冷徹な天才医師は泣けない彼女を溺愛する
第一章 感情をもてない看護師
「白石さん、302号室の田中さんがまた点滴外してるって。お願いできる?」
「はい、すぐ行きます」
廊下を歩きながら、私は小さく頷いた。
夕方の病棟は慌ただしい。配膳車が音を立て、面会に来た家族が廊下の椅子に並び、どこかのナースコールが、ひっきりなしに鳴り続けている。それでも私の足取りは、いつも通り静かだった。
田中さんは今日で入院三十二日目になる。八十二歳。認知症の進行により、夜になると点滴を引き抜いてしまうことが増えていた。担当看護師たちの間では「また田中さん」と小さな溜め息が漏れるようになっていたが、私は一度もそういう顔を見せたことがなかった。
べつに、意識してそうしているわけではない。
溜め息をつくほどの感情が、沸いてこないだけだ。
「田中さん、こんにちは。白石です」
「……誰だ。娘か?」
カーテンを開けると、老人はベッドの端に腰かけていた。点滴の針は外れ、腕に小さな血の跡がついている。窓の外をしきりに気にして、目が落ち着かない様子だった。
私は迷わず隣に腰を下ろし、ガーゼで腕を拭った。
「看護師の白石美月です。点滴を直しに来ましたよ」
「早く帰らないと。誰が晩ご飯を作るんだ」
「大丈夫ですよ。今夜は私がそばにいますから」
嘘だった。十七時には退勤しなければならない。でも今この瞬間、田中さんが必要としているのは正確な情報ではなく、安心させてくれる声だ。
私はそれを、知っている。だからためらわずに言えた。
針を刺し直し、テープで固定する。指先は温かく、動作はなめらかだった。田中さんはすぐに目を細め、うとうとし始めた。
「……ありがとう、娘よ」
「おやすみなさい」
カーテンを閉めて廊下に戻った。
ふっと息を吐く。
胸の中は、しんと静かだった。
老人の言葉が心に触れた感覚は、ない。温かさも、切なさも、「よかった」という達成感さえ、どこにも見当たらない。ただ、次にすべきことを確認するように、私はポケットのメモを取り出した。501号室の検温。207号室の術後処置。今夜の記録入力。することは山ほどある。
すべきことをするだけだ。
病棟では、私の評判はとびきりよかった。
「白石さんって、本当に天使みたいよね」
「どんな患者さんにも同じ顔で接してくれるじゃない。うちのお父さんも懐いちゃって」
「ミスもしないし、残業も嫌な顔しないし……あの子、人間なの?」
最後のひと言は冗談のつもりで言われた。周りが笑った。私も笑った。
(人間かどうか、か。それは私も、たまに考える)
でも当然、そんなことは口に出さない。
三十二床の外科病棟で三年。私は一度も患者を泣かせたことがなく、一度も同僚に怒鳴ったことがなく、一度も急変で取り乱したことがなかった。
それは誇るべき記録のようで、私自身には別になんでもなかった。
泣かせなかったのは、患者の不安を先読みして手を打ったからだ。怒鳴らなかったのは、怒りが沸いたことがないからだ。取り乱さなかったのは、急変しても、怖いと感じないからだ。
感情のない人間は、感情に乱されることもない。
ただ、それだけのことだった。
更衣室でロッカーを開け、扉の内側に貼った小さな鏡を覗き込んだ。
黒髪を低い位置でまとめ、薄く色づいたリップ。目元は穏やかで、眉はきれいに整っている。
(今日も、ちゃんと笑えていたかな)
自分の表情を確認するのが、毎日の習慣になっていた。感情がないと、自分が今どんな顔をしているかがわからなくなることがある。怒っているのに笑顔だったり、悲しんでいるのに無表情だったりすることが、あるらしい。
鏡の中の私は、誰が見ても「感じのよい看護師」に見えた。
それでいい、と思った。これが、白石美月という人間の正しい在り方だから。
夜、アパートに帰ってひとりでテーブルにつく。
コンビニで買ったパスタを食べながら、テレビをつけた。バラエティ番組で芸人が何か叫んでいて、観客席が笑いに揺れている。私は画面を眺めた。
何がおかしいのか、わからなかった。
(そういえば、最後に本当に笑ったのはいつだっただろう)
顔の筋肉を動かすのではなく、心から、おかしいと感じて笑ったのは。
思い出せなかった。
たぶん、二十三歳のあの冬よりも、前の話だ。
フォークを置いて、残り半分のパスタを見つめた。食欲があるのかないのかも、よくわからない。でもカロリーを摂らないと翌日の仕事に支障が出る。だから食べる。ただそれだけのことだ。
(今日も、うまく乗り越えた)
そう思いながら、テレビの電源を消した。暗くなった画面に、私の輪郭が映った。
穏やかな顔をしていた。
誰かが見たら「なんて落ち着いた人だろう」と思うかもしれない。でも私には分かっている。これは落ち着いているのではない。ただ、揺れるものが何もないだけだ。
湖の水面が静かなのは、美しいからではない。深すぎて、風が届かないからだ。
そんなことを考えながら、私はシャワーを浴びて布団に入った。
夢を、見なかった。
朝霧恒一という名前を最初に聞いたのは、彼が赴任する三日前のことだった。
「ねえ聞いた? 今週から新しい外科部長が来るって」
「知ってる知ってる。なんか、ものすごく有名な人らしいよ」
「国内の腹腔鏡手術の成功率トップなんだって。三十二歳で」
ナースステーションの端で電子カルテを更新しながら、私は同僚たちの話に半分だけ耳を傾けていた。新しい医師が来るたびにこういう話になる。スタッフが一時的に浮き立ち、やがて日常に戻っていく。いつも通りの光景だった。
「写真見た? すごくかっこいいらしいけど、性格がひどいって噂で」
「ひどいって、どんな風に?」
「なんか……感情がないっていうか。患者に対しても、スタッフに対しても、要件しか話さないって。前の病院でもスタッフが何人か辞めたって聞いたけど」
(感情がない、か)
私は顔を上げないまま、小さく思った。それはよく知っている感覚だ。
朝霧先生が病棟に初めて現れたのは、月曜日の朝だった。
廊下の端から歩いてくる姿を見た瞬間、ナースステーション全体の空気がわずかに変わった。何人かが姿勢を正し、何人かが声量を落とした。
背が高かった。百八十センチ以上はあるだろう。白衣の下の体は無駄なく締まっていて、足音は静かなのに歩き方には迷いがなかった。顔立ちは整っていた。高い鼻梁、きつく引き結ばれた薄い唇。でも何より目を引いたのは、その目の色だ。
暗い、深い色をした瞳。まるで見るもの全てを測っているような、冷えた眼差し。
「外科部長の朝霧です」
簡潔な自己紹介だった。以上、とでも言うように、それだけで終わった。
師長の林さんが慌ててスタッフを紹介し始めたが、朝霧先生はそれほど関心がなさそうだった。各自の名前を聞き流すように頷き、淡々とカルテを受け取った。
「本日の予定を確認します。術前患者のリストを出してください」
声は低く、落ち着いていた。怒っているわけではない。でも、温かみがない。
(なるほど、感情がないとはこういうことか)
初めて、「感情がない」という言葉を他人に使うことができる人間に会った気がした。
朝霧先生の手術は、見ている者を圧倒した。
私は術後のデータ確認でオペ室の記録を見ることがあったが、どの手術も異様なほど処置が速く、精確だった。「切る」「縫う」「止める」という一連の動作に一切の迷いがなく、出血量は最小限に抑えられ、合併症の発生率も驚くほど低かった。
スタッフの間では早速、さまざまな声が上がり始めていた。
「先生、怖いね。ちょっとでもミスすると一言でばっさり切られる感じ」
「でも実力は本物だよ。ああいう先生がいると、患者さんにとっては安心かも」
「私は苦手……。目が合うだけで心臓止まりそう」
確かに朝霧先生は、愛想というものをまったく持ち合わせていなかった。回診のとき患者に声をかけるのも、必要な医療情報だけだ。
「経過は順調です。三日後に退院できます」
それだけ言って次の病室に向かう。患者が「先生、少しよろしいですか」と声をかけても、
「必要なことはすべて担当看護師にお伝えください」
と言い残して行ってしまう。
患者が戸惑うのは当然だった。でも朝霧先生にとって、患者の感情的な不安に付き合う時間は、必要なコストではないのだろう。
(合理主義、ということか)
私は、朝霧先生を見るたびに、どこか他人事ではない気持ちになった。感情に価値を置かないという点において、私たちは似ているかもしれない。
でも根本は全然違う、とも思った。
朝霧先生は感情を「不要だ」と判断してカットしている。でも私は、感情を失ったのではなく、最初から持っていないのだ。持てなくなった、と言った方が正確かもしれないけれど。
その違いが何を意味するのか、私にはよくわからなかった。
赴任から一週間後。
私が廊下で処置の準備をしていると、うしろから声がした。
「白石」
振り向くと、朝霧先生が立っていた。
「はい」
「511号室の山田の傷口、今朝の処置から滲出液が増えている。確認したか」
私は即座に答えた。
「確認しています。今朝の処置後から量が増えていましたので、昨日比の数値を記録してありますし、高野先生にも報告済みです」
「……そうか」
先生の視線が、一瞬だけ私の顔に向いた。
何かを確認するような、測るような目だった。
「わかった」
それだけ言って、足早に立ち去った。
(なんだったんだろう)
私は首を傾げながら、手元の仕事に戻った。
その視線のことは、すぐに忘れた。そのときは、まだ。
六十一歳の男性患者、倉田さんが亡くなったのは、水曜日の夜だった。
膵臓癌の末期で、三週間前から緩和ケア病棟ではなく外科病棟での管理が続いていた。家族が「できるだけ積極的な治療を」と希望し、最後まで治療を続ける方針だったのだ。
夜勤中に急変の連絡が入り、私はすぐに対応した。
心肺蘇生。除細動。薬剤投与。マニュアル通りに、一つひとつの処置を淀みなく行った。でも三十分後、時計の針は止まった。
「二十二時四十七分、死亡確認」
当直医の声が静かな病室に響いた。
倉田さんのご家族が泣き崩れた。奥さんが夫の手を握り、「お父さん、お父さん」と繰り返した。娘さんが壁に手をつき、声を抑えて泣いた。
私は、その場ですべきことをした。ご家族に椅子を勧め、水を持ってきて、担当医が来るまでそばに付き添った。
「白石さん……ありがとう。最後まで一緒にいてくれて」
「お役に立てなくて、すみませんでした」
それは、本当にそう思っていた。処置が届かなかったことへの事実としての言葉だ。
やがてご家族が病室に残り、私は廊下に出た。
ナースステーションに戻ろうとしたとき、声がした。
「白石」
廊下の暗がりに、朝霧先生が立っていた。
(いつからいたのだろう)
今夜は当直ではないはずだった。なぜここにいるのかわからなかった。
「先生。倉田さんは先ほど……」
「知っている。見ていた」
先生の声は、静かだった。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。でも、何かを見定めるような緊張感があった。
「白石。お前は、倉田さんが亡くなったとき、何を感じた」
唐突な問いだった。
私は一瞬、戸惑った。
「……処置が届かず、残念でした」
「それは感想だ。感情を聞いている」
「感情、ですか」
先生の目が細くなった。
「ご家族が泣いていた。当直医も顔色が変わっていた。お前だけが、最初から最後まで、一度も表情を変えなかった」
(気づいていたのか)
私は内心、驚いた。でも表情は動かなかった。動かなかったのではなく、動かなかっただけだ。
「私は看護師として、正確に対応したつもりです」
「それを聞いているんじゃない」
朝霧先生は一歩、私の方に近づいた。
「お前、それで正常だと思っているのか」
その言葉は、静かなのに、鋭かった。
廊下の蛍光灯が、微かにちらついた。私と先生の間に、短い沈黙が落ちた。
「……仕事に支障は出ていないと思いますが」
「俺が聞いているのはそういうことじゃない」
先生は私を見つめたまま、続けた。
「人間は、目の前で人が死んだとき、何かを感じる。それが普通だ。怖いとか、悲しいとか、無力だとか。お前にはそれがなかった」
言い切り方が鋭かった。
「……先生には関係のないことだと思います」
私は静かに、でもはっきりと答えた。
先生の眼差しが、わずかに揺れた気がした。
「そうかもしれない」
短い沈黙のあと、朝霧先生はくるりと向きを変えた。
「今夜は帰れ。明日の朝一、回診がある」
それだけ言って、足音もなく廊下の奥へ消えた。
私はしばらく、その場に立っていた。
(奇妙な人だ)
感情に価値がないと思っている人間が、他人の感情のなさを指摘する。
矛盾しているような気もしたし、矛盾していないような気もした。
よくわからないまま、私はナースステーションに戻った。
それから、朝霧先生が私を見る目が変わった。
正確に言えば、頻度が変わった。
廊下で会うたびに、先生の視線が一瞬だけ私の顔で止まる。回診のとき、私がご家族に声をかけている様子を、少し離れた場所から観察している。手術の準備室で私が動いているとき、先生がカルテを持ったまま立ち止まって、じっとこちらを見ていることがある。
同僚たちは気づいていないようだった。でも私には、はっきりとわかった。
(見られている)
べつに、不快というわけではなかった。感情がないのだから、不快にもならない。ただ、認識として「観察されている」という事実があるだけだ。
それが何を目的としているのかは、わからなかった。
ある夜の終業前、私が記録を入力していると、朝霧先生が隣のデスクに腰を下ろした。
先生は自分のカルテを開きながら、こちらを見ずに口を開いた。
「今日、201号室の長谷川が面会を断ったとき、お前はどう対応した」
「ご家族に状況を説明して、別の日に来ていただくよう案内しました」
「長谷川本人はどんな様子だった」
「普段より少し口数が少なかったです。疲れているようでした」
「お前は、そのとき長谷川が何を考えていると思った」
私は少し考えた。
「……もう面会に来てほしくないと思っていたのかもしれません。家族に心配させたくない、あるいは、会うことで自分の病状を実感させられるのが嫌だったのか」
「なぜそう思った」
「視線が、ドアの方向ではなく窓の外に向いていたので。外を見るのは現実から距離を置きたいときが多い気がして」
先生は何も言わなかった。ただ、手元のカルテをめくる動作が、一瞬止まった。
(……また、何かを確かめている)
そう感じた。先生が私に問いかけているのは、業務の確認ではない。私が何かを「感じて」行動しているのか、それとも「考えて」行動しているのかを、調べているのだ。
どちらでもない、とは言えなかった。
「白石」
しばらくして、先生が低い声で言った。
「お前は患者の気持ちを読むのがうまい」
「……ありがとうございます」
「褒めてはいない」
顔を上げると、先生はこちらを見ていた。その目は、いつも通り冷たかった。
「感情で動いているんじゃなく、論理で動いている。そうだろう。お前は患者の行動パターンを分析して、最適な対応をはじき出している」
私は少し驚いた。
「そうかもしれません」
「感情がなくても、人は読める。だが、それはあくまで推測だ。間違えることもある」
「はい」
「間違えたとき、お前はどうする」
「軌道修正します」
先生は何も言わなかった。また少し、沈黙が落ちた。
「……退勤しろ」
それだけ言って、先生はカルテに視線を戻した。
私は立ち上がり、ロッカーに向かった。
廊下を歩きながら、私は思った。
(あの人は、私を解剖しようとしている)
外科医が標本を観察するように。まるで、私の中の「空白」の正体を確かめようとしているかのように。
なぜそんなことをするのか、わからなかった。
でも不思議と、恐怖もなかった。
感情のない私を、感情に価値がないと言っている人間が観察している。
それはどこか、滑稽で、でも不思議と、誰かに見られているという事実だけが、この胸のどこかに小さな波紋を作った。
久しぶりに、自分の内側に何かが起きた気がした。
それは、金曜日の朝の回診の後に起きた。
朝霧先生が師長の林さんを呼び、何事かを話していた。林さんが少し驚いた顔をして、それから頷いた。先生が去っていくのを見届けてから、林さんが私のところへ来た。
「白石さん、ちょっといいかしら」
小会議室に呼ばれた。林さんは椅子に座りながら、少し困った様子で口を開いた。
「朝霧先生から、お願いがあって。白石さんに、先生の専属看護師になってもらえないかって」
私は、一瞬、返事ができなかった。
「専属、ですか」
「そう。先生の担当患者の処置、記録管理、手術補助の準備、全部白石さんに一任したいって。外科部長がそう望むなら病棟としては断る理由もないんだけど……白石さんは、どう?」
林さんが心配そうにこちらを見ていた。
専属看護師の指名は、異例のことだった。ベテランの看護師が指名されることは稀にあるが、私のような中堅看護師が外科部長直々に指名されるのは、この病棟では記憶にないことだった。
「……理由は、聞きましたか」
「それが、理由は特に言わなかったって。ただ、白石さんが適切だと判断した、って」
適切。
その言葉は、人間に対して使う言葉ではない気がした。まるで器具や薬の選定のように、「適切」と言う。
でも、私には断る理由もなかった。
「わかりました。お受けします」
「本当に? 正直、朝霧先生はかなり要求が厳しいから、プレッシャーかかると思うけど」
「大丈夫です」
林さんはまだ少し心配そうだったが、最終的に頷いた。
「じゃあ来週から、先生に直接指示をもらう形にしましょう。何かあったらすぐ言ってね」
廊下に出ると、朝霧先生がちょうど歩いてきた。
私を見て、足を止めた。
「林から聞いたか」
「はい。お受けすると、お伝えしました」
先生は少しの間、私の顔を見た。
「来週から朝の申し送りは俺に直接行え。担当患者の状態変化は些細なことでもすぐ報告しろ。手術補助の準備は術前日の夕方までに完了させろ」
「わかりました。ほかに何かありますか」
先生は少し間を置いた。
「……今のところはない」
それだけ言って、また歩き出した。
私はその背中を見ながら、静かに思った。
(観察から、次のフェーズに移ったということか)
なぜ私が選ばれたのかは、わかっていた。朝霧先生は私の中の「空白」に気づいている。感情を演じることなく淡々と動く私は、先生にとって何か特別な意味を持っているのだろう。
しかし、それが何なのかは、まだわからなかった。
解剖台の上に乗せられたような、そんな感覚がした。
怖くはなかった。怖いと感じる部分が、私にはないからだ。
ただ、廊下の窓から差し込む夕暮れの光の中で、私は思った。
(この人は、私に何をしようとしているのだろう)
誰かがそんなことを考えてくれることは、久しぶりだった。いや、これまでもあったのかもしれないが、感じたことがなかっただけかもしれない。
二十三歳の冬、私は感情という名のエンジンを切った。それ以来、ずっと惰性で走り続けている。
朝霧先生が何をしようとしているのかは、わからない。
でも今、あの暗い瞳の奥に何があるのかを、私は少しだけ知りたいと思った。
それは感情と呼べるほどのものではない。
きっと、ただの好奇心だ。
そう自分に言い聞かせながら、私は病棟に戻った。
廊下の突き当たり、先生の白衣の裾が、曲がり角に消えていくのが見えた。
「はい、すぐ行きます」
廊下を歩きながら、私は小さく頷いた。
夕方の病棟は慌ただしい。配膳車が音を立て、面会に来た家族が廊下の椅子に並び、どこかのナースコールが、ひっきりなしに鳴り続けている。それでも私の足取りは、いつも通り静かだった。
田中さんは今日で入院三十二日目になる。八十二歳。認知症の進行により、夜になると点滴を引き抜いてしまうことが増えていた。担当看護師たちの間では「また田中さん」と小さな溜め息が漏れるようになっていたが、私は一度もそういう顔を見せたことがなかった。
べつに、意識してそうしているわけではない。
溜め息をつくほどの感情が、沸いてこないだけだ。
「田中さん、こんにちは。白石です」
「……誰だ。娘か?」
カーテンを開けると、老人はベッドの端に腰かけていた。点滴の針は外れ、腕に小さな血の跡がついている。窓の外をしきりに気にして、目が落ち着かない様子だった。
私は迷わず隣に腰を下ろし、ガーゼで腕を拭った。
「看護師の白石美月です。点滴を直しに来ましたよ」
「早く帰らないと。誰が晩ご飯を作るんだ」
「大丈夫ですよ。今夜は私がそばにいますから」
嘘だった。十七時には退勤しなければならない。でも今この瞬間、田中さんが必要としているのは正確な情報ではなく、安心させてくれる声だ。
私はそれを、知っている。だからためらわずに言えた。
針を刺し直し、テープで固定する。指先は温かく、動作はなめらかだった。田中さんはすぐに目を細め、うとうとし始めた。
「……ありがとう、娘よ」
「おやすみなさい」
カーテンを閉めて廊下に戻った。
ふっと息を吐く。
胸の中は、しんと静かだった。
老人の言葉が心に触れた感覚は、ない。温かさも、切なさも、「よかった」という達成感さえ、どこにも見当たらない。ただ、次にすべきことを確認するように、私はポケットのメモを取り出した。501号室の検温。207号室の術後処置。今夜の記録入力。することは山ほどある。
すべきことをするだけだ。
病棟では、私の評判はとびきりよかった。
「白石さんって、本当に天使みたいよね」
「どんな患者さんにも同じ顔で接してくれるじゃない。うちのお父さんも懐いちゃって」
「ミスもしないし、残業も嫌な顔しないし……あの子、人間なの?」
最後のひと言は冗談のつもりで言われた。周りが笑った。私も笑った。
(人間かどうか、か。それは私も、たまに考える)
でも当然、そんなことは口に出さない。
三十二床の外科病棟で三年。私は一度も患者を泣かせたことがなく、一度も同僚に怒鳴ったことがなく、一度も急変で取り乱したことがなかった。
それは誇るべき記録のようで、私自身には別になんでもなかった。
泣かせなかったのは、患者の不安を先読みして手を打ったからだ。怒鳴らなかったのは、怒りが沸いたことがないからだ。取り乱さなかったのは、急変しても、怖いと感じないからだ。
感情のない人間は、感情に乱されることもない。
ただ、それだけのことだった。
更衣室でロッカーを開け、扉の内側に貼った小さな鏡を覗き込んだ。
黒髪を低い位置でまとめ、薄く色づいたリップ。目元は穏やかで、眉はきれいに整っている。
(今日も、ちゃんと笑えていたかな)
自分の表情を確認するのが、毎日の習慣になっていた。感情がないと、自分が今どんな顔をしているかがわからなくなることがある。怒っているのに笑顔だったり、悲しんでいるのに無表情だったりすることが、あるらしい。
鏡の中の私は、誰が見ても「感じのよい看護師」に見えた。
それでいい、と思った。これが、白石美月という人間の正しい在り方だから。
夜、アパートに帰ってひとりでテーブルにつく。
コンビニで買ったパスタを食べながら、テレビをつけた。バラエティ番組で芸人が何か叫んでいて、観客席が笑いに揺れている。私は画面を眺めた。
何がおかしいのか、わからなかった。
(そういえば、最後に本当に笑ったのはいつだっただろう)
顔の筋肉を動かすのではなく、心から、おかしいと感じて笑ったのは。
思い出せなかった。
たぶん、二十三歳のあの冬よりも、前の話だ。
フォークを置いて、残り半分のパスタを見つめた。食欲があるのかないのかも、よくわからない。でもカロリーを摂らないと翌日の仕事に支障が出る。だから食べる。ただそれだけのことだ。
(今日も、うまく乗り越えた)
そう思いながら、テレビの電源を消した。暗くなった画面に、私の輪郭が映った。
穏やかな顔をしていた。
誰かが見たら「なんて落ち着いた人だろう」と思うかもしれない。でも私には分かっている。これは落ち着いているのではない。ただ、揺れるものが何もないだけだ。
湖の水面が静かなのは、美しいからではない。深すぎて、風が届かないからだ。
そんなことを考えながら、私はシャワーを浴びて布団に入った。
夢を、見なかった。
朝霧恒一という名前を最初に聞いたのは、彼が赴任する三日前のことだった。
「ねえ聞いた? 今週から新しい外科部長が来るって」
「知ってる知ってる。なんか、ものすごく有名な人らしいよ」
「国内の腹腔鏡手術の成功率トップなんだって。三十二歳で」
ナースステーションの端で電子カルテを更新しながら、私は同僚たちの話に半分だけ耳を傾けていた。新しい医師が来るたびにこういう話になる。スタッフが一時的に浮き立ち、やがて日常に戻っていく。いつも通りの光景だった。
「写真見た? すごくかっこいいらしいけど、性格がひどいって噂で」
「ひどいって、どんな風に?」
「なんか……感情がないっていうか。患者に対しても、スタッフに対しても、要件しか話さないって。前の病院でもスタッフが何人か辞めたって聞いたけど」
(感情がない、か)
私は顔を上げないまま、小さく思った。それはよく知っている感覚だ。
朝霧先生が病棟に初めて現れたのは、月曜日の朝だった。
廊下の端から歩いてくる姿を見た瞬間、ナースステーション全体の空気がわずかに変わった。何人かが姿勢を正し、何人かが声量を落とした。
背が高かった。百八十センチ以上はあるだろう。白衣の下の体は無駄なく締まっていて、足音は静かなのに歩き方には迷いがなかった。顔立ちは整っていた。高い鼻梁、きつく引き結ばれた薄い唇。でも何より目を引いたのは、その目の色だ。
暗い、深い色をした瞳。まるで見るもの全てを測っているような、冷えた眼差し。
「外科部長の朝霧です」
簡潔な自己紹介だった。以上、とでも言うように、それだけで終わった。
師長の林さんが慌ててスタッフを紹介し始めたが、朝霧先生はそれほど関心がなさそうだった。各自の名前を聞き流すように頷き、淡々とカルテを受け取った。
「本日の予定を確認します。術前患者のリストを出してください」
声は低く、落ち着いていた。怒っているわけではない。でも、温かみがない。
(なるほど、感情がないとはこういうことか)
初めて、「感情がない」という言葉を他人に使うことができる人間に会った気がした。
朝霧先生の手術は、見ている者を圧倒した。
私は術後のデータ確認でオペ室の記録を見ることがあったが、どの手術も異様なほど処置が速く、精確だった。「切る」「縫う」「止める」という一連の動作に一切の迷いがなく、出血量は最小限に抑えられ、合併症の発生率も驚くほど低かった。
スタッフの間では早速、さまざまな声が上がり始めていた。
「先生、怖いね。ちょっとでもミスすると一言でばっさり切られる感じ」
「でも実力は本物だよ。ああいう先生がいると、患者さんにとっては安心かも」
「私は苦手……。目が合うだけで心臓止まりそう」
確かに朝霧先生は、愛想というものをまったく持ち合わせていなかった。回診のとき患者に声をかけるのも、必要な医療情報だけだ。
「経過は順調です。三日後に退院できます」
それだけ言って次の病室に向かう。患者が「先生、少しよろしいですか」と声をかけても、
「必要なことはすべて担当看護師にお伝えください」
と言い残して行ってしまう。
患者が戸惑うのは当然だった。でも朝霧先生にとって、患者の感情的な不安に付き合う時間は、必要なコストではないのだろう。
(合理主義、ということか)
私は、朝霧先生を見るたびに、どこか他人事ではない気持ちになった。感情に価値を置かないという点において、私たちは似ているかもしれない。
でも根本は全然違う、とも思った。
朝霧先生は感情を「不要だ」と判断してカットしている。でも私は、感情を失ったのではなく、最初から持っていないのだ。持てなくなった、と言った方が正確かもしれないけれど。
その違いが何を意味するのか、私にはよくわからなかった。
赴任から一週間後。
私が廊下で処置の準備をしていると、うしろから声がした。
「白石」
振り向くと、朝霧先生が立っていた。
「はい」
「511号室の山田の傷口、今朝の処置から滲出液が増えている。確認したか」
私は即座に答えた。
「確認しています。今朝の処置後から量が増えていましたので、昨日比の数値を記録してありますし、高野先生にも報告済みです」
「……そうか」
先生の視線が、一瞬だけ私の顔に向いた。
何かを確認するような、測るような目だった。
「わかった」
それだけ言って、足早に立ち去った。
(なんだったんだろう)
私は首を傾げながら、手元の仕事に戻った。
その視線のことは、すぐに忘れた。そのときは、まだ。
六十一歳の男性患者、倉田さんが亡くなったのは、水曜日の夜だった。
膵臓癌の末期で、三週間前から緩和ケア病棟ではなく外科病棟での管理が続いていた。家族が「できるだけ積極的な治療を」と希望し、最後まで治療を続ける方針だったのだ。
夜勤中に急変の連絡が入り、私はすぐに対応した。
心肺蘇生。除細動。薬剤投与。マニュアル通りに、一つひとつの処置を淀みなく行った。でも三十分後、時計の針は止まった。
「二十二時四十七分、死亡確認」
当直医の声が静かな病室に響いた。
倉田さんのご家族が泣き崩れた。奥さんが夫の手を握り、「お父さん、お父さん」と繰り返した。娘さんが壁に手をつき、声を抑えて泣いた。
私は、その場ですべきことをした。ご家族に椅子を勧め、水を持ってきて、担当医が来るまでそばに付き添った。
「白石さん……ありがとう。最後まで一緒にいてくれて」
「お役に立てなくて、すみませんでした」
それは、本当にそう思っていた。処置が届かなかったことへの事実としての言葉だ。
やがてご家族が病室に残り、私は廊下に出た。
ナースステーションに戻ろうとしたとき、声がした。
「白石」
廊下の暗がりに、朝霧先生が立っていた。
(いつからいたのだろう)
今夜は当直ではないはずだった。なぜここにいるのかわからなかった。
「先生。倉田さんは先ほど……」
「知っている。見ていた」
先生の声は、静かだった。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。でも、何かを見定めるような緊張感があった。
「白石。お前は、倉田さんが亡くなったとき、何を感じた」
唐突な問いだった。
私は一瞬、戸惑った。
「……処置が届かず、残念でした」
「それは感想だ。感情を聞いている」
「感情、ですか」
先生の目が細くなった。
「ご家族が泣いていた。当直医も顔色が変わっていた。お前だけが、最初から最後まで、一度も表情を変えなかった」
(気づいていたのか)
私は内心、驚いた。でも表情は動かなかった。動かなかったのではなく、動かなかっただけだ。
「私は看護師として、正確に対応したつもりです」
「それを聞いているんじゃない」
朝霧先生は一歩、私の方に近づいた。
「お前、それで正常だと思っているのか」
その言葉は、静かなのに、鋭かった。
廊下の蛍光灯が、微かにちらついた。私と先生の間に、短い沈黙が落ちた。
「……仕事に支障は出ていないと思いますが」
「俺が聞いているのはそういうことじゃない」
先生は私を見つめたまま、続けた。
「人間は、目の前で人が死んだとき、何かを感じる。それが普通だ。怖いとか、悲しいとか、無力だとか。お前にはそれがなかった」
言い切り方が鋭かった。
「……先生には関係のないことだと思います」
私は静かに、でもはっきりと答えた。
先生の眼差しが、わずかに揺れた気がした。
「そうかもしれない」
短い沈黙のあと、朝霧先生はくるりと向きを変えた。
「今夜は帰れ。明日の朝一、回診がある」
それだけ言って、足音もなく廊下の奥へ消えた。
私はしばらく、その場に立っていた。
(奇妙な人だ)
感情に価値がないと思っている人間が、他人の感情のなさを指摘する。
矛盾しているような気もしたし、矛盾していないような気もした。
よくわからないまま、私はナースステーションに戻った。
それから、朝霧先生が私を見る目が変わった。
正確に言えば、頻度が変わった。
廊下で会うたびに、先生の視線が一瞬だけ私の顔で止まる。回診のとき、私がご家族に声をかけている様子を、少し離れた場所から観察している。手術の準備室で私が動いているとき、先生がカルテを持ったまま立ち止まって、じっとこちらを見ていることがある。
同僚たちは気づいていないようだった。でも私には、はっきりとわかった。
(見られている)
べつに、不快というわけではなかった。感情がないのだから、不快にもならない。ただ、認識として「観察されている」という事実があるだけだ。
それが何を目的としているのかは、わからなかった。
ある夜の終業前、私が記録を入力していると、朝霧先生が隣のデスクに腰を下ろした。
先生は自分のカルテを開きながら、こちらを見ずに口を開いた。
「今日、201号室の長谷川が面会を断ったとき、お前はどう対応した」
「ご家族に状況を説明して、別の日に来ていただくよう案内しました」
「長谷川本人はどんな様子だった」
「普段より少し口数が少なかったです。疲れているようでした」
「お前は、そのとき長谷川が何を考えていると思った」
私は少し考えた。
「……もう面会に来てほしくないと思っていたのかもしれません。家族に心配させたくない、あるいは、会うことで自分の病状を実感させられるのが嫌だったのか」
「なぜそう思った」
「視線が、ドアの方向ではなく窓の外に向いていたので。外を見るのは現実から距離を置きたいときが多い気がして」
先生は何も言わなかった。ただ、手元のカルテをめくる動作が、一瞬止まった。
(……また、何かを確かめている)
そう感じた。先生が私に問いかけているのは、業務の確認ではない。私が何かを「感じて」行動しているのか、それとも「考えて」行動しているのかを、調べているのだ。
どちらでもない、とは言えなかった。
「白石」
しばらくして、先生が低い声で言った。
「お前は患者の気持ちを読むのがうまい」
「……ありがとうございます」
「褒めてはいない」
顔を上げると、先生はこちらを見ていた。その目は、いつも通り冷たかった。
「感情で動いているんじゃなく、論理で動いている。そうだろう。お前は患者の行動パターンを分析して、最適な対応をはじき出している」
私は少し驚いた。
「そうかもしれません」
「感情がなくても、人は読める。だが、それはあくまで推測だ。間違えることもある」
「はい」
「間違えたとき、お前はどうする」
「軌道修正します」
先生は何も言わなかった。また少し、沈黙が落ちた。
「……退勤しろ」
それだけ言って、先生はカルテに視線を戻した。
私は立ち上がり、ロッカーに向かった。
廊下を歩きながら、私は思った。
(あの人は、私を解剖しようとしている)
外科医が標本を観察するように。まるで、私の中の「空白」の正体を確かめようとしているかのように。
なぜそんなことをするのか、わからなかった。
でも不思議と、恐怖もなかった。
感情のない私を、感情に価値がないと言っている人間が観察している。
それはどこか、滑稽で、でも不思議と、誰かに見られているという事実だけが、この胸のどこかに小さな波紋を作った。
久しぶりに、自分の内側に何かが起きた気がした。
それは、金曜日の朝の回診の後に起きた。
朝霧先生が師長の林さんを呼び、何事かを話していた。林さんが少し驚いた顔をして、それから頷いた。先生が去っていくのを見届けてから、林さんが私のところへ来た。
「白石さん、ちょっといいかしら」
小会議室に呼ばれた。林さんは椅子に座りながら、少し困った様子で口を開いた。
「朝霧先生から、お願いがあって。白石さんに、先生の専属看護師になってもらえないかって」
私は、一瞬、返事ができなかった。
「専属、ですか」
「そう。先生の担当患者の処置、記録管理、手術補助の準備、全部白石さんに一任したいって。外科部長がそう望むなら病棟としては断る理由もないんだけど……白石さんは、どう?」
林さんが心配そうにこちらを見ていた。
専属看護師の指名は、異例のことだった。ベテランの看護師が指名されることは稀にあるが、私のような中堅看護師が外科部長直々に指名されるのは、この病棟では記憶にないことだった。
「……理由は、聞きましたか」
「それが、理由は特に言わなかったって。ただ、白石さんが適切だと判断した、って」
適切。
その言葉は、人間に対して使う言葉ではない気がした。まるで器具や薬の選定のように、「適切」と言う。
でも、私には断る理由もなかった。
「わかりました。お受けします」
「本当に? 正直、朝霧先生はかなり要求が厳しいから、プレッシャーかかると思うけど」
「大丈夫です」
林さんはまだ少し心配そうだったが、最終的に頷いた。
「じゃあ来週から、先生に直接指示をもらう形にしましょう。何かあったらすぐ言ってね」
廊下に出ると、朝霧先生がちょうど歩いてきた。
私を見て、足を止めた。
「林から聞いたか」
「はい。お受けすると、お伝えしました」
先生は少しの間、私の顔を見た。
「来週から朝の申し送りは俺に直接行え。担当患者の状態変化は些細なことでもすぐ報告しろ。手術補助の準備は術前日の夕方までに完了させろ」
「わかりました。ほかに何かありますか」
先生は少し間を置いた。
「……今のところはない」
それだけ言って、また歩き出した。
私はその背中を見ながら、静かに思った。
(観察から、次のフェーズに移ったということか)
なぜ私が選ばれたのかは、わかっていた。朝霧先生は私の中の「空白」に気づいている。感情を演じることなく淡々と動く私は、先生にとって何か特別な意味を持っているのだろう。
しかし、それが何なのかは、まだわからなかった。
解剖台の上に乗せられたような、そんな感覚がした。
怖くはなかった。怖いと感じる部分が、私にはないからだ。
ただ、廊下の窓から差し込む夕暮れの光の中で、私は思った。
(この人は、私に何をしようとしているのだろう)
誰かがそんなことを考えてくれることは、久しぶりだった。いや、これまでもあったのかもしれないが、感じたことがなかっただけかもしれない。
二十三歳の冬、私は感情という名のエンジンを切った。それ以来、ずっと惰性で走り続けている。
朝霧先生が何をしようとしているのかは、わからない。
でも今、あの暗い瞳の奥に何があるのかを、私は少しだけ知りたいと思った。
それは感情と呼べるほどのものではない。
きっと、ただの好奇心だ。
そう自分に言い聞かせながら、私は病棟に戻った。
廊下の突き当たり、先生の白衣の裾が、曲がり角に消えていくのが見えた。