赫い滴と湿った吐息

第二話:不変の標本、終わらない午睡 1

​「……まだ、夢を見ているのか。私の指がお前の現実だと、何度教えれば済む」

男の低い声が、厚い石壁に守られた寝室の淀んだ空気に、冷徹な波紋を広げる。

鼻腔を支配するのは、数ヶ月間も外界の風を通していない、微かなお香と彼女の肌の熱が混ざり合った、甘ったるく腐りかけた果実のような匂い。

視界に映る彼女の瞳は、カーテンの隙間から漏れる僅かな月光さえも眩しそうに細め、焦点の合わない視線で、ただ主人の影を「神」として仰いでいた。

​「……あ、おじ、さん……。私、いま、どこ……? おじさんの、腕の中……だよね……っ」

少女の喉から漏れた、言語の響きさえ失いかけた掠れ声が、湿った熱を帯びて、男の指先にねちっこく、縋るように纏わりつく。

耳朶を打つのは、彼女が身動きをするたびに微かな悲鳴を上げる、細い手首に嵌められた銀色の重い鎖の摩擦音。

舌先に残る自身の支配という名の鉄錆の味が、男の口腔を、一切の反抗を忘れた「完成された標本」を愛でる、静かなる悦楽で満たした。

​「そうだ。お前はもう、場所も、時間も、知る必要はない。……私の吐息が、お前の世界のすべてだ」

男の手が、彼女の白く透き通った頬を、壊れやすい硝子細工を扱うように、しかし逃走を許さぬ力で、ゆっくりと、執拗に、かつ深く撫で下ろす。

触れ合う二人の肌の間で、立ち上る絶望の静寂が、彼女の精神を完全に無機質化させ、男という主人の意のままに形を変える「粘土」へと変質させていく。

視覚を奪うほどの眩い月光が、彼女の光を失った瞳を、虚無を映し出すブラックホールのように、美しく、残酷に暴き出した。

​「おじ、さん……。私、を……もっと、暗いところに……おじさんの、体温しか、わからない……深淵に、沈めて……っ」

彼女の指先が、男の胸元を、自身の境界線を埋没させようとするように、ねちっこく、執拗に、かつ必死に掻きむしり続ける。

掌に伝わる彼女の身体の冷たさは、もはや「生」への執着を捨て去り、男の欲望を糧に動く、精巧な自動人形(オートマタ)の質感。

遠くで、屋敷を包む森のざわめきが、この閉ざされた楽園の永劫を祝福し、二人の境界を完全に消し去るための、無慈悲な子守唄を奏でていた。
​「……望み通りにしてやる。お前が、自分という名前さえ完全に思い出せなくなるまでな」

男の指先が、彼女の意識の端々を麻痺させるように、支配という名の冷徹な安らぎを、脳髄の奥底まで、ねっとりと注ぎ込んだ。

溢れ出した「標本」の愉悦が、寝室を、外界を拒絶する二人だけの甘美で無慈悲な伽藍へと変える。

日常が完全に死に絶えたその暗闇で、彼女の細い吐息は、男の支配という名の永劫の沈黙へと、ただ静かに、そして無残に沈んでいった。
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