ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される
 あの一件以来、彼女はずっと不安だったのだ。
 自分だけが独りよがりで恋をしているのではないかと。
 彼が向けてくれる優しさは、全て「白鷺の執事」としての完璧なロールプレイ(お仕事)に過ぎないのではないかと。
 この想いを一歩でも踏み出して口にした瞬間、今の穏やかな関係すら、全て木っ端微塵に壊れてしまうのではないかと。
 だから、怖くてたまらなかった。ずっと、一人で怯えていたのだ。

「なのに……っ、急に、こんなの……っ、ずるいじゃない……っ!」

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら訴えかけてくるその姿は、高慢な白鷺家のお嬢様なんかでは断じてなかった。
 ただ一人の、大好きな男の子の言葉に一喜一憂する、等身大の恋する女の子だった。
 ナギサは胸の奥をキリキリと締め付けられるような、甘く切ない痛みを覚えながら左手で彼女の柔らかい髪をそっと、優しく撫でた。

「……ごめん」

 いつもより少しだけ低く、けれど何処までも誠実な声だった。

「僕も、怖かったんです」

 自分が主に対して恋をしてしまうことも。
 その歪な感情を認めてしまうことも。
 一度でも伝えてしまえば、もう「完璧な主従関係」という安全地帯には戻れなくなることも――全部、全部怖くて、だから気づかない振りをしていた。
 けれど、今、自分の腕の中には、格好悪いほど泣きながらも、必死に自分にしがみついて離れようとしない愛おしい少女がいる。
 ナギサはミアの背中に両腕を回し、今度は強く、優しく抱き締めた。
 ガラス細工のような壊れ物を扱うみたいに。けれど、二度と誰にもこの腕から離さないと神に誓うみたいに。

「でも、これからはもう、自分の心に嘘は吐かないから」

 小刻みに震える耳元で、静かに熱を込めて囁く。
 思えば、ずっとこうして誰よりも近くにいられる未来を望んでいたのかもしれない。
 間に誰も入れないくらい近く、そして決して離れないように。

「僕は、君が好きです、ミア」

 もう一度。今度は主従の壁も、お嬢様という肩書きも、何一つ誤魔化さずに。

「執事だからじゃない。守らなきゃいけない対象だからでもない」

 抱き締める腕に、少しだけ独占欲を込めて力を込める。

「一人の男として、君のことが好きなんです」

 二人の感情を乗せた観覧車は、ゆっくりと、祝福するように夜空を回り続ける。
 ガラスの向こうの喧騒は完全に遮断され、まるで世界にはもう自分達二人しか存在していないかのように静寂に満ちていた。
 ミアはナギサの胸に顔を埋めたまま、まだ涙で震える声で、小さく、けれど確かな甘さを孕んで呟いた。

「……ばか」
「はい」
「遅いのよ……っ」
「本当に、すみません」
「……ほんとに、遅すぎ。私の心臓、破裂するかと思ったんだから」

 それは、世界で一番愛らしい泣き笑いの声だった。
 ナギサはそんな彼女を愛おしさの限界を迎えながら抱き締めたまま、小さく笑った。そしてそっと、夜景の光を遮るように目を閉じる。

「だからもう、泣かないで。泣いていたら、幸せが逃げるよ」

 ようやく辿り着けたのだと、強く確信していた。
 孤独な暗闇の中で生きてきた子供達が。
 白鷺という冷酷な檻の中で息を潜めていた二人が。
 お互いという唯一無二の光を見つけ、やっと、“幸せになりたい”と心の底から願える、本当のスタートラインに。







< 145 / 148 >

この作品をシェア

pagetop