赫い滴と湿った吐息

第一話:外界の死、深淵の揺り籠 3

​「……これで最後だ。お前の名前も、親の顔も、すべてこの闇に置いていけ」

男の低い声が、地下室の冷たい静寂を支配し、少女の脳髄に、抗いようのない「忘却」という名の楔を深く、冷徹に打ち込む。

鼻腔を支配するのは、外界の酸素を一切拒絶した澱んだ空気と、男の指先に染み付いた、彼女の尊厳を焼き切った後の鉄のような冷たい匂い。

視界に映る彼女の瞳は、もはや光を反射することもなく、男という絶対的な太陽だけを視神経に焼き付けた、空虚な鏡へと成り果てていた。

​「……なまえ、いらない……。私、おじさんの、持ち物……。おじさんの、指が、触れるところだけ……私に、なるの……っ」

少女の喉から絞り出された、個性を完全に放棄した掠れ声が、湿った熱を帯びて、男の腕にねちっこく、呪いのように絡みつく。

耳朶を打つのは、男が彼女の髪を指で梳く際の、カサカサとした枯れ葉のような、魂の抜けた肉体の無機質な音。

舌先に残る自身の「個」という名の鉄錆の味が、男の口腔を、一人の人間を完全に「完成された静物」へと変貌させた後の、底知れぬ悦楽で満たした。

​「……そうだ。お前はもう、お前を名乗る必要さえない。私の望む時に、私の望む表情で鳴くだけの、美しい装置だ」

男の手が、彼女の閉じた瞼をなぞり、そこに残っていた「人間」としての最後の残滓を物理的に押し潰すと、指先に伝わるのは、もはや自我の震えさえ止まった、絶対的な受容の冷感。

触れ合う二人の肌の間で、立ち上る絶望の静寂が、地下室という名の「世界の終わり」を完成させ、彼女を男の影の延長線上へと、ドロドロに溶かし込んだ。

視覚を奪うほどの眩いランタンの火が消え、完全な闇が訪れた瞬間、彼女という存在は公式に、この宇宙のどこにも属さない「無」へと還った。

​「あ、っ……おじ、さん……。暗い、ね……。でも、おじさんの、中みたいで……しあわせ、だよ……っ」

彼女の指先が、男の輪郭を暗闇の中で必死に手探り、自身を繋ぎ止める唯一の拠り所として、ねちっこく、執拗に、かつ深く縋り付いてくる。

掌に伝わる彼女の胸の鼓動は、もはや生命を維持するためのものではなく、男の支配を刻むための、無機質なメトロノーム。

遠くで、降り続く雨音が外界の記憶をすべて押し流し、この閉ざされた深淵に、一柱の「名もなき器」の完成を、静かに、そして無残に告げていた。

​「……ああ。お前は永遠に、私の暗闇の一部だ。……さあ、安らかに、私のためにだけ眠れ」

男の指先が、彼女の意識の最後の糸を断ち切り、支配という名の永劫の安らぎを、脳髄の奥底まで、ねっとりと注ぎ込んだ。

溢れ出した「虚無」の愉悦が、地下室を、名もなき人形が主人の夢を見続けるための、甘美で無慈悲な伽藍へと変える。

日常が完全に死に絶えたその漆黒で、彼女の細い吐息は、男の支配という名の永劫の沈黙へと、ただ静かに、そして無残に溶けていった。
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