ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される
✪Epilogue



 窓の外で、風鈴がチリンと涼しげな音を鳴らしていた。
 白鷺家の広大な屋敷にも、ゆっくりと、しかし確実に瑞々しい夏が訪れ始めている。
 青々とした庭木は夕暮れの風にそよそよと揺れ、何処か切なげな茜色の光が、窓ガラス越しに室内へと優しく滲み込んでいた。
 あの観覧車の頂上で想いを通じ合わせた遊園地デートから、数週間。
 劇的に何かが変わった訳ではない。
 相変わらず白鷺財閥には処理すべき面倒事が山積みで、アキラの失脚による影響も、かつての孤児院を巡る暗い過去も、全てが綺麗に片付いた訳ではなかった。
 それでも、二人の間には、確かに、他の誰にも踏み込めない特別な何かが変わっていた。

「……ナギサ」
「はい」

 柔らかな間接照明に照らされたミアの部屋で、ナギサはソファに腰掛け、手元の書類から顔を上げた。
 以前なら、ミアとルナの世間話か業務の報告くらいしか聞けなかった冷たい空間。けれど今のそこには、砂糖を少し溶かしたような、甘くて穏やかな空気が満ちていた。
 ミアはベッドの縁へちょこんと腰掛けたまま、ひとつのぬいぐるみを愛おしそうに両手で抱き締めている。
 それは、あの日の遊園地でナギサが必死になって手に入れ、彼女に贈った、あの少し不格好な宇宙服を着た遊園地のゆるキャラだった。

「それ、本当に気に入ってますね。屋敷の高級な調度品の中だと、ちょっと浮いてますけど」
「いいじゃない、別に。だって……ナギサが私にくれた、初めての宝物だもの」

 なんの(てら)いもなくさらりと返され、ナギサは一瞬で言葉に詰まり、喉を鳴らした。
 最近のミアは、心臓に悪い言葉を躊躇なく真っ直ぐな瞳で投げてくるようになった。

「……本当に、慣れません」
「慣れなさいって、あの時言ったでしょう?  これからいくらでも、言ってあげるわよ」

 いたずらっぽく、くすくすと鈴を転がすように笑うミアに、ナギサは観念したように小さく肩を落とした。けれど、その口元は隠しきれずに緩んでいる。
 開け放たれた窓から入り込む心地よい夕風が、薄手の白いカーテンを優しく揺らした。
 静かな、静かな時間。
 けれど、かつて二人の間にあったような、息の詰まる嫌な沈黙では決してない。
 お互いに何も話さなくても少しも苦しくなくて、ただ同じ空間に、お互いの体温を感じながら一緒にいること自体が、あまりにも自然に思える――そんな、奇跡のような時間だった。

「ねぇ、ナギサ」
「何ですか?」
「来年も、その次も……ずっと一緒に行きたいわ」

ナギサはパチパチと瞬きをして、こてんと首を傾げた。

「遊園地ですか?」
「それもあるけれど……もっと、色んな所。あんたが見せてくれる、外の世界」

 ミアは少しだけ照れ臭そうに、抱き締めたぬいぐるみに顔を半分埋めながら、視線を斜め下へと逸らした。

「私、まだこの世界の楽しいこと、何一つ知らないことばっかりだから」

 ゲームセンターの騒がしさも。
 ジェットコースターの恐ろしさも。
 夕暮れに輝く観覧車も。
 小さなレストランの庶民的な味も。
 全部、ナギサが隣にいて、その手を繋いでいてくれたから、息が止まるほど愛おしくて楽しかったのだ。
 だからきっと。これから先にどんな困難が待っていようとも、この人が隣にいてくれるなら、まだ見ぬどんな景色だって――。

「……はい」

 ナギサは書類をテーブルに置くと、一人の男として何処までも優しい笑みをミアへと向けた。

「何処へだって、貴方の行きたい場所へ連れて行きますよ。僕はミアの専属執事なんですから」

 その言葉に、ミアも本当に嬉しそうに、きらきらと瞳を細めて微笑んだ。
 そよぐ夏の風が、室内のカーテンをふわりと持ち上げる。
 ベランダの風鈴が、またチリンと、祝福するように小さく鳴り響いた。
 かつて冷酷な白鷺の屋敷で“籠の中の鳥”と呼ばれ、孤独に震えていた令嬢はもう一人ではない。
 そして彼女の隣には今、世界で一番頼りない新米執事であり、世界で一番愛おしい大切な人がいる。
 ポンコツ執事は一人のお嬢様を愛し、お嬢様は一人の専属執事を溺愛する。
 閉ざされた檻の扉は開き、二人の本当の未来は、まだ始まったばかりだった。







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