君の描き方

EP.3

朝、教室に入った瞬間、私の視線はまっすぐ羽村の席へ向いていた。

昨日の放課後のことを思い出すだけで、胸の奥に小さな怒りが湧いてくる。

――全部、あいつのせいだ。

文句の一つでも言ってやろうと決めて、私は自分の席に行くより先に羽村の席へ向かった。

「佐藤、おはよう」

その声と同時に、目の前にすっと人影が立ちはだかった。

顔を上げると、西野。

まるで壁みたいに、羽村の席への通り道を塞いでいる。

「……はいはい」

適当に返すと、西野は眉をひそめた。

「挨拶は挨拶で返せよ」

「わかったから。どいて」

私は横にずれようとした。

けれど西野も、同じ方向にすっと動く。

完全に進路を塞ぐ形だ。

「まぁまぁ」

西野は楽しそうに笑った。

「かっこいい俺の顔でも見なよ」

次の瞬間。

ぐい、と顎を掴まれ、上を向かされる。

視界いっぱいに、西野の顔が映った。

しかも、にやにやと笑っている。

……まただ。

こういうことをして、私の反応を楽しんでいるに決まっている。

私はその手を乱暴に振り払い、西野の肩を押して無理やり横にどかした。

「邪魔」

短く言い捨てて、そのまま羽村の席の前に立つ。

羽村は机に肘をつきながら、面白そうにこちらを見ていた。

「ねぇ、羽村」

私は腕を組んで睨む。

「羽村のせいで昨日の放課後、地獄だったんだけど」

すると羽村は、一瞬きょとんとしてから笑った。

「え、ちゃんと残ったんだ」

「残らされたの!」

思わず声が大きくなる。

「しかもずっと絵描かされてさ!」

そう言うと、後ろから西野の声が聞こえた。

「“ずっと”って言っても一時間だけだけど」

振り返ると、西野が平然とした顔で私の後ろに立っている。

「一時間でも長いの!」

私が言い返すと、羽村は肩を震わせて笑った。

「でもさ、どうだった?」

「どうって?」

「西野の絵の教え方」

私は少しだけ言葉に詰まる。

昨日の放課後。

西野に向かい合って、何枚も描き直して。

何度も「ちゃんと見て」って言われて。

……その結果。

「……まぁ」

私は視線を逸らして、小さく言った。

「ちょっとはマシになったかも」

その瞬間。

後ろで西野が、くすっと笑った。

「“ちょっと”じゃないけどね」

「うるさい」

振り向いて睨むと、西野は楽しそうに肩をすくめた。

羽村はそんな私たちを見比べながら、にやっと笑う。

「なんか仲良くなってない?」

「なってない!」

即答だった。

すると西野も、同時に言った。

「なってない」

ぴったり同じタイミング。

一瞬、教室が静かになる。

そして次の瞬間。

羽村が吹き出した。

「息ぴったりじゃん」

……ほんと、最悪だ。

「佐藤、今日の放課後も時間あけといてな」

後ろから聞こえた声に、私はぴたりと動きを止めた。

ゆっくり振り返る。

そこには、相変わらず余裕そうな顔をした西野が立っていた。

「……今日もやるんですか」

思わず顔が引きつる。

昨日だけでも十分だったのに。

「お楽しみ」

西野はにやっと笑った。

その笑顔が、また腹立たしい。

「全然楽しみじゃないんだけど」

私がぼそっと言うと、横で羽村が吹き出した。

「ははっ、また絵の特訓?」

「特訓っていうか、地獄」

即答すると、羽村は面白そうに私と西野を見比べる。

「でも西野が人に教えるとか珍しいぞ」

「そうなの?」

思わず聞き返すと、羽村はうんうんと頷いた。

「こいつ基本一人で描いてるし。人に興味ないタイプだから」

その言葉に、西野が少し眉をひそめた。

「余計なこと言うな」

「事実じゃん」

羽村は肩をすくめる。

私は二人のやり取りを見ながら、ため息をついた。

「……なんで私なの」

ぽつりと漏れた言葉。

その瞬間。

西野が少しだけ目を細めた。

「さぁ」

わざとらしくとぼけた声。

「なんでだろうな」

そう言って、西野はくるりと背を向ける。

自分の席へ戻りながら、ふと立ち止まった。

そして肩越しにこちらを見る。

「逃げんなよ、今日も」

その言葉に、羽村がまた笑った。

「昨日も逃げようとしてたの?」

「……うるさい」

小さく答えると、二人の笑い声が教室に広がった。

私は机に肘をついて、深くため息をつく。

――また放課後。

またあの静かな教室で、絵を描く時間。

面倒だし、恥ずかしいし、正直あまり行きたくない。


帰りのHRが終わると同時に、教室が一気にざわつき始めた。

椅子を引く音、鞄を閉める音、友達同士の話し声。

その騒がしさの中で、私はそっと立ち上がる。

――今日こそ。

絶対に見つからないように帰る。

昨日みたいに捕まるのは、もうごめんだ。

私はできるだけ自然に、でも急ぎすぎないように教室を出た。

廊下に出ると、心臓の音がやけに大きく聞こえる。

ここで見つかったら終わりだ。

西野に見つかったら、確実に連れ戻される。

靴箱までたどり着くと、急いで上履きを脱ぎ、外靴に履き替えた。

ちらっと周りを見渡す。

……いない。

西野の姿は見えない。

よし。

私はそのまま校舎を出て、裏門の方へ歩き出した。

裏門まで、あと少し。

近づくにつれて、自然と歩く速度が速くなる。

早く、早く。

誰にも見つからないうちに――

そして。

ついに裏門をくぐった。

「……よし」

思わず小さくつぶやく。

学校から、脱出成功。

その瞬間。

「はい、こっちきて」

横から声がした。

同時に、ぐいっと腕を掴まれる。

「えっ」

驚いて振り向くと――

そこに立っていたのは、西野だった。

校門の外の壁にもたれかかって、さも当たり前みたいな顔をしている。

「……なんでここにいるの」

思わず呆れた声が出る。

西野は軽く肩をすくめた。

「逃げると思ったから」

「張ってたの?」

「うん」

あっさりと頷く。

私は思わず天を仰いだ。

……最悪だ。

「離して」

腕を引くけれど、西野の手は離れない。

「だめ」

「なんで」

「いいから。ついてきて」

西野は私の腕を掴んだまま、どんどん歩いていく。

引っ張られるようにして歩きながら、私は周りを見回した。

……どこに行くんだろう。

少なくとも、教室へ戻る道ではない。

むしろ、学校からどんどん離れている。

「ねぇ、どこ行くの」

聞いてみると、西野は前を向いたまま短く答えた。

「秘密」

それきり、何も言わない。

本当に黙り込んでしまった。

私は半ば諦めながら、その背中についていく。

しばらく歩いて。

ようやく西野が足を止めた。

顔を上げると、そこにはカフェがあった。

大きなガラス窓に、木の看板。
中からはやわらかい明かりが漏れていて、いかにもおしゃれな雰囲気だ。

「……何ここ」

思わずそう言うと、西野はあっさり答えた。

「はい、行くよ」

「え?」

言い終わるより先に、ぐいっと腕を引かれる。

そのまま私は、西野に引きずられるようにしてカフェの中へ入った。

扉を開けると、小さなベルがちりんと鳴る。

コーヒーの香りがふわっと広がった。

落ち着いた音楽が流れていて、店内は思っていたより静かだった。

西野は迷うことなく、奥の席に向かう。

そして窓際のテーブルに座ると、向かいの席を軽く指差した。

「座って」

私は少し戸惑いながら、その席に腰を下ろす。

「……なんでカフェ?」

すると西野は、メニューを手に取りながら言った。

「腹減った」

「……は?」

あまりにも普通の理由で、思わず間の抜けた声が出た。

西野はちらっと私を見て、少し笑う。

「佐藤もなんか頼めば?」

「いや、私は……」

そう言いかけたところで、店員さんが水を持ってきた。

西野は慣れた様子でメニューを差し出す。

「ホットコーヒーと、これ2つ」

指差したのはケーキ。

注文が終わると、西野はメニューを閉じて私を見た。

「で」

「なに」

「逃げるの二日連続はさすがにひどくない?」

私は思わず目を逸らす。

「だって絵描くの嫌だし」

「嫌いなんだ?」

「苦手なの」

小さく言うと、西野は少しだけ考えるように黙った。

それから、ぽつりと言った。

「でもさ」

私は顔を上げる。

西野はテーブルに肘をつきながら、こっちを見ていた。

「俺、今日絵を描くなんて一言も言ってないんだけど」

その言葉に、私は一瞬固まった。

「それに佐藤の絵嫌いじゃないよ」

「……怪物って言ったの誰」

ぼそっと言うと、西野は少し笑った。

「湊に似てたから」

「フォローになってない」

そう言い返すと、西野はくすっと笑う。

ちょうどそのとき、店員さんがコーヒーとケーキを運んできた。

甘い香りがテーブルの上に広がる。

西野はフォークを手に取りながら、さらっと言った。

「食べ終わったら描こうか」

「……ここで?」

私が驚くと、西野は当たり前みたいに頷いた。

「うん」

そして少しだけ口角を上げる。

「今日はカフェで特訓」

「絵を描くなんて一言も言ってないって言ったじゃん」

「絵を描かないとも言ってないんだけど」

……やっぱり。

地獄は続くらしい。
私はため息をつきながらフォークを手に取り、ケーキを一口運ぶ。

「んっ」

思わず声が漏れた。

口の中に広がる甘さ。
ふわっと軽くて、思っていたよりずっと美味しい。

「美味しいっしょ?」

西野が楽しそうに聞いてくる。

「うん」

素直に頷くと、西野はくすっと笑った。

「すなおー。可愛いね」

「はっ」

思わず顔を上げる。

まただ。

またこうやって、からかう。

「……すぐそういうこと言う」

むっとして言うと、西野はコーヒーカップを持ち上げ、ゆっくりと一口飲んだ。
それから、こちらを見て小さく微笑む。

……その余裕そうな顔が、また腹立たしい。

「なに、その顔」

私が睨むと、西野は肩をすくめた。

「別に」

「絶対何か思ってるでしょ」

「思ってるよ」

さらっと返されて、言葉に詰まる。

「な、なに」

少し身構えて聞くと、西野は顎に手を当て、じっと私を眺めた。

「佐藤ってさ、可愛いよね」

「もうそれいいから」

私はため息をつきながら言う。

「何が目的なわけ?」

西野は一瞬だけ目を細めた。

「何が目的か言ったら、そのとおりにしてくれる?」

「内容による」

即答すると、西野は「そう」とだけ言って、コーヒーカップに視線を落とした。

それきり黙る。

……なにそれ。

言うのかと思ったのに。

私は落ち着かない気持ちで、フォークの先でケーキを少し崩した。

沈黙が続く。

「目的って何? 気になるんだけど」

沈黙に耐えきれなくなって、私は口を開いた。

西野は少しだけ視線を上げる。
そして、何でもないことのように言った。

「俺のこと好きになってほしい」

「……なんで?」

思わず聞き返す。

西野はほんの少しだけ笑って、あっさり言った。

「俺が佐藤のこと好きだから」

……まただ。

どうせからかってる。
完全に私の反応を見て楽しもうとしている顔だ。

だけど。

もう西野の思い通りに反応するのは悔しい。

私はフォークを置いて、西野を見た。

「もう西野のこと好きになってるよ」

からかい返してやろう。

そう思って、わざと軽い調子で言った。

どうせまた、
「ほんと?」とか「嘘だろ」とか、
余裕そうな顔で返してくるに決まってる。

そう思って、西野の顔を見た。

「……えっ、西野?」

彼は片手で顔を覆っていた。

さっきまでの余裕そうな顔はどこにもない。

指の隙間から見える肌が――

真っ赤だった。

「……ちょっと待って」

西野が小さく言う。

声まで、少し変だ。

「今の……やばい」

「は?」

意味が分からない。

私は呆然と西野を見つめた。

西野はまだ顔を覆ったまま、ゆっくり息を吐く。

それから少しだけ顔を上げた。

赤いままの顔で、私を見る。

「……からかったつもり?」

「え、うん」

正直に答えると、西野は一瞬黙った。

そして――

小さく笑った。

「じゃあさ」

西野はテーブルに肘をつき、少し身を乗り出す。

「責任とってよ」

「は?」

「好きって言ったんだから」

さっきまで余裕だったはずなのに、
今は少しだけ照れたままの顔で言う。

「取り消し不可ね」

……しまった。

これ、
からかったつもりだったのに。

完全に――

やり返されてる。

「佐藤は、今日から俺の彼女ね」

「なんでそうなるの」



「だって好きって言ったじゃん」

「からかっただけ!」

「俺は本気」

即答だった。

言葉に詰まる。

西野は頬杖をついたまま、まっすぐ私を見る。

「だから彼女ね」

西野は当たり前みたいな顔で言った。

「ならない」

私は即答する。

「じゃあ仮でいいよ」

「なにそれ」

「お試し彼女」

「そんなのないから」

「今作った」

あまりにも平然と言うから、思わず呆れてしまう。

「もう必死すぎ」

私がそう言うと、西野の口がぴたりと止まった。

さっきまで余裕そうだった表情が、ふっと消える。

しばらく黙ったあと、西野は小さく息を吐いた。

「……そうだよ。必死だよ」

ぽつりと落ちた声は、思っていたよりずっと弱かった。

西野は視線をテーブルに落としたまま続ける。

「やっと好きって言ってもらえて、付き合えると思ったのに」

その言葉に、胸の奥が少しだけ引っかかる。

私は何も言えず、西野を見た。

西野は困ったように笑う。

「まあ、冗談だって分かってるけど」

軽く言ったつもりなんだろう。

でも、その笑い方はどこかぎこちない。

「……期待くらいしてもいいじゃん」

そう言って、西野はコーヒーカップに手を伸ばした。

けれど口をつける前に止まる。

「俺、佐藤のこと好きだし」

さらっと言われて、心臓が変に跳ねた。

私は慌てて言い返す。

「それもからかってるんでしょ」

西野は少しだけ眉を上げる。

「なんでそうなるの」

「だっていつもそうじゃん」

「いつもはそうかもね」

西野は苦笑した。

「でも今は違う」

そう言って、ゆっくり顔を上げる。

その視線が、まっすぐこっちに向く。

「本気で言ってる」

カフェの中は静かなままだ。

コーヒーの香りと、小さな音楽だけが流れている。

黙ったままケーキを一口食べる。

甘い味が口の中に広がる。

しばらくして、西野が静かに言った。

「だからさ」

「なに」

「お試しでいいよ」

顔を上げると、西野がこちらを見ていた。

「俺のこと、好きになるかもしれないし」

少しだけ笑う。

「ならないかもしれないけど」

その言い方が、妙にずるい。

私はため息をついた。

「……期間」

「え?」

「お試しって言うなら」

西野の目が少しだけ大きくなる。

私は視線を逸らしながら言った。

「期間決める」

一瞬の沈黙。

それから西野が、ゆっくり笑った。

「いいよ」

その笑顔は、さっきより少しだけ嬉しそうだった。

「二週間ね」

私が言うと、西野はすぐに顔をしかめた。

「短っ」

「十分でしょ」

「せめて一ヶ月」

「だめ。二週間」

きっぱり言い切ると、西野は納得いかない顔でこちらを見る。

「一ヶ月」

「二週間」

「一ヶ月」

しつこい。

私はため息をついた。

「……分かったよ」

西野の顔がぱっと明るくなる。

「一ヶ月ね」

そう言うと、西野は満足そうに頷いた。

「交渉成立」

まるで最初からそれを狙っていたみたいな顔だ。

私は思わず睨む。

「なんか最初から一ヶ月にするつもりだったでしょ」

「そんなことないよ」

西野は笑いながら言う。

「ちゃんと必死だった」

「嘘くさい」

「本当」

軽く返されて、私は小さく息を吐いた。

「……でも」

西野が少しだけ真面目な声になる。

「一ヶ月で終わる気ないけどね」

「終わるよ」

私はすぐに言い返す。

すると西野は楽しそうに笑った。

「俺の彼女かぁ」

「仮」

「仮彼女」

「それも変」

西野は楽しそうに笑った。

「じゃあこうしよ」

「なに」

「俺の好きな人」

そう言われて、私は一瞬言葉を失う。

西野は何でもない顔でコーヒーを飲んだ。

……ほんとに。

この人、ずるい。
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