ただ優しくされただけなのに、この恋は間違いですか?
入社〜
第1話 未成年なので
ホテルのバックヤードは、思っていたよりもずっと慌ただしかった。
白石陽菜は、胸の前でぎゅっと手を握りしめながら、周囲の動きを目で追う。
行き交うスタッフ、飛び交う指示、どこか張り詰めた空気。
(ここで、やっていけるかな)
そう思った瞬間、少しだけ喉が渇いた。
同じタイミングで入社した同期たちは、どこか余裕があるように見える。専門学校で実習を経験してきた子や、大学で観光を学んできた子。
それに比べて自分は、高卒での入社。現場のことなんて、ほとんど何も知らない。
――置いていかれないようにしなきゃ。
「白石」
名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。
「はいっ」
少しだけ大きくなってしまった声に、自分で驚いた。
目の前に立っていたのは、今日から配属される宴会部のリーダーだと紹介された人だった。
「今日、初現場だよな」
「はい……あの、よろしくお願いします」
慌てて頭を下げると、相手は軽く頷くだけだった。
「緊張するのはいいけど、固まるな。動き止まるのが一番困る」
「……はい」
厳しい、というよりは、淡々としている。
だけど、その言葉には妙に無駄がなかった。
「分からなかったら聞け。勝手に判断するな」
「はい」
「あと、周りよく見とけ」
「はい」
短い指示だけを残して、その人はすぐに別のスタッフへと視線を移す。
誰かに呼ばれればすぐにそちらへ向かい、次の指示を出す。
迷いがない。
(すごいな……)
自然と、そんな感想が浮かんだ。
“仕事ができる人”って、こういう人のことを言うんだろう。
---
その日の宴会は、企業の懇親会だった。
広い会場に並べられたテーブル、整えられていく料理、次々と入ってくるお客様。
陽菜は先輩に言われた通りに動こうとするけれど、どうしても一歩遅れる。
「白石、そっちじゃない。先にドリンク」
「あ、はい!」
慌てて向きを変える。
頭では分かっているつもりでも、実際に動くとなると全然違う。
周りは当たり前のようにこなしているのに、自分だけぎこちない。
(ちゃんとやらなきゃ……)
焦りが積み重なっていく。
そのとき。
「一回止まれ」
低い声が、すぐ後ろからした。
振り返ると、さっきのリーダーが立っていた。
「……えっと、すみません」
「謝る前に、順番整理しろ」
「順番……」
「ドリンク→料理→空いた皿下げる。この流れ崩すな」
「……はい」
「焦ると全部崩れる。落ち着け」
言い方は厳しいのに、不思議と怖くはなかった。
怒鳴られているわけじゃない。
ただ、ちゃんと見てくれている。
「分からなかったら、近くにいろ」
「え」
「背中見て覚えろ」
それだけ言って、またすぐに別の場所へ向かっていく。
その背中を、思わず目で追った。
(ちゃんと、見てくれてるんだ)
少しだけ、呼吸が楽になる。
---
なんとかその日の宴会を終えた頃には、足がじんわりと重くなっていた。
片付けを終え、簡単な反省会をしてから、流れでそのまま新入社員の歓迎会へと移動する。
居酒屋の席に着いたとき、ようやく少しだけ緊張がほどけた気がした。
「白石、何飲む?」
先輩に聞かれて、陽菜は少しだけ言い淀む。
「あの……私、まだ未成年で……」
「あ、そっか。高卒なんだっけ」
空気がほんの一瞬だけ止まる。
周りは普通にお酒を頼んでいる中で、自分だけソフトドリンク。
仕方ないことなのに、なぜか少しだけ気まずい。
「じゃあウーロンでいい?」
「はい、ありがとうございます」
グラスを受け取って、小さく息をつく。
(浮いてないかな……)
そんなことを考えていると、
「一杯くらいなら大丈夫じゃないの?」
冗談半分の声が飛んできた。
声の主は、別部署のお偉い方らしい。誰も咎めることもなければ、酒が入ったグラスが回ってくるのが見えた。
悪気はないのは分かる。
分かるけど、どう返していいか分からない。
「あ、えっと……」
言葉に詰まる。
断るのも、流すのも、どこか難しい。
そのとき。
「こいつ未成年なんで」
すぐ横から、落ち着いた声がした。
「代わりに俺飲みます」
仕事中のかっちりと決めたスーツ姿から、少しラフなジャケットにスラックスを着た男性がスッと間に入る。
気がつくのが遅れたが、それは先程のリーダーだった。
そのまま、陽菜の前に置かれそうになっていたグラスを自然に引き寄せる。
あまりにもさりげなくて、一瞬何が起きたのか分からなかった。
「お、いいの?」
「問題ないです」
軽く笑いながら、そのまま一口飲む。
それだけで、空気はすぐに元に戻った。
誰も気まずくならないように。
でも、ちゃんと線は引いてくれている。
陽菜は、手元のウーロン茶を見つめたまま、少しだけ息を止めた。
(……かっこいい)
頭の中に浮かんだのは、そんな単純な言葉だった。
守ってもらった、とか、そういう大げさなものじゃない。
ただ、ちゃんと見てくれていたことが、嬉しかった。
---
そのあとも、何度か会話を交わした。
リーダーの名前は橘直哉だということも教えてもらった。年齢は、30歳。
橘は、陽菜の隣から動かずに、隙あらば回ってくる酒入りのグラスを跳ね除け続けた。
たまにグラスに口をつけ、つまみを食べ、緊張で固まる陽菜のソフトドリンクを注文し、周囲のグラス残量を確認しながら場を回す。
なんという気配りのできる男だ。
「疲れてないか」
「ちょっとだけ……でも大丈夫です」
「無理すんなよ」
「はい」
短いやり取りなのに、なぜか安心する。
気づけば、少しだけ距離が近くなっていた。
「橘リーダーって、優しいですよね」
ぽろっと口にしてから、はっとする。
言いすぎたかもしれない。
けれど当の本人は、こちらを見て少しだけ眉を動かしただけだった。
「別に。普通だろ」
「いや、普通じゃないです」
「そうか?」
「はい」
自分でも、なんでこんなに素直に言えているのか分からない。
でも、嘘じゃなかった。
---
「白石」
別の方向から声がかかる。
振り向くと、営業部で同期の藤堂が立っていた。
彼とは入社式で隣同士になっただけだが、見かけると部署が違うにも関わらず声をかけてくれるのだ。
「あれ、いたんだ」
「最初からいたけどな」
軽く笑いながら、テーブルに近づいてくる。
斜め後ろに来ると、隣の橘に気付いたのか「お疲れ様です」と挨拶をした。
それに短く返した橘は、自分のいた場所に藤堂を招き入れる。
「こいつ、未成年だから飲ませんなよ」
「知ってますよ。大丈夫です」
頼むぞ、と小さく言うと橘は離れていった。少し奥のテーブルで頭を下げる姿が見えたから、挨拶周りをしに行ったのだろう。
その時間を割かせてしまったことへの申し訳なさと、わざわざ陽菜の隣にいてくれたことのちょっとした喜びとがないまぜになる。
「ちゃんと飲んでる?」
「ウーロンですけど」
「まあそれはそうか」
そう言って、自分のグラスを軽く持ち上げる。
藤堂は観光業界の専門学校を卒業しているため、同期とはいえ陽菜よりも年上だ。グラスの中身は、もちろん酒。
「無理すんなよ」
「うん、大丈夫」
その一言も、優しい。
でも、さっきとは少しだけ違う気がした。
うまく言えないけど――
(なんか、違う)
比べるものじゃないのに、そんな感覚が残る。
---
帰り道。
少しだけ夜風が冷たかった。
(でも、楽しかったな)
初めての現場も、歓迎会も、全部ひっくるめて。
そしてふと、思い出す。
グラスを引き寄せた手。
何でもないみたいな顔で、当たり前のように言った一言。
――こいつ未成年なんで。
それだけなのに。
(ああいう人と働けるなら)
自然と、足取りが軽くなる。
(頑張れるかも)
それはまだ、恋なんかじゃなかった。
ただ、少しだけ――
“いいな”って思っただけの話だ。
< 1 / 2 >