零班は落第寸前!――名門男子校は秘密のスパイ養成学校でした――
序章「当たればラッキー」
「直ー!三番台、景品がまた空になったよ!」
店の奥から母さんの声が飛んできて、俺は鉄砲を肩に引っかけたまま返事をした。
「今行く!」
湯けむりの向こうで、夕方の温泉街がのんびり光っていた。石畳はまだ昼の熱を少しだけ残していて、旅館の軒先には浴衣姿の観光客がぶらぶら歩いている。温泉まんじゅうの湯気、川の流れる音、遠くで鳴る卓球の玉の乾いた音。そういうのが、うちの町のいつもの夕方だった。
その真ん中で、うちの射的屋だけが妙に騒がしかった。
「お兄ちゃん、もう一回!今のなし!」
「もう玉切れだろ?」
「でも、落ちるまでやりたい!」
「じゃあ、こういうのはどう?」
俺は棚の上の招き猫キーホルダーに狙いをつけた。鉄砲を構えて、息を止める。ほんのちょっとだけ傾いた棚の角度と、コルクの軽さと、今ちょうど入口から吹いてきた風を見て、
ぱん、と撃った。
キーホルダーは軽く跳ねて、ころんと前に落ちた。
「うわあっ!」
「ほら」
「なんで!?」
「当たったから」
「説明が雑!」
幼稚園くらいの男の子が本気で悔しがるから、俺は落ちた景品を拾って渡した。
「はい。おめでとう」
「お兄ちゃんが撃ったんじゃん!」
「うちの店は代打もサービスだ」
「そんなサービス聞いたことない!」
後ろで見ていた父さんがげらげら笑った。
「直、お前また全部当てたのか」
「全部じゃないよ。まだあそこの宇宙人の人形が残ってる」
「いらねえなあ、それ」
「店主が言うなよ」
母さんが景品箱を抱えて出てきて、俺の前でぴたりと止まった。嫌な予感がした。母さんがその顔をするときは、大体ろくでもない話を持ってくる。
「直」
「なに」
「ちょっと店番かわって」
「その言い方、絶対ちょっとじゃないだろ」
「ばれた?」
ばれてる。十年以上の付き合いだ。いや、生まれてからずっとだ。
俺はしぶしぶ銃をカウンターに置いた。母さんは俺を店の脇に連れていくと、どこから出したのか、ぴかぴかの学校案内を胸の前に出した。
表紙には、古い洋館みたいな校舎がどーんと載っている。字は金色で、やたら立派だった。
「鷹ノ宮学園中等部」
「……は?」
「受けてみなさい」
「なんで急に」
母さんはにっこりした。こういうときのにっこりは信用できない。
「授業料、無料なんだって」
「お金が理由か」
「大事でしょ」
「まあ、大事だけど」
うちは温泉街の射的屋で、別に貧乏ってほどじゃない。でも、めちゃくちゃ余裕があるわけでもない。観光シーズンはいいけど、雨が続くと客足は目に見えて落ちる。俺だってそれくらいわかる年になった。
ただ、それとこれとは話が別だった。
「いや、無料って言っても、どうせめちゃくちゃ頭いいやつが行く学校だろ。パンフからしてもう難しそうだし」
「男子校だって」
「情報を追加してくるな」
「しかも全寮制」
「俺に何の得があるんだよ」
「洗濯物が減る」
「母さんの得じゃん」
父さんが横からひょいと顔を出した。
「直、寮なら友達が作りやすいかもよ?」
「ええ~」
母さんはパンフを俺の胸に押しつけた。
「記念受験でいいから」
「記念で受ける学校の面構えじゃないんだよ」
「あなた六年生の途中から成績ちょっと上がったじゃない」
「ちょっとだよ。ちょっと」
「それに」
「それに?」
「当たるかもしれないでしょ」
俺は思わずパンフから顔を上げた。
母さんは、うちの射的屋で客に言うみたいな顔で言った。
「当たればラッキー、外れても笑い話。悪くないじゃない」
その理屈は、なんかずるかった。
俺は勉強が特別できるわけじゃない。クラスでも真ん中くらいだし、たまに上がって、たまに下がる。体育はそこそこ。国語は苦手じゃない。でも作文で気の利いたことは書けない。算数は、式はいいけど文章題が苦手だ。リンゴが何個あるかで十分だろ、と思う。
射的だけは昔からよく当たった。
でも、そんなのただの慣れだ。うちは温泉街の射的屋で、俺は物心つく前から景品棚を見て育った。毎日見て、毎日触って、毎日撃ってたら、そりゃ少しはうまくなる。自転車に乗れるのと同じだ。特別ってほどじゃない。
だから、母さんに「当たるかも」と言われても、ぴんとこなかった。
「俺、別にすごくないけど」
「知ってる」
「そこ即答なの」
「すごいっていうより、まっすぐだから」
「褒めてるのか?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「世渡り下手」
「今のは悪口だろ」
父さんがうんうんうなずいた。
「直は顔に全部出るからなあ」
「家族が一番ひどい」
「でも、当たるときは当たる」
「父さんまで」
母さんはパンフの募集要項を指で叩いた。
「試験、来週」
「近いな!?」
「書類は出した」
「もう出してんの!?」
「ほら、行動は早いほうがいいから」
「俺の意思!」
「今ここで確認してるでしょ」
「順番が逆なんだよ!」
そのあと俺が何を言っても、母さんは「記念」「無料」「当たればラッキー」の三つを呪文みたいに繰り返した。父さんは途中から「給食うまそうだな」と関係ないところを見ていた。家族会議っていうより、ほとんど押し切りだった。
結局、俺は受験することになった。
店の奥から母さんの声が飛んできて、俺は鉄砲を肩に引っかけたまま返事をした。
「今行く!」
湯けむりの向こうで、夕方の温泉街がのんびり光っていた。石畳はまだ昼の熱を少しだけ残していて、旅館の軒先には浴衣姿の観光客がぶらぶら歩いている。温泉まんじゅうの湯気、川の流れる音、遠くで鳴る卓球の玉の乾いた音。そういうのが、うちの町のいつもの夕方だった。
その真ん中で、うちの射的屋だけが妙に騒がしかった。
「お兄ちゃん、もう一回!今のなし!」
「もう玉切れだろ?」
「でも、落ちるまでやりたい!」
「じゃあ、こういうのはどう?」
俺は棚の上の招き猫キーホルダーに狙いをつけた。鉄砲を構えて、息を止める。ほんのちょっとだけ傾いた棚の角度と、コルクの軽さと、今ちょうど入口から吹いてきた風を見て、
ぱん、と撃った。
キーホルダーは軽く跳ねて、ころんと前に落ちた。
「うわあっ!」
「ほら」
「なんで!?」
「当たったから」
「説明が雑!」
幼稚園くらいの男の子が本気で悔しがるから、俺は落ちた景品を拾って渡した。
「はい。おめでとう」
「お兄ちゃんが撃ったんじゃん!」
「うちの店は代打もサービスだ」
「そんなサービス聞いたことない!」
後ろで見ていた父さんがげらげら笑った。
「直、お前また全部当てたのか」
「全部じゃないよ。まだあそこの宇宙人の人形が残ってる」
「いらねえなあ、それ」
「店主が言うなよ」
母さんが景品箱を抱えて出てきて、俺の前でぴたりと止まった。嫌な予感がした。母さんがその顔をするときは、大体ろくでもない話を持ってくる。
「直」
「なに」
「ちょっと店番かわって」
「その言い方、絶対ちょっとじゃないだろ」
「ばれた?」
ばれてる。十年以上の付き合いだ。いや、生まれてからずっとだ。
俺はしぶしぶ銃をカウンターに置いた。母さんは俺を店の脇に連れていくと、どこから出したのか、ぴかぴかの学校案内を胸の前に出した。
表紙には、古い洋館みたいな校舎がどーんと載っている。字は金色で、やたら立派だった。
「鷹ノ宮学園中等部」
「……は?」
「受けてみなさい」
「なんで急に」
母さんはにっこりした。こういうときのにっこりは信用できない。
「授業料、無料なんだって」
「お金が理由か」
「大事でしょ」
「まあ、大事だけど」
うちは温泉街の射的屋で、別に貧乏ってほどじゃない。でも、めちゃくちゃ余裕があるわけでもない。観光シーズンはいいけど、雨が続くと客足は目に見えて落ちる。俺だってそれくらいわかる年になった。
ただ、それとこれとは話が別だった。
「いや、無料って言っても、どうせめちゃくちゃ頭いいやつが行く学校だろ。パンフからしてもう難しそうだし」
「男子校だって」
「情報を追加してくるな」
「しかも全寮制」
「俺に何の得があるんだよ」
「洗濯物が減る」
「母さんの得じゃん」
父さんが横からひょいと顔を出した。
「直、寮なら友達が作りやすいかもよ?」
「ええ~」
母さんはパンフを俺の胸に押しつけた。
「記念受験でいいから」
「記念で受ける学校の面構えじゃないんだよ」
「あなた六年生の途中から成績ちょっと上がったじゃない」
「ちょっとだよ。ちょっと」
「それに」
「それに?」
「当たるかもしれないでしょ」
俺は思わずパンフから顔を上げた。
母さんは、うちの射的屋で客に言うみたいな顔で言った。
「当たればラッキー、外れても笑い話。悪くないじゃない」
その理屈は、なんかずるかった。
俺は勉強が特別できるわけじゃない。クラスでも真ん中くらいだし、たまに上がって、たまに下がる。体育はそこそこ。国語は苦手じゃない。でも作文で気の利いたことは書けない。算数は、式はいいけど文章題が苦手だ。リンゴが何個あるかで十分だろ、と思う。
射的だけは昔からよく当たった。
でも、そんなのただの慣れだ。うちは温泉街の射的屋で、俺は物心つく前から景品棚を見て育った。毎日見て、毎日触って、毎日撃ってたら、そりゃ少しはうまくなる。自転車に乗れるのと同じだ。特別ってほどじゃない。
だから、母さんに「当たるかも」と言われても、ぴんとこなかった。
「俺、別にすごくないけど」
「知ってる」
「そこ即答なの」
「すごいっていうより、まっすぐだから」
「褒めてるのか?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「世渡り下手」
「今のは悪口だろ」
父さんがうんうんうなずいた。
「直は顔に全部出るからなあ」
「家族が一番ひどい」
「でも、当たるときは当たる」
「父さんまで」
母さんはパンフの募集要項を指で叩いた。
「試験、来週」
「近いな!?」
「書類は出した」
「もう出してんの!?」
「ほら、行動は早いほうがいいから」
「俺の意思!」
「今ここで確認してるでしょ」
「順番が逆なんだよ!」
そのあと俺が何を言っても、母さんは「記念」「無料」「当たればラッキー」の三つを呪文みたいに繰り返した。父さんは途中から「給食うまそうだな」と関係ないところを見ていた。家族会議っていうより、ほとんど押し切りだった。
結局、俺は受験することになった。