静かに、しかし鮮烈に呼び起こす傑作である』
その一文を目にした瞬間、碧南は、張り詰めていた全ての荷物を下ろしたかのように、ふっと小さく笑った。
数人の学生が熱心に何かを囁き合い、保護者らしき女性は手元のパンフレットと絵を何度も交互に見比べながら、心底感心したように深く頷いている。
紫が驚いたように小さく目を丸くした。
「……あそこじゃない?」
「みたいだね」
碧南の声はいつになく静かだった。二人は人混みの隙間を縫うようにして、その一角へと近づいていく。
白い壁面に飾られた、数枚の最優秀賞作品。
その中央、天井からのスポットライトを一身に浴びるようにして、一枚の絵が堂々と鎮座していた。
「あ…………」
その絵が視界に入った瞬間、碧南は思わず小さく口を開けたまま、立ち尽くしてそれを見上げた。
『君の手が動く限り、俺は隣にいたいから』
添えられたそのタイトルが、全てを物語っていた。
凌がこの絵にどれほどの祈りを込めたのか、そして、この不器用で真っ直ぐなタイトルがあるからこそ、この作品が本当の意味で「完成」したのだということが、碧南の胸に強烈な質量で突き刺さる。
そして、タイトルの下に丁寧に記された、制作者の名前。
『一年 藤代 凌』
紫が隣で、思わずといった風に息を呑んだ。
「……ほんとに、飾られてる」
分かっていたはずのことなのに、こうして額縁に収まり、スポットライトに照らされる我が身を見ると、妙に現実感が薄れていく。
絵に描かれているのは、あの日、碧南屋上で見上げた広大な空だった。
疎らに浮かぶ白い雲と、その先へ何処までも続いていく深く澄んだ青。
一見すれば何処にでもある、ただの風景画なのかもしれない。けれど、不思議なほどに冷たい一貫性はそこになかった。
そのキャンバスは、まるで誰かが訪れるその瞬間を、ずっと、健気に待ち続けているかのような体温を孕んでいる。
世界に二つとない、この一枚でしか表現し得ない唯一無二の青空が、そこに確かに広がっていた。
周囲の来場者たちからも、途切れることなく小さな感嘆の声が漏れている。
「この空気感、凄くない……?」
「なんか、映画のワンシーンを切り取ったみたい」
「人が一人も描かれていないのに、不思議と『誰かがそこにいる』感じがするよね」
断片的に耳へと飛び込んでくる称賛の言葉に、紫はまるで自分のことのように誇らしげに、何度も深く頷いていた。
「ほら! 碧南、ちゃんと伝わってるじゃん、凌君の想い!」
けれど、碧南は何も言わなかった。
ただ静かに、魂を吸い込まれるようにその青を見つめ続けている。長い、長い沈黙。
やがて彼女は、愛おしむように小さく目を細めた。
「……本当に」
ぽつりと、掠れた声が零れ落ちる。
「君らしい絵だね」
その声音は何処までも優しく、そして、ほんの少しだけ寂しそうだった。
紫が隣から、そっと碧南の横顔を覗き込む。彼女の表情は穏やかだった。けれど、その美しい瞳の奥には、様々な色が混ざり合った複雑な感情が微かに揺らめいている。
もうすぐ筆を奪われる自分への――羨望。
自分の遺した風景を彼が繋いでくれたことへの――安堵。
そして、自分の見込んだ後輩がここまで連れてきてくれたことへの――誇らしさ。
碧南はゆっくりと絵に一歩近づき、作品のすぐ横に貼られた小さなプレートへと視線を落とした。
そこには、審査員の講評がこう添えられていた。
『描写技術以上に、“誰かを待つ感情”が空間全体へと強く表現されている。観る者の記憶や眠っていた感情を、静かに、しかし鮮烈に呼び起こす傑作である』
その一文を目にした瞬間、碧南は、張り詰めていた全ての荷物を下ろしたかのように、ふっと小さく笑った。