零班は落第寸前!――名門男子校は秘密のスパイ養成学校でした――
校長室のある西回廊は、もう試験会場になっていた。
昼に見たときより灯りが落とされていて、真鍮の壁灯が長い廊下をぼんやり照らしている。床は磨かれてるのに、空気だけが古い。壁には重そうな絵が並び、途中には背の高い振り子時計、その横には飾り棚。見ようによっては上品だし、見ようによっては罠だらけだった。
そしてほんとに罠だらけだった。
校長室の前には、見張り役らしい上級生が二人いた。一人は扉の少し手前、もう一人は奥の曲がり角。どっちも姿勢がよすぎて、立ってるだけで「ここ通るな」って書いてあるみたいだった。
白鷺が小声で言った。
「うわ、見張りつきだ」
「見張りなしで盗ませる学校のほうが嫌だろ」
「もう十分嫌だよ」
西回廊の手前にも、各班の影があった。
A班は柱の陰に三人、窓際に二人。ノートを片手に歩数を数えてるやつまでいる。ほんとに真面目に盗みに来てる。
B班はもっといやらしかった。廊下に来た事務員に、さりげない顔で話しかけている。封筒の置き場所を直接聞く気かと思ったら、「校長先生は甘いものはお好きですか」とか言っていた。なんでそこから崩しにいくんだよ。
C班は外だ。窓の向こう、中庭の植え込みの影に二つ三つ頭が見えた。屋内を見ろよと思ったけど、あいつらなりの正解なんだろう。
火村が感心したように言った。
「みんなちゃんと悪いなあ」
「褒め方がだめなんだよ」
そのとき、廊下の向こうから一人の上級生が歩いてきた。
高等部の制服に、生徒会章。髪は一糸乱れず、抱えた書類の角までそろっていた。見張り役の上級生たちが、何も言われてないのに自然に道を開ける。
白鷺がひそっと言った。
「真砂迅先輩。高等部の生徒会書記」
「昼に言ってた人か」
「そうそう。歩く校則全文」
たしかに似合っていた。真砂先輩は表情も崩さず、そのまま校長室のある方へ消えていった。
九条が小さくつぶやいた。
「見張りも通す相手がいる、か」
「生徒会だからだろ」
「それだけとも限らない」
言い方がいちいち含みを持たせるな、と思ったけど、そのとき俺は別のものを見ていた。
見張り二人の立ち位置を、なんとなく線で結んだ。
景品棚を見るときと同じだった。どこからなら当たるか。どこが見えて、どこが見えていないか。そういうのは、考えるより先に目が拾う。
扉前の見張りの視線。曲がり角の見張りの視線。振り子時計の胴の太さ。飾り棚の張り出し。窓際のカーテン。
その全部が重なると、廊下のちょうど真ん中あたりに、三歩ぶんくらいの細い暗がりができていた。
「……あ」
「どうした、有馬」
九条が聞いた。
俺は廊下を見たまま言った。
「そこ、見えてない」
「どこが」
白鷺が顔を寄せてくる。
「振り子時計の横。見張り二人とも、あそこだけ視線が噛んでない」
九条がすぐに廊下を見なおした。火村も鏡を持ち上げかけて、俺に止められた。
「待て、今それ光る」
「すまん」
大河内だけが、ぽつりと言った。
「……三歩」
「うん。たぶん三歩。四歩は無理」
言った瞬間だった。
その三歩の暗がりを、誰かがすっと横切った。
ほんの一瞬だけ、制服の裾みたいな影が切れた。背は高め。足音はしない。見張りの正面を通るんじゃなく、死角だけをなぞるみたいに滑って、そのまま脇の細い回廊へ消えた。
俺は息をのんだ。
「今の見たか?」
四人がいっせいに俺を見た。
「何を」
九条が聞く。
「人影。今、あそこ通った」
白鷺が廊下をのぞいた。
「A班のやつ?」
「違う。もっと背が高かった」
「C班が外から戻ったとか」
「外からじゃない。内側だ」
でも、もうそこには誰もいなかった。
見張り二人はまっすぐ前を向いたままだった。A班もB班も別のことに気を取られている。俺だけが、今の影を見たみたいだった。
そのとき、さっき影が消えた脇の回廊から、人が出てきた。
秋月先輩だった。
腕に書類箱を抱えて、いつものきれいな足取りで歩いてくる。俺たちを見つけると、少しだけ笑った。
「一年が渋滞してるね」
白鷺がすぐ返した。
「だって校長が盗めって言うから」
「それはそう」
秋月先輩はあっさりうなずいた。
「でも、正面ばかり見てると疲れるよ」
九条が目を細めた。
「先輩は正面を見ないんですか」
「見るよ。必要なときは」
そう言って、秋月先輩は校長室の扉を一度だけ見た。
「ただ、見張りも人間だからね。見る場所には癖がある」
俺は先輩の顔を見た。
さっきの影、秋月先輩だったんだろうか。
でも、たしかに背格好は近かった。書類箱を持ってるのも、今出てきた方向も、それっぽい。なのに、ぴたりとはまらない何かもあった。
秋月先輩は俺の視線に気づいたみたいに、少しだけ首をかしげた。
「有馬、どうした?」
「……いえ、別に」
「別に、の顔じゃないけど」
白鷺が小さく笑った。
秋月先輩はそのまま通り過ぎるかと思ったけど、足を止めて一言だけ残した。
「焦ると、だいたい正面から行く。落ちるやつは、その前に音でばれる」
それだけ言って、今度こそ行ってしまった。
火村がぼそっと言った。
「ヒント?」
九条は冷静だった。
「助言だな。親切ではある」
白鷺が肩をすくめた。
「親切な先輩、ありがたいねえ」
俺は返事をしなかった。
頭の中に残っていたのは、秋月先輩の言葉より、さっき暗がりを滑った人影のほうだった。
昼に見たときより灯りが落とされていて、真鍮の壁灯が長い廊下をぼんやり照らしている。床は磨かれてるのに、空気だけが古い。壁には重そうな絵が並び、途中には背の高い振り子時計、その横には飾り棚。見ようによっては上品だし、見ようによっては罠だらけだった。
そしてほんとに罠だらけだった。
校長室の前には、見張り役らしい上級生が二人いた。一人は扉の少し手前、もう一人は奥の曲がり角。どっちも姿勢がよすぎて、立ってるだけで「ここ通るな」って書いてあるみたいだった。
白鷺が小声で言った。
「うわ、見張りつきだ」
「見張りなしで盗ませる学校のほうが嫌だろ」
「もう十分嫌だよ」
西回廊の手前にも、各班の影があった。
A班は柱の陰に三人、窓際に二人。ノートを片手に歩数を数えてるやつまでいる。ほんとに真面目に盗みに来てる。
B班はもっといやらしかった。廊下に来た事務員に、さりげない顔で話しかけている。封筒の置き場所を直接聞く気かと思ったら、「校長先生は甘いものはお好きですか」とか言っていた。なんでそこから崩しにいくんだよ。
C班は外だ。窓の向こう、中庭の植え込みの影に二つ三つ頭が見えた。屋内を見ろよと思ったけど、あいつらなりの正解なんだろう。
火村が感心したように言った。
「みんなちゃんと悪いなあ」
「褒め方がだめなんだよ」
そのとき、廊下の向こうから一人の上級生が歩いてきた。
高等部の制服に、生徒会章。髪は一糸乱れず、抱えた書類の角までそろっていた。見張り役の上級生たちが、何も言われてないのに自然に道を開ける。
白鷺がひそっと言った。
「真砂迅先輩。高等部の生徒会書記」
「昼に言ってた人か」
「そうそう。歩く校則全文」
たしかに似合っていた。真砂先輩は表情も崩さず、そのまま校長室のある方へ消えていった。
九条が小さくつぶやいた。
「見張りも通す相手がいる、か」
「生徒会だからだろ」
「それだけとも限らない」
言い方がいちいち含みを持たせるな、と思ったけど、そのとき俺は別のものを見ていた。
見張り二人の立ち位置を、なんとなく線で結んだ。
景品棚を見るときと同じだった。どこからなら当たるか。どこが見えて、どこが見えていないか。そういうのは、考えるより先に目が拾う。
扉前の見張りの視線。曲がり角の見張りの視線。振り子時計の胴の太さ。飾り棚の張り出し。窓際のカーテン。
その全部が重なると、廊下のちょうど真ん中あたりに、三歩ぶんくらいの細い暗がりができていた。
「……あ」
「どうした、有馬」
九条が聞いた。
俺は廊下を見たまま言った。
「そこ、見えてない」
「どこが」
白鷺が顔を寄せてくる。
「振り子時計の横。見張り二人とも、あそこだけ視線が噛んでない」
九条がすぐに廊下を見なおした。火村も鏡を持ち上げかけて、俺に止められた。
「待て、今それ光る」
「すまん」
大河内だけが、ぽつりと言った。
「……三歩」
「うん。たぶん三歩。四歩は無理」
言った瞬間だった。
その三歩の暗がりを、誰かがすっと横切った。
ほんの一瞬だけ、制服の裾みたいな影が切れた。背は高め。足音はしない。見張りの正面を通るんじゃなく、死角だけをなぞるみたいに滑って、そのまま脇の細い回廊へ消えた。
俺は息をのんだ。
「今の見たか?」
四人がいっせいに俺を見た。
「何を」
九条が聞く。
「人影。今、あそこ通った」
白鷺が廊下をのぞいた。
「A班のやつ?」
「違う。もっと背が高かった」
「C班が外から戻ったとか」
「外からじゃない。内側だ」
でも、もうそこには誰もいなかった。
見張り二人はまっすぐ前を向いたままだった。A班もB班も別のことに気を取られている。俺だけが、今の影を見たみたいだった。
そのとき、さっき影が消えた脇の回廊から、人が出てきた。
秋月先輩だった。
腕に書類箱を抱えて、いつものきれいな足取りで歩いてくる。俺たちを見つけると、少しだけ笑った。
「一年が渋滞してるね」
白鷺がすぐ返した。
「だって校長が盗めって言うから」
「それはそう」
秋月先輩はあっさりうなずいた。
「でも、正面ばかり見てると疲れるよ」
九条が目を細めた。
「先輩は正面を見ないんですか」
「見るよ。必要なときは」
そう言って、秋月先輩は校長室の扉を一度だけ見た。
「ただ、見張りも人間だからね。見る場所には癖がある」
俺は先輩の顔を見た。
さっきの影、秋月先輩だったんだろうか。
でも、たしかに背格好は近かった。書類箱を持ってるのも、今出てきた方向も、それっぽい。なのに、ぴたりとはまらない何かもあった。
秋月先輩は俺の視線に気づいたみたいに、少しだけ首をかしげた。
「有馬、どうした?」
「……いえ、別に」
「別に、の顔じゃないけど」
白鷺が小さく笑った。
秋月先輩はそのまま通り過ぎるかと思ったけど、足を止めて一言だけ残した。
「焦ると、だいたい正面から行く。落ちるやつは、その前に音でばれる」
それだけ言って、今度こそ行ってしまった。
火村がぼそっと言った。
「ヒント?」
九条は冷静だった。
「助言だな。親切ではある」
白鷺が肩をすくめた。
「親切な先輩、ありがたいねえ」
俺は返事をしなかった。
頭の中に残っていたのは、秋月先輩の言葉より、さっき暗がりを滑った人影のほうだった。