君の描き方
EP.2
放課後。
西野に見つからないように帰れば、絵の練習なんてしなくて済むんじゃないか。
そんな考えが頭に浮かんだ。
私はできるだけ目立たないように、必要最低限のものだけを鞄に詰める。
そして、帰り支度をするクラスメイトたちの波に紛れるようにして立ち上がった。
教室を出てしまえばこっちのものだ。
そのまま帰宅の一直線コース。
放課後まで地獄の延長戦なんて、見なくて済む。
そもそも、絵の描き方を教えてもらうってなんだ。
しかも貴重な放課後に。
そんなことを考えながら、私は足早に廊下を歩いた。
特に呼び止められることもなく、
気づけば靴箱の前まで来ていた。
上履きを脱いで、外靴に履き替える。
そのまま校舎の外へ出ると、ひんやりとした空気が頬に触れた。
少し冷たい風。
でも、その冷たさが妙にすっきりしていて気持ちいい。
――よかった。
どうやら本当に逃げ切れたらしい。
胸の奥で小さく安堵しながら、私は校門へ向かって歩き出した。
そのとき。
「さーとーうー」
背後から、大きな声で名前を呼ばれた。
びくっと肩が跳ねる。
ゆっくり振り返ると――
教室の窓から、こちらをじっと見下ろしている人影があった。
西野だ。
窓枠に肘をつきながら、まっすぐこっちを見ている。
目が、ばっちり合った。
「……」
一瞬、時間が止まった気がした。
次の瞬間。
西野はにっこりと笑った。
「逃げるな」
外に、静かな声がはっきりと響いた。
……終わった。
時間を稼ぐつもりで、わざとゆっくり廊下を歩いた。
足取りは重く、教室へ近づくほどに気分も沈んでいく。
扉の前で一度だけ小さく息を吐き、そっと引き戸を開けた。
教室の中には、西野しかいなかった。
夕方の光が窓から斜めに差し込み、机や椅子の影を長く伸ばしている。
その中に、西野は一人で立っていた。
……気まずい。
彼と二人きりなんて、気まずすぎる。
こんな状況になったのは全部――
羽村のせいだ
心の中で恨みながら、私はおそるおそる教室に足を踏み入れた。
「そこ座って」
西野は短く言って、窓際の一番後ろの席を指差す。
私は何も言わず、その席に向かった。
椅子を引き、静かに腰を下ろす。
すると西野は、私の前の席の椅子をくるりとこちらへ向けて座った。
向かい合う形になる。
距離が近い。
逃げ場がない感じがして、余計に落ち着かない。
「失敗したね。脱獄」
西野はくしゃっと笑った。
その笑顔が、なぜか妙に腹立たしい。
「……別に脱獄じゃないし」
小さく言い返すと、西野は肩をすくめた。
「じゃあこれに、俺描いてみて」
そう言って、西野はスケッチブックを取り出し、机の上に置く。
ぱたん、と静かな音が教室に響いた。
……始まった。
地獄の時間。
ただでさえ苦手な絵を、放課後まで描くなんて。
最悪すぎる。
私は渋々鉛筆を持ち、スケッチブックを開いた。
目の前には西野がいる。
椅子の背にもたれ、頬杖をつきながらこちらを見ていた。
「ほら」
西野が軽く言う。
「ちゃんと見て描いて」
……無理に決まってる。
そう思いながらも、私はしぶしぶ西野の顔を見上げた。
夕日の光が窓から差し込んで、西野の横顔をオレンジ色に染めている。
その時、西野と目があった。
慌てて視線をスケッチブックに落とし、鉛筆を動かす。
カリカリ、と小さな音だけが教室に響いた。
しばらくして。
「ねえ」
西野の声が落ちてきた。
「なに?」
「さっきさ」
少し間があく。
「本当に帰る気だったでしょ」
鉛筆が、ぴたりと止まった。
私は顔を上げる。
西野は相変わらず、こちらを見ていた。
少しだけ楽しそうな目で。
「……だって、笑うでしょ」
思わず口から出た。
「また怪物って」
西野は一瞬だけ目を瞬いた。
「言ったじゃん」
静かに言う。
「似てるって」
私は何も言えず、西野を見つめた。
夕日の光の中で、彼は少しだけ笑った。
「だから描いてみてよ」
そして、顎でスケッチブックを指す。
「今度は、ちゃんと見て」
「ちゃんと見て」
そう言われて、私は言葉どおり西野を見つめた。
改めて顔を上げて、じっと観察する。
今までそんな風に見たことなんてなかったけど。
西野の目は思ったより優しい。
前髪の隙間からのぞく目。
長いまつ毛。
整った輪郭。
……あれ。
今まで気づかなかったけど、西野って。
「かっこいい」
ぽつり、と。
考えるより先に言葉が口からこぼれていた。
「は?」
西野が目を丸くする。
自分で言った言葉に気づいた瞬間、
一気に顔が熱くなった。
しまった。
何言ってるんだ私。
「何、俺のことかっこいいと思ったの?」
恐る恐る西野を見ると、
案の定、にやにやと笑っている。
その顔がまた腹立たしい。
「ちがっ、それは……!」
慌てて言い返そうとした、そのとき。
「佐藤も」
西野が、私の言葉をさえぎった。
「可愛いよ」
一瞬、意味が分からなかった。
……今、なんて言った?
「……は?」
今度は私の方が間の抜けた声を出す番だった。
西野は相変わらず楽しそうに笑っている。
完全に、からかわれている。
絶対に私の反応を見て楽しんでいる顔だ。
「やっぱ赤くなるんだ」
「うるさい!」
思わず声が大きくなる。
さっきからこの人、ほんとに腹が立つ。
「からかわないで」
そう言うと、西野は少しだけ肩をすくめた。
「からかってないけど」
「嘘」
「ほんと」
即答だった。
でも、その顔はまだ少し笑っている。
やっぱり信用できない。
私はふてくされたまま、スケッチブックに視線を落とした。
「……描けばいいんでしょ」
鉛筆を握り直す。
カリ、と紙の上に線を引く。
すると西野が、少し身を乗り出した。
「お、ちゃんと描く気になった?」
「うるさい」
ぶっきらぼうに返す。
西野は少し楽しそうに笑った。
そして頬杖をついたまま、じっとこちらを見て言う。
「でもさ」
「なに」
「俺のこと、かっこいいって思ったんだ」
……またそれ。
私は思いきり西野を睨んだ。
「もう言わないで」
「なんで?」
「恥ずかしいから!」
言った瞬間、また顔が熱くなる。
西野は少しだけ目を細めて、くすっと笑った。
「やっぱ可愛い」
……ほんと、最悪だ。
でも。
スケッチブックに描き始めた西野の顔は、
さっきより、ほんの少しだけ。
ちゃんと描けている気がした。