冷徹な天才医師は泣けない彼女を溺愛する
第二章 支配と侵食
専属看護師になって最初の一週間は、想像以上にハードだった。
朝の申し送りは七時三十分。朝霧先生は一秒も遅れることなく現れ、前日の患者状態の変化を確認し、当日の処置と手術スケジュールを淡々と告げた。無駄な言葉は一切ない。「おはようございます」もなければ、「昨日は遅くまでお疲れ様でした」もない。ただ、必要な情報だけが、精密機械のように整然と並んでいく。
「311号室の佐藤は排液の色調変化に注意。午前中に一度ドレーンを確認しろ」
「術後三日目の木村は歩行訓練を開始してよい。ただし転倒リスクがある。最初は必ずそばにつけ」
「田村の家族が今日の午後に面会に来る。告知後の状態だ。医療情報より精神的サポートを優先しろ」
私はメモを取りながら聞いた。指示は正確だった。一つひとつに医学的な根拠があり、優先順位もはっきりしていた。先生の頭の中では、二十人以上の担当患者の状態が常に整理されているのだろう。圧倒的な情報処理能力だ、と思いながら、私は淡々とそれをこなした。
もともと、仕事量が増えることへの抵抗感はない。感情がなければ、多忙に対して「つらい」と感じることがないからだ。体が疲弊しても、頭が認識するのは「パフォーマンスが低下している、休息が必要だ」という事実だけで、それに伴う感情的な消耗がない。疲れを「疲れた」と感じないまま、ただ動き続ける。
それが私のやり方だった。
問題は、そこではなかった。
その日、昼休みのことだった。
十二時を少し回った頃、ナースステーションの奥のデスクで私はようやく一息つけた。午前中に三件の処置と、手術前の家族説明の補助、それから急変気味だった患者のバイタル確認と記録更新が重なって、動き通しだった。
師長の林さんが差し入れてくれたコンビニのおにぎりと菓子パンが、ナースステーションの端に並んでいた。同僚たちが思い思いに手を伸ばしている。私はおにぎりを一個だけ取って、デスクに戻った。
包みを開いて、一口食べた。
味は、よくわからなかった。食べているという感覚はある。でも「おいしい」とか「もっと食べたい」という気持ちは起きない。体が要求するから食べる。それだけのことだ。
「それだけか」
背後から声がした。
振り返ると、朝霧先生が白衣の胸ポケットにペンを挿しながら立っていた。カルテのバインダーを脇に抱えていた。いつからいたのかわからなかった。気配がない人だ、といつも思う。
「……昼食です」
「わかっている。一個だけか、と聞いている」
「はい」
「朝は食べたか」
「……コーヒーを飲みました」
「それは食事ではない」
先生の表情は変わらなかった。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ、事実を確認しているような、フラットな口調だった。まるでカルテに「栄養摂取不足」と記録するときと、まったく同じトーンで。
「今日は七時から動き続けている。すでに五時間、まともなカロリーを摂取していない。それで午後もパフォーマンスを維持できると思っているのか」
「体は動きます。慣れていますので」
「慣れは劣化だ」
先生はそう言いながら、私の横を通ってナースステーションの端に歩いた。残り物の差し入れを一瞥して、おにぎりをひとつ取り上げ、無造作に私のデスクに置いた。
「食べろ」
(……なんだこれは)
私は少し困惑した。
患者に対してならわかる。栄養管理は治療の一部だ。でも私は患者ではない。先生が私の昼食に口を出す理由が、よくわからなかった。
「先生、私は患者ではありません」
「知っている」
「であれば、私の食事に口を出す理由は」
「お前のコンディションが落ちると、俺の仕事の質に影響する。今週の午後の手術は三件ある。うち一件は難度が高い。補助に入るお前の集中力が鈍ったら困る」
また、完璧に合理的な答えだった。
私が「困ります」と言える隙間がない。先生は私を心配しているのではなく、自分の仕事の品質を守るために、使用する器具のコンディションを管理しているだけだ。私は彼にとっての器具だ。
それは侮辱なのか、それとも単なる事実なのか、私には判断がつかなかった。
おにぎりを手に取った。反論のエネルギーを使う気になれなかったのと、実際お腹が空いていたのは本当だったから。
先生は私がおにぎりの包みを開けるのを確認してから、自分の仕事に戻った。
(管理している)
噛みながら、静かに思った。
患者の体を管理するように、私を管理している。体温を測るように、私の食事を確認する。ドレーンの状態を見るように、私の疲労を測る。そこに悪意はない。温もりもない。ただ、合理的な判断がある。
不快というほどの感情は起きなかった。でも、おかしい、とは思った。
こんな形で誰かに気にかけられたのは、久しぶりだった。いや、これを「気にかけられた」と呼ぶのは正確ではない。これは管理だ。
でも管理されることで、自分が存在を確認されているような感覚があった。
それが何なのか、うまく言葉にならなかった。
その週の木曜日、十九時を少し回った頃だった。
私が荷物をまとめてナースステーションを出ようとすると、廊下で先生が立っていた。腕を組み、廊下の窓の外を見ていた。私の足音に気づくと、こちらを向いた。
「帰るのか」
「はい、退勤します」
「今日は何時に来た」
「七時です」
「十二時間働いた」
「残業申請は出しています」
「そういう問題じゃない」
先生は私の方に向き直った。
「帰って何をする」
「夕食を食べて、少し資料の見直しをして、就寝します」
「資料の見直しは今日しなくていい」
「明日の準備があります」
「明日の朝にしろ。今夜は食事を取って休め」
私は先生の顔を見た。
廊下の蛍光灯の下で、先生の顔は相変わらず無表情だった。でも、その目がこちらを見ていた。逸らさずに。
「……先生は、私の退勤後の過ごし方まで管理するつもりですか」
「業務に支障が出る前に先手を打っているだけだ」
「私は今のところ業務に支障は出ていません」
「出てからでは遅い。兆候を見て動くのが医療だ」
(かなわない)
この人と論理で戦うと、必ず一枚上をいかれる。感情で押し返すこともできない。私には感情がないから。
私は静かに、でもはっきりと言った。
「わかりました。帰ります」
先生は短く頷いて、またこちらに背を向けた。廊下の窓の外に視線を戻した。
私はエレベーターを待ちながら、窓の外の夜を眺めた。
病院の駐車場に、街灯がぽつぽつと灯っていた。この時間にはまだ車が残っている。面会帰りの家族か、残業中の医師か。誰かがどこかで、誰かのそばにいる。
(この人は、なぜ私の退勤後まで気にするのだろう)
理由は説明されている。業務の質を維持するため。でも、この病棟には私以外にも看護師がいる。先生が全員の食事や睡眠を管理しているわけではない。
私だけが、管理の対象になっている。
エレベーターの扉が開いた。
乗り込みながら、私は思った。感情という名のセンサーが正常に動いていたなら、今この状況をどう感じるのだろう。
答えはわからなかった。
でも、扉が閉まる直前に廊下をちらりと振り返ったとき、先生はまだそこに立っていた。窓の外を見ていたが、ほんの一瞬だけ、こちらに視線が向いた気がした。
気のせいかもしれない。
扉が静かに閉まった。
専属になって二週間が過ぎた頃から、朝霧先生の「管理」はじわじわと範囲を広げていった。
食事。退勤時間。休憩の取り方。姿勢。水分補給。
ある朝、私がナースステーションで立ったまま記録を入力していると、先生が通りがかりに一言言った。
「椅子を使え。立位での長時間作業は腰に負担がかかる」
別の日の午後、私が処置室で器具の準備をしているとき、
「今日は三時間連続で動いている。十分でいいから座れ」
また別の日、私が廊下を早足で歩いていると、
「水分摂取はしているか」
そのたびに私は短く答えた。「はい」「わかりました」「しています」。
感情がなければ、こういった細かい干渉に対しても怒りは沸かない。ただ、「また言われた」という事実を認識するだけだ。
それでも、何か引っかかるものが積み重なっていた。
決定的だったのは、ある朝のことだった。
「今週末、研修は入っているか」
申し送りが終わった後、先生がカルテを手にしたまま聞いた。
「いいえ、入っていません」
「休日出勤の予定は」
「特にありません」
「なら土曜は完全に休め。外に出ろ」
私は先生の顔を見た。
「……はい?」
「ここ数日、お前の反応速度がわずかに落ちている。瞬発的な判断が〇・三秒ほど遅れている。疲労の蓄積だ。外気に当たって、非日常の刺激を与えることで神経系をリセットしろ」
朝霧先生は、まるで術後の回復プロトコルを説明するように言った。「神経系をリセット」。私が人間ではなく、精密機械か何かのような言い方だった。
「先生」
「なんだ」
「私は休日の過ごし方まで指示される覚えはないと思いますが」
「業務改善の一環だ」
「休日は業務ではありません」
「休日のコンディションが翌週の業務に直結する。したがって業務だ」
私はしばらく先生の顔を見た。先生は平然とカルテを開いていた。私がどんな表情をしているかに、まるで関心がなさそうだった。
食事、睡眠、退勤時間、休憩、そして今度は休日の過ごし方。
一つひとつを取れば、どれも合理的な理由がある。でも積み重なると、これはもう「管理」という言葉では足りなくなってくる。
私は静かに、でもはっきりと言った。
「放っておいてください」
先生の手が、止まった。
カルテをめくる動作が、ぴたりと止まった。
一秒。二秒。
病棟の向こうから、ナースコールの電子音が聞こえた。それ以外は、しんと静かだった。
先生はゆっくり顔を上げて、私を見た。
その目が、微かに変わった。「観察」から何か別のものへ。
「……初めて言ったな」
低い、落ち着いた声だった。
「何がですか」
「放っておいてください、と」
先生の口元に、変化が生じた。笑み、と呼ぶには小さすぎる。でも確かに、唇の端が一ミリだけ上がった。今まで、この人のその種の表情を見たことがなかった。
「俺に言い返したのは、お前が初めてだ」
私は少し、戸惑った。
「……それはこの話と関係ないと思いますが」
「関係ある」
先生はカルテを閉じた。私の方に体を向けた。
「他のスタッフは、俺に何か言われると黙って受け入れる。不満があっても表に出さない。従順に動く。それが正解だと思っているんだろう。でもお前は違った。感情的に反発しているわけでもなく、ただ、論理的に不当だと判断したから言い返した」
「……はい、そういうことです」
「それでいい」
先生はそう言って立ち上がり、「朝の準備をしろ」とだけ言って歩き去った。
私はその背中を見送りながら、複雑な気分になった。
叱責されるかと思っていた。少なくとも、何かしら言い返されると思っていた。でも先生は、まるで私が期待通りの反応を返したことに満足したかのようだった。
(この人は、何が目的なんだろう)
一つだけ、わかったことがある。
朝霧恒一という人間は、従順なものより、抵抗するものに興味を持つ。
それが何を意味するのか、このときの私にはまだわからなかった。
昼過ぎ、先輩の橘さんが私のそばに寄ってきた。
「白石さん、朝霧先生に言い返したって本当?」
声をひそめてさりげなく話しかけてきた橘さんは、少し心配そうな顔をしていた。橘さんは入職八年目のベテランで、どんな医師が来ても動じない人だったが、朝霧先生には明らかに緊張していた。
「はい、少し」
「えっ……すごい。先生に言い返した人、今まで見たことないよ。怒られなかったの?」
「怒られませんでした」
「なんで? 先生、ひどいこと言われてもずっと無言で聞いてたスタッフが何人もいたのに」
私には説明できなかった。
「……よくわかりません」
橘さんはしばらく私を見てから、「白石さん、本当に変わってるね」と言って自分の仕事に戻った。
(変わっている)
そう言われたのは、初めてではない。でも今日は、その言葉が少しだけ違う方向から聞こえた気がした。
朝霧先生も、「変わっている」と思われているはずだ。感情を必要としない医師と、感情を持てない看護師。お互いがお互いを「変わっている」と感じながら、同じ病棟にいる。
そんな状況が、少しだけ可笑しいような気がした。
可笑しい、と思う感覚が私にあったことに、気づいた。
それが何なのかは、やはり言葉にならなかった。
その夜、アパートに帰って、私は久しぶりに夜の散歩に出た。
別に先生の指示に従ったわけではない。ただ、なんとなく、壁と天井に囲まれた空間にいたくなかっただけだ。
近所の公園を一周した。夜の公園には人気がなく、街灯が等間隔に並んでいた。落ち葉が風に吹かれて、アスファルトの上を滑っていった。
空を見上げると、薄い雲の切れ間から星がいくつか見えた。
(外気に当たって神経系をリセットしろ、か)
先生の言葉が、頭の中で再生された。
バカみたいだと思いながら、深く息を吸い込んだ。夜の冷たい空気が肺に入ってきた。それは気持ちいい、とは言えなかったけれど、「冷たい」という感覚は確かにあった。
感覚があるということは、まだ生きているということだ。
当たり前のことを、今更みたいに確認していた。
悠斗くんが入院してきたのは、十月の半ばのことだった。
七歳。急性虫垂炎の手術を終えて、術後管理のために外科病棟に移ってきた男の子。担当看護師が私に変わったのは、手術を担当した朝霧先生だったからだ。
病室に初めて入ったとき、悠斗くんはシーツを首まで引き上げて、じっとこちらを見ていた。短く刈り込んだ黒髪に、まんまるな目。頬に、薄く泣いた跡があった。
「悠斗くん、こんにちは。白石です。今日からそばにいるね」
返事はなかった。
「傷を少し見てもいい?」
首を横に振った。
「そっか。じゃあ今日は見るだけでいい。触らないから」
少し待った。悠斗くんの目がこちらをじっと見ていた。何かを測るような目だった。子供の目は、大人より正直に何かを映す。信用できるかどうかを、全力で見極めようとしていた。
「……ほんとに?」
「ほんとに。お約束する」
「……じゃあ、いい」
そうしてゆっくりと、シーツが下がっていった。
悠斗くんのお母さんは、毎日午後から夜まで面会に来ていた。小柄で、柔らかい声の人だった。面会に来るたびに悠斗くんの話を聞き、絵本を読み聞かせ、帰るときには「明日またくるね」と言い残した。
面会時間が終わって一人になると、悠斗くんは少し心細そうだった。ナースコールを押すのを遠慮しているのか、暗くなってもじっとベッドで待っていることがあった。
私が見回りに来ると、悠斗くんは「あ、白石さん」と言って少し顔を緩めた。
「眠れてる?」
「……あんまり。なんか変な感じがして」
「傷のあたりが?」
「ちがう。なんか、病院って感じがして」
病院って感じ、という表現が、妙に正確だと思った。消毒液の匂い、規則的な蛍光灯の光、どこかから聞こえる機械音。子供にとっては確かに、すべてが「いつもと違う」感覚として積み重なるだろう。
私は椅子を引いて、悠斗くんのベッドの横に座った。
「悠斗くんって、好きなものある?」
「……きょうりゅう」
「どんな恐竜が好き?」
「ティラノサウルスと、スピノサウルスと、あと、トリケラトプス。でも、いちばんはスピノサウルス。せなかのやつがかっこいいから」
話し始めると、悠斗はよく喋った。恐竜の生態から始まり、学校のクラスで一番足が速い子の話になり、昨日お母さんが持ってきてくれたプリンの話になった。
私は相槌を打ちながら、聞き続けた。
楽しかった、とは言えない。楽しみという感情が私にはないから。でも、悠斗くんが少しずつ緊張をほどいていくのを見ながら、「これでよかった」という静かな確認があった。
変化は、三日目の朝の回診のときに起きた。
朝霧先生が病室に入ってきた瞬間、悠斗くんはシーツを顔の上まで引き上げて、完全に姿を消した。
私はそっとシーツの山に声をかけた。
「悠斗くん、先生が来てくれたよ。傷を確認するだけだから」
返事がなかった。シーツがわずかに動いたが、出てくる気配はなかった。
先生はカルテに視線を落としたまま、しばらく黙っていた。怒った様子もなく、困った様子もなく、ただ、シーツの山を見ていた。
それから、低い声で言った。
「悠斗くん」
名前だけ呼んだ。余計な言葉は何もなかった。
シーツが、ぴくりと動いた。
「俺は医者だ。お前の手術をした」
先生の声は、子供に向けているとは思えないほど、普通だった。高くもなく、柔らかくもなく、ただフラットだった。
シーツがまた動いた。今度はゆっくりと、目の部分だけが出てきた。まんまるな目が、先生を見た。
「……せんせいが、きったの?」
「そうだ」
「……いたかった」
「麻酔をかけていたから、お前は眠っていた。切っているときは痛くなかった」
「でも、おきてからいたかった」
「それは傷が治っている証拠だ。痛みがなければ治っていない」
悠斗くんは少し考えるような顔をした。先生の言葉を、頭の中で確認しているようだった。
「……じゃあいたいのは、なおってるから?」
「そうだ」
「ずっと、いたいの?」
「あと二日で痛みは半分になる。一週間で退院できる」
「ほんと?」
「嘘をつく理由がない」
悠斗くんのシーツが、ゆっくりと下がっていった。まだ少し警戒した目はしていたが、さっきより表情が柔らかくなっていた。
私はその様子を見ながら、静かに驚いていた。
先生の話し方は、大人に対するときとまったく変わらなかった。子供向けに言葉を選び直すということをしなかった。でも悠斗くんは、その「変わらなさ」に何かを受け取ったのだ。
大人は子供に対して、しばしば「優しい嘘」をつく。「痛くないよ」「すぐ終わるよ」「大丈夫だよ」。善意の言葉だが、それが嘘だとわかると、子供は大人を信じなくなる。
でも先生は嘘をつかなかった。「痛い」という事実を否定しなかった。代わりに、痛みに意味を与えた。「治っている証拠だ」と。
悠斗くんは、その誠実さを、怖さより先に受け取ったのだ。
数日で、悠斗くんは朝霧先生に懐いた。
毎朝の回診を楽しみにするようになった。先生が病室に入ると「先生きた!」と声を上げるようになって、シーツに潜ることをやめた。
先生は相変わらず表情を変えなかった。でも変化は確かにあった。
ある朝、悠斗くんが「先生、恐竜って好き?」と聞いたとき、先生は少し間を置いて「詳しくない」と答えた。普通ならそこで終わる会話だったが、先生はその後で、「どんな種類がいる」と続けた。
悠斗くんの目が輝いた。二十分後、先生は悠斗くんから恐竜の分類とそれぞれの特徴について、詳細なレクチャーを受けていた。先生は時々「それは何時代のことだ」「体重はどのくらいだ」と質問した。悠斗くんはその問いに喜んで答え、どんどん喋り続けた。
私は処置の準備をしながら、その様子をちらちらと見ていた。
先生の表情は変わらなかった。でも悠斗くんの話を聞く目が、どこか真剣だった。子供の話だからといって、聞き流す気配がなかった。
(この人は、子供の話もちゃんと聞くんだ)
当たり前のことかもしれない。でも、あの冷たい目で、七歳の子供の恐竜話に「それは何時代のことだ」と問い返す朝霧先生を見て、私は何か、うまく言葉にならないものを感じた。
感じた、という言葉が正確かどうかも、自信はなかった。
でも確かに、何かがあった。
退院前日の夕方、私が悠斗くんの病室に夕方の処置に行くと、先生がもう来ていた。
珍しかった。先生が夕方に病室に立ち寄ることは、普段はない。
悠斗くんはベッドに座って、クリアファイルに入れた恐竜の絵を先生に見せていた。お母さんが描いてくれたらしく、色鉛筆で丁寧に塗られたスピノサウルスの絵だった。
「ままに、かいてもらったの。先生にあげる」
悠斗くんは迷いなく言った。
先生は一瞬、黙った。
普通の大人なら「ありがとう」と言ってにっこりするところだ。でも先生は「ありがとう」と言わなかった。
ただ、絵を受け取って、しばらく見た。
「……うまく描けている」
そう言って、白衣のポケットに入れた。
悠斗くんが満足そうに笑った。
私はドアの前で処置の準備をしながら、その一瞬を見ていた。先生が絵を白衣のポケットに入れるとき、その手が、ほんの少しだけ、丁寧だった。
(この人にも、ちゃんとある)
そう思った瞬間、胸の中で何かが動いた。
「動いた」という感覚が正確なのかどうかは、わからない。でも確かに、何か変化があった。風もないのに、湖の水面に波紋が生まれたような、そんな感じ。
私は、その感覚に名前をつけられなかった。
だから、心の中の誰にも見えない場所に、こっそりと書き留めた。
「朝霧先生は、子供には不器用に優しい」
それだけを、静かに書き留めた。
十一月に入ると、朝の空気が冷たくなってきた。
病棟の窓から見える街路樹が一枚また一枚と葉を落とし、廊下を歩く患者のご家族がコートを着込むようになった。季節の変わり目は体調を崩す患者が増える時期でもある。心不全の悪化、感染症の発症、術後合併症の発現。朝霧先生の担当患者数は十一月に入ってからじわりと増えていて、私の仕事量もそれに比例して重くなっていた。
私は黙ってこなした。
感情がなければ、多忙であることへの不満がない。一つ片付けたら次、また次、と積み上げていく。自分がロボットのようだと思うこともあったが、その感想さえもすぐに消えていった。
夜になっても病棟には仕事が残った。記録の更新、翌日の準備、申し送りの作成。コンビニ弁当を片手にデスクに向かうことが続いた。
ある夜、残業中のナースステーションは私と朝霧先生の二人だけになった。
二十一時を回った頃だった。フロアの照明は落とされていて、ナースステーションだけに光が集まっていた。外の廊下は暗く、どこかから誰かが歩く足音がたまに聞こえるだけだった。
先生は電子カルテに向かって何かを入力していた。私は翌日の処置の準備リストを確認しながら、薬品の残量をチェックしていた。
しばらく、キーボードの音だけが続いた。
静かだった。
不思議と、この静けさは居心地が悪くなかった。先生との沈黙は、圧迫感がない。互いに余計なことを話さないという点で、私たちは似ているのかもしれない。ほかのスタッフがいる空間では、私は常に「適切な反応をする」ことを意識していなければならない。でも先生との沈黙は、それを必要としない。
そう思ったとき、先生が口を開いた。
「白石」
「はい」
「お前、誰の死にも何も感じていないだろう」
断言だった。問いかけではなく、確認だった。
私は手を止めた。
「……」
答えを探した。でも答える前に、先生が続けた。
「入院患者が亡くなるたびに、俺はお前の反応を見ていた。倉田さんのときだけじゃない。その後も三人。椎名さん、橋本さん、藤本さん。お前は一度も揺れなかった」
先生はカルテから目を離さないまま、淡々と続けた。
「ご家族が廊下で泣いていたとき、当直医が顔を曇らせていたとき、ほかの看護師が処置室で肩を震わせていたとき。お前だけが、最初から最後まで、一度も表情を変えなかった。完璧な対応をしながら、内側は空っぽだった」
空っぽ。
その言葉が、胸の中心に静かに落ちた。
拒絶したくなったわけではない。傷ついたわけでもない。ただ、正確すぎた。反論できないほど正確だったから、返す言葉が見つからなかった。
「……否定できません」
私は静かに答えた。
「患者の死に、悲しみを感じないのか」
「感じません」
「悔しさは」
「……ないです」
「怖さは」
「ありません」
「無力感は」
「それも、ないです」
先生がカルテから手を離した。椅子ごとこちらに向き直り、私を正面から見た。
蛍光灯の光が、先生の目に反射していた。
「なぜだ」
その問いに、私は少し沈黙した。
なぜ感情がないのか。答えは持っていない。正確には、答えを言語化したことがなかった。
「……わかりません」
本当のことだった。
「感情がないのと、感情を殺しているのは、違う」
静かな声だった。
「お前はどちらだと思う」
私は少し考えた。窓の外の夜を見た。駐車場の街灯が、雨粒に濡れてにじんでいた。今夜は雨が降っているらしかった。
「……殺している、のかもしれません」
言いながら、自分でも驚いた。こんなことを、口にしたのは初めてだった。
「ただ、やり方がわからなくなって、感じ方ごと忘れてしまったんだと思います」
先生は黙って聞いていた。
「最初から感情がなかったわけじゃないとは思っています。昔は……何かを感じていたはずです。ただ、あるときからそれがなくなった。自分でそうしたのか、そうなってしまったのかは、わかりません」
「あるとき、というのは」
私は答えなかった。
先生もそれ以上は聞かなかった。
少しの間、沈黙が続いた。
「感じ方を忘れた人間が、患者の感情を的確に読める理由は何だ」
先生が、別の方向から聞いてきた。
「……昔は、感じていたからだと思います。感じていた経験が、今は分析の材料になっている。悲しいときにどんな行動をするか、不安なときにどんな言葉を必要とするか。自分が体験していたから、他人の中にそれを見つけられる」
「記憶として残っているということか」
「はい。ただ、記憶と感情は別物で。地図は持っているのに、自分はその土地に行けない、みたいな感じです」
言ってしまってから、少し恥ずかしくなった。こんな比喩を使うのは、私らしくなかった。でも先生は笑わなかった。
「地図は持っているのに、自分はその土地に行けない」
先生が、静かに繰り返した。
その声には、何かが含まれていた気がした。何かを、噛み締めるような。
「……なるほどな」
それだけ言って、先生はカルテの入力を再開した。
私も手元の仕事に戻った。
また、キーボードの音だけが続いた。
でも今度の静けさは、さっきとは少し違った。何かが、言葉の間に残っていた。見えないけれど、確かにそこにある。
誰かに、初めて少しだけ、本当のことを話した夜だった。
私はそれを、帰りの電車の中でもずっと、噛み締めていた。
橘さんから声をかけられたのは、その翌週のことだった。
昼休みの休憩室、二人きりになったタイミングで、橘さんは少し言いにくそうに口を開いた。
「白石さん、ひとつ聞いていい? ちょっと失礼なこと聞くかもしれないけど」
「なんでしょう」
「白石さんって、患者さんにすごく優しいじゃない。誰にでも、いつも同じ顔で接して。それって……本当に、心からそうなの?」
私は、お茶のカップを持ったまま橘さんを見た。
「どういう意味ですか」
「なんか最近、ずっと気になってて。白石さんって、感情がないわけじゃないと思うんだけど、感情を使っていない感じがするって言えばいいのかな。患者さんに優しくするとき、白石さんは心が動いているのかな、って」
橘さんは少し申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、変なこと言って」
「いいえ」
私はカップを置いた。
「橘さんの言う通りです」
橘さんが目を丸くした。
「優しくしているのは、そうするべきだと判断しているからです。患者さんが不安を感じていると分析して、安心させるのが最適な対応だと判断して、動いています。心から「かわいそう」とか「助けたい」と思って動いているわけじゃない」
橘さんはしばらく、言葉を失っていた。
「……それって、つらくない?」
「つらいとは感じません。感じ方がわからないので」
「そっか……でも」
橘さんはお茶のカップを両手で包みながら、少し考えるように続けた。
「白石さんが患者さんのそばにいると、患者さんは安心するよ。それって、本物じゃないの?」
「結果としては、本物かもしれません。でも動機が違う」
「動機が違っても、安心させられるなら、それでいいんじゃないのかな」
橘さんの声は、責めるでもなく、不思議がるでもなく、ただ静かだった。
私は何と返せばいいかわからなくて、「そうかもしれませんね」とだけ言った。
でも本当は、そうは思えなかった。
動機が偽りなら、その優しさも偽りだ。患者が安心しているとしたら、それは演技に騙されているだけで、本当に救われているわけじゃない。
そうずっと、思い続けてきた。
その日の夜勤は、静かだった。
二十三時を回ると廊下の明かりが落とされ、病棟は夜の顔になった。ナースステーションだけが白く光っていた。私は見回りを終えて、一人でデスクに向かっていた。
橘さんとの会話が、頭の中でぐるぐると回っていた。
動機が偽りなら、優しさも偽りだ。
本当に、そうだろうか。
考えたことがなかったわけではない。でも今夜は、橘さんの言葉がひっかかって、うまく片付けられなかった。
窓の外に目をやった。夜の病院の周囲は静かで、遠くに街の灯りがぼんやりと滲んでいた。
(そういえば、昔は本当に感じていたんだろうか)
二十三歳より前のことを、たまに思い出そうとする。でも記憶というのは不思議なもので、出来事は残っているのに、そのときの感情だけが抜け落ちていることがある。
お母さんが笑っているシーンは覚えている。でもそれを見てどう思ったかが、わからない。嬉しかったのか、温かかったのか。どんな感情だったのか。
ただ、映像だけが残っている。
(あのときも、もう感情がなかったのかな)
それとも、感情はちゃんとあって、事故の後で全部消えてしまったのか。
わからない。
自分の過去の感情が、自分にもわからない。
それがひどく奇妙なことのように思えた。そして同時に、当たり前のことのようにも。
夜中の二時頃、301号室のナースコールが鳴った。
行ってみると、七十代の女性患者、松本さんが起き上がっていた。松本さんは肝臓癌の術後で、あと数週間の入院が続く見込みだった。夜中に眠れなくなることが増えていた。
「眠れませんか」
「ごめんね、また起こしちゃって」
「いいえ、大丈夫です。何かありましたか」
「なんか……夢を見て。娘が子供のときの夢。よく笑う子でね、ずっと笑ってるの。起きたらなんか悲しくなっちゃって」
松本さんは少し恥ずかしそうに笑った。
「子供のころのことって、思い出すとなんか切ない。もう戻れないでしょう。あのころに」
私は椅子を引いて、ベッドの横に座った。
「そうですね」
それ以上の言葉が、出てこなかった。「今も素敵ですよ」とか「きっとまた笑えますよ」とか、そういった言葉を言うことはできた。でも今夜は、なぜかそれをする気になれなかった。
松本さんはしばらく窓の外を見てから、「白石さんって、悲しいって思うことある?」と聞いた。
私は少し間を置いた。
「……あまり、ないです」
「そっか。羨ましいな」
羨ましい、という言葉が、少し重かった。
「羨ましくはないと思います」
「そう?」
「悲しくないということは、嬉しくもないということなので」
松本さんは私の顔を見た。それから、柔らかく笑った。
「それって、つらいね」
その言葉が、胸に落ちた。
橘さんもそう言っていた。「つらくない?」と。
私は「つらくない」と思っていた。感情がなければ、つらいと感じることもないから。
でも今、松本さんに「つらいね」と言われて、何かが小さく揺れた。
(つらい、のだろうか)
わからなかった。でも揺れた。
「少し横になりましょうか」と言って、松本さんに毛布をかけた。松本さんはすぐに目を閉じて、しばらくして寝息が聞こえ始めた。
私は病室を出て、廊下に立った。
しんとした夜の廊下に、遠くのナースコールが微かに鳴っていた。
橘さんの言葉と、松本さんの言葉と、二十三歳の冬の記憶が、ゆっくりと混ざり合った。
(偽りの優しさでも、誰かが救われるなら、それでいいのかもしれない)
そう思いながら、同時に思った。
(でも本当に、それでいいのか)
答えは出なかった。
夜は、まだ長かった。
悠斗くんの容態が急変したのは、木曜日の夜だった。
退院まであと三日というタイミングだった。
処置も順調で、食欲も戻り、悠斗くんは毎日お母さんと笑顔で話すようになっていた。前日の朝の回診でも、朝霧先生が「経過良好、退院予定通り」と記録していた。あの日の朝、悠斗くんは「退院したらスピノサウルスの図鑑を買ってもらう」と嬉しそうに話していた。
二十一時過ぎ、ナースコールが鳴った。
「白石さん、212号室の悠斗くん、熱が出てて、お腹痛いって」
夜勤の後輩、二年目の木村くんからの声だった。私はすぐに立ち上がった。
病室に入ると、悠斗くんはベッドで横になり、両手でお腹のあたりを押さえていた。顔色が青白く、眉間に皺が寄っている。いつもの元気がなかった。
「悠斗くん、白石だよ。どこが痛い?」
「……ここ。ずっと痛い。さっきから」
術後の創部から少し下。私は手袋をつけながら腹部を診た。
圧痛がある。反跳痛もある。腹膜刺激症状だ。
「いつから痛くなった?」
「……ごはんのあと、ちょっと。でも、がんばれると思って」
子供が、頑張れると思って黙っていた。
その言葉が何かに触れた。感情と呼べないかもしれないが、何かに。
体温は、三十八度七分。
私は素早く動いた。木村くんに指示を出しながら、当直医に連絡した。同時に、朝霧先生の内線を押した。
コール音が二回鳴って、先生が出た。
「朝霧です」
「白石です。悠斗くん、術後腹膜炎の疑い。腹部全体に圧痛と反跳痛あり。熱は三十八度七分。血液検査と画像確認が必要です」
受話器の向こうで、一瞬の間があった。
「今から行く」
電話が切れた。
先生が到着するまで、私は悠斗くんのそばにいた。
悠斗くんは痛みで顔を歪めながら、それでも泣いていなかった。七歳の子供が、泣かないようにこらえていた。
「先生がすぐ来るから。大丈夫だよ」
「……いたい」
「うん。つらいね。でも白石はここにいるから」
演じていた。
感情があって言っているのではなく、今この子に必要な言葉を判断して、口にしていた。
でも声が、いつもより少しだけ低くなっていた気がした。自分でも、気づかないうちに。
緊急手術が決まったのは、先生の診察から十分後だった。
腹腔内膿瘍の疑いがあり、緊急開腹が必要だった。私はその間、手術室の準備を手伝いながら、お母さんへの説明に立ち会い、同意書を取り、夜間呼び出しのスタッフへの連絡を入れた。
お母さんは最初、何が起きているのか理解できない様子だった。
「どういうことですか。退院できるって言ってたじゃないですか」
泣きながら言った言葉は、責めているのではなかった。ただ、怖くて、信じられなくて、その気持ちが言葉になっていた。
「先生が最善を尽くします。そばで待ちましょう」
私は事実を言った。感情を込めようとはしなかった。そうするべき場所がわからなかった。ただ、お母さんの隣に立ち続けた。
悠斗くんが手術室に運ばれていくとき、ストレッチャーのそばを歩いた。
悠斗くんが上を向いて、天井を見ていた。こわばった顔をしていた。私の顔を見て、少しだけ目が動いた。
「絶対、退院できるからね」
言っていた。気づいたら、言っていた。
嘘かもしれなかった。でも言っていた。
手術室の外で、私はお母さんの隣に座った。
時計の針が、ゆっくりと動いていた。廊下は静かだった。夜の病院の静けさは、昼間のそれとは違う。物音がないだけでなく、空気の重さが違う。
お母さんは手を組んで、膝の上に置いていた。何も言わなかった。言葉を探しているのか、それとも言葉が出てこないのか、わからなかった。
私は「大丈夫です」と言った。
信じているから言うのではなかった。でも何も言えないよりは、と思って、言い続けた。
一時間が過ぎた。
お母さんがぽつりと言った。
「あの子、入院してから泣かなかったんです。最初の夜は怖かったと思うのに、一度も泣かなかった。強がりなんですよ、七歳のくせに」
「……そうですね」
「白石さんがいてくれたから、安心してたんだと思います。ありがとうございます」
私は答えられなかった。
「いいえ」と言うべきだった。でも口が動かなかった。
お母さんの言葉が、胸の中に落ちた。落ちて、そこに留まった。
感謝を受け取るたびに、私はいつも「当然のことをしただけです」と思っていた。でも今夜は、その言葉がすっと入ってきた。
なぜかはわからなかった。
手術室の扉が開いたのは、日付が変わる少し前だった。
朝霧先生が出てきた。
白衣の袖口に、血がついていた。
先生の顔を見た瞬間、私は理解した。
先生はゆっくりとお母さんの前に立った。
「手術は行いました」
静かな声だった。
「ですが、処置が届きませんでした。二十三時五十二分、悠斗くんは亡くなりました」
お母さんの膝が折れた。
廊下の床に崩れ落ちながら、「嘘でしょう」と言った。声にならない声で繰り返した。「嘘でしょう、嘘でしょう」と。
私は屈んで、お母さんの背中に手を当てた。
「つらい結果となってしまい、本当に残念です」
泣けなかった。
悠斗くんの顔が、頭の中に次々と浮かんだ。シーツの中から出てきた目。「ほんとに?」と聞いた声。先生に恐竜の話をしながら輝いた目。「退院したら図鑑を買ってもらう」と言った声。私の手を掴んで「怖い夢を見た」と言った、あの小さな手。
全部、映像としては浮かんだ。
しかし、胸の中は静かだった。
悲しくなかった。泣けなかった。悔しくなかった。
ただ、「この子がいなくなった」という事実だけが、頭の中で繰り返されていた。
お母さんが病室に移り、当直スタッフに引き継いで廊下に出たとき、朝霧先生が壁に背中を預けて立っていた。
廊下の照明が落ちていて、先生の顔は半分、影の中にあった。白衣の袖口の血が、蛍光灯の光の届かない側にある。腕を組んでいた。下を向いていた。
私が近づくと、先生は顔を上げた。
その目が、今まで見たことのない色をしていた。
感情のない目ではなかった。何かが、揺れていた。あの冷たく整った顔の奥に、今夜だけは、何か人間的なものが浮かんでいた。
「白石」
低い声だった。
「はい」
「お前、何も感じていないか」
廊下に、静寂が落ちた。
私は答えた。
「……はい」
先生の表情が、動いた。
怒りではなかった。怒りよりもっと根源的な、もっと深いところから来る何かが、あの無表情な顔に滲み出た。
先生は私を見たまま、静かに言った。
「それで看護師か」
声が、震えていた。
微かに、でも確かに、震えていた。
その言葉が、胸に刺さった。
刺さった、という感覚が、確かにあった。
痛い、とは違う。でも「何もない」とも違う。何かが、揺れた。水面が、揺れた。波紋が、広がった。
私は言い返せなかった。
先生も、それ以上は何も言わなかった。
廊下に、消毒液の匂いが漂っていた。遠くでナースコールが鳴り始めた。どこかの病室で、誰かが誰かを呼んでいた。
先生は私から目を逸らして、廊下の奥へ歩き始めた。
一歩、二歩。
足音が、遠くなっていった。
私はその場に一人、残された。
壁を見つめながら、自分の胸のあたりに手を当てた。何かを確かめるように。
刺さった感覚が、まだそこにあった。
(なぜ)
感情がなければ、言葉は刺さらないはずだった。
それなのに、刺さった。
「それで看護師か」という言葉が、消えなかった。頭の中で繰り返されていた。
悠斗くんが死んだという事実より、先生のあの震えた声の方が、今夜の私には強く残っていた。
それがどういう意味なのかを、私はまだ知らなかった。
ただ、ナースコールが鳴り続けている廊下を歩きながら、私は思った。
(何かが、始まっている)
何が始まっているのかも、どこへ向かうのかも、わからなかった。
ただ、今夜の私の内側は、いつもと少し違った。
しんと静かなはずなのに、水面がざわついていた。見えない何かが、深いところで動いていた。
足が、いつもより重かった。
その重さの意味を、私はまだ知らなかった。
朝の申し送りは七時三十分。朝霧先生は一秒も遅れることなく現れ、前日の患者状態の変化を確認し、当日の処置と手術スケジュールを淡々と告げた。無駄な言葉は一切ない。「おはようございます」もなければ、「昨日は遅くまでお疲れ様でした」もない。ただ、必要な情報だけが、精密機械のように整然と並んでいく。
「311号室の佐藤は排液の色調変化に注意。午前中に一度ドレーンを確認しろ」
「術後三日目の木村は歩行訓練を開始してよい。ただし転倒リスクがある。最初は必ずそばにつけ」
「田村の家族が今日の午後に面会に来る。告知後の状態だ。医療情報より精神的サポートを優先しろ」
私はメモを取りながら聞いた。指示は正確だった。一つひとつに医学的な根拠があり、優先順位もはっきりしていた。先生の頭の中では、二十人以上の担当患者の状態が常に整理されているのだろう。圧倒的な情報処理能力だ、と思いながら、私は淡々とそれをこなした。
もともと、仕事量が増えることへの抵抗感はない。感情がなければ、多忙に対して「つらい」と感じることがないからだ。体が疲弊しても、頭が認識するのは「パフォーマンスが低下している、休息が必要だ」という事実だけで、それに伴う感情的な消耗がない。疲れを「疲れた」と感じないまま、ただ動き続ける。
それが私のやり方だった。
問題は、そこではなかった。
その日、昼休みのことだった。
十二時を少し回った頃、ナースステーションの奥のデスクで私はようやく一息つけた。午前中に三件の処置と、手術前の家族説明の補助、それから急変気味だった患者のバイタル確認と記録更新が重なって、動き通しだった。
師長の林さんが差し入れてくれたコンビニのおにぎりと菓子パンが、ナースステーションの端に並んでいた。同僚たちが思い思いに手を伸ばしている。私はおにぎりを一個だけ取って、デスクに戻った。
包みを開いて、一口食べた。
味は、よくわからなかった。食べているという感覚はある。でも「おいしい」とか「もっと食べたい」という気持ちは起きない。体が要求するから食べる。それだけのことだ。
「それだけか」
背後から声がした。
振り返ると、朝霧先生が白衣の胸ポケットにペンを挿しながら立っていた。カルテのバインダーを脇に抱えていた。いつからいたのかわからなかった。気配がない人だ、といつも思う。
「……昼食です」
「わかっている。一個だけか、と聞いている」
「はい」
「朝は食べたか」
「……コーヒーを飲みました」
「それは食事ではない」
先生の表情は変わらなかった。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ、事実を確認しているような、フラットな口調だった。まるでカルテに「栄養摂取不足」と記録するときと、まったく同じトーンで。
「今日は七時から動き続けている。すでに五時間、まともなカロリーを摂取していない。それで午後もパフォーマンスを維持できると思っているのか」
「体は動きます。慣れていますので」
「慣れは劣化だ」
先生はそう言いながら、私の横を通ってナースステーションの端に歩いた。残り物の差し入れを一瞥して、おにぎりをひとつ取り上げ、無造作に私のデスクに置いた。
「食べろ」
(……なんだこれは)
私は少し困惑した。
患者に対してならわかる。栄養管理は治療の一部だ。でも私は患者ではない。先生が私の昼食に口を出す理由が、よくわからなかった。
「先生、私は患者ではありません」
「知っている」
「であれば、私の食事に口を出す理由は」
「お前のコンディションが落ちると、俺の仕事の質に影響する。今週の午後の手術は三件ある。うち一件は難度が高い。補助に入るお前の集中力が鈍ったら困る」
また、完璧に合理的な答えだった。
私が「困ります」と言える隙間がない。先生は私を心配しているのではなく、自分の仕事の品質を守るために、使用する器具のコンディションを管理しているだけだ。私は彼にとっての器具だ。
それは侮辱なのか、それとも単なる事実なのか、私には判断がつかなかった。
おにぎりを手に取った。反論のエネルギーを使う気になれなかったのと、実際お腹が空いていたのは本当だったから。
先生は私がおにぎりの包みを開けるのを確認してから、自分の仕事に戻った。
(管理している)
噛みながら、静かに思った。
患者の体を管理するように、私を管理している。体温を測るように、私の食事を確認する。ドレーンの状態を見るように、私の疲労を測る。そこに悪意はない。温もりもない。ただ、合理的な判断がある。
不快というほどの感情は起きなかった。でも、おかしい、とは思った。
こんな形で誰かに気にかけられたのは、久しぶりだった。いや、これを「気にかけられた」と呼ぶのは正確ではない。これは管理だ。
でも管理されることで、自分が存在を確認されているような感覚があった。
それが何なのか、うまく言葉にならなかった。
その週の木曜日、十九時を少し回った頃だった。
私が荷物をまとめてナースステーションを出ようとすると、廊下で先生が立っていた。腕を組み、廊下の窓の外を見ていた。私の足音に気づくと、こちらを向いた。
「帰るのか」
「はい、退勤します」
「今日は何時に来た」
「七時です」
「十二時間働いた」
「残業申請は出しています」
「そういう問題じゃない」
先生は私の方に向き直った。
「帰って何をする」
「夕食を食べて、少し資料の見直しをして、就寝します」
「資料の見直しは今日しなくていい」
「明日の準備があります」
「明日の朝にしろ。今夜は食事を取って休め」
私は先生の顔を見た。
廊下の蛍光灯の下で、先生の顔は相変わらず無表情だった。でも、その目がこちらを見ていた。逸らさずに。
「……先生は、私の退勤後の過ごし方まで管理するつもりですか」
「業務に支障が出る前に先手を打っているだけだ」
「私は今のところ業務に支障は出ていません」
「出てからでは遅い。兆候を見て動くのが医療だ」
(かなわない)
この人と論理で戦うと、必ず一枚上をいかれる。感情で押し返すこともできない。私には感情がないから。
私は静かに、でもはっきりと言った。
「わかりました。帰ります」
先生は短く頷いて、またこちらに背を向けた。廊下の窓の外に視線を戻した。
私はエレベーターを待ちながら、窓の外の夜を眺めた。
病院の駐車場に、街灯がぽつぽつと灯っていた。この時間にはまだ車が残っている。面会帰りの家族か、残業中の医師か。誰かがどこかで、誰かのそばにいる。
(この人は、なぜ私の退勤後まで気にするのだろう)
理由は説明されている。業務の質を維持するため。でも、この病棟には私以外にも看護師がいる。先生が全員の食事や睡眠を管理しているわけではない。
私だけが、管理の対象になっている。
エレベーターの扉が開いた。
乗り込みながら、私は思った。感情という名のセンサーが正常に動いていたなら、今この状況をどう感じるのだろう。
答えはわからなかった。
でも、扉が閉まる直前に廊下をちらりと振り返ったとき、先生はまだそこに立っていた。窓の外を見ていたが、ほんの一瞬だけ、こちらに視線が向いた気がした。
気のせいかもしれない。
扉が静かに閉まった。
専属になって二週間が過ぎた頃から、朝霧先生の「管理」はじわじわと範囲を広げていった。
食事。退勤時間。休憩の取り方。姿勢。水分補給。
ある朝、私がナースステーションで立ったまま記録を入力していると、先生が通りがかりに一言言った。
「椅子を使え。立位での長時間作業は腰に負担がかかる」
別の日の午後、私が処置室で器具の準備をしているとき、
「今日は三時間連続で動いている。十分でいいから座れ」
また別の日、私が廊下を早足で歩いていると、
「水分摂取はしているか」
そのたびに私は短く答えた。「はい」「わかりました」「しています」。
感情がなければ、こういった細かい干渉に対しても怒りは沸かない。ただ、「また言われた」という事実を認識するだけだ。
それでも、何か引っかかるものが積み重なっていた。
決定的だったのは、ある朝のことだった。
「今週末、研修は入っているか」
申し送りが終わった後、先生がカルテを手にしたまま聞いた。
「いいえ、入っていません」
「休日出勤の予定は」
「特にありません」
「なら土曜は完全に休め。外に出ろ」
私は先生の顔を見た。
「……はい?」
「ここ数日、お前の反応速度がわずかに落ちている。瞬発的な判断が〇・三秒ほど遅れている。疲労の蓄積だ。外気に当たって、非日常の刺激を与えることで神経系をリセットしろ」
朝霧先生は、まるで術後の回復プロトコルを説明するように言った。「神経系をリセット」。私が人間ではなく、精密機械か何かのような言い方だった。
「先生」
「なんだ」
「私は休日の過ごし方まで指示される覚えはないと思いますが」
「業務改善の一環だ」
「休日は業務ではありません」
「休日のコンディションが翌週の業務に直結する。したがって業務だ」
私はしばらく先生の顔を見た。先生は平然とカルテを開いていた。私がどんな表情をしているかに、まるで関心がなさそうだった。
食事、睡眠、退勤時間、休憩、そして今度は休日の過ごし方。
一つひとつを取れば、どれも合理的な理由がある。でも積み重なると、これはもう「管理」という言葉では足りなくなってくる。
私は静かに、でもはっきりと言った。
「放っておいてください」
先生の手が、止まった。
カルテをめくる動作が、ぴたりと止まった。
一秒。二秒。
病棟の向こうから、ナースコールの電子音が聞こえた。それ以外は、しんと静かだった。
先生はゆっくり顔を上げて、私を見た。
その目が、微かに変わった。「観察」から何か別のものへ。
「……初めて言ったな」
低い、落ち着いた声だった。
「何がですか」
「放っておいてください、と」
先生の口元に、変化が生じた。笑み、と呼ぶには小さすぎる。でも確かに、唇の端が一ミリだけ上がった。今まで、この人のその種の表情を見たことがなかった。
「俺に言い返したのは、お前が初めてだ」
私は少し、戸惑った。
「……それはこの話と関係ないと思いますが」
「関係ある」
先生はカルテを閉じた。私の方に体を向けた。
「他のスタッフは、俺に何か言われると黙って受け入れる。不満があっても表に出さない。従順に動く。それが正解だと思っているんだろう。でもお前は違った。感情的に反発しているわけでもなく、ただ、論理的に不当だと判断したから言い返した」
「……はい、そういうことです」
「それでいい」
先生はそう言って立ち上がり、「朝の準備をしろ」とだけ言って歩き去った。
私はその背中を見送りながら、複雑な気分になった。
叱責されるかと思っていた。少なくとも、何かしら言い返されると思っていた。でも先生は、まるで私が期待通りの反応を返したことに満足したかのようだった。
(この人は、何が目的なんだろう)
一つだけ、わかったことがある。
朝霧恒一という人間は、従順なものより、抵抗するものに興味を持つ。
それが何を意味するのか、このときの私にはまだわからなかった。
昼過ぎ、先輩の橘さんが私のそばに寄ってきた。
「白石さん、朝霧先生に言い返したって本当?」
声をひそめてさりげなく話しかけてきた橘さんは、少し心配そうな顔をしていた。橘さんは入職八年目のベテランで、どんな医師が来ても動じない人だったが、朝霧先生には明らかに緊張していた。
「はい、少し」
「えっ……すごい。先生に言い返した人、今まで見たことないよ。怒られなかったの?」
「怒られませんでした」
「なんで? 先生、ひどいこと言われてもずっと無言で聞いてたスタッフが何人もいたのに」
私には説明できなかった。
「……よくわかりません」
橘さんはしばらく私を見てから、「白石さん、本当に変わってるね」と言って自分の仕事に戻った。
(変わっている)
そう言われたのは、初めてではない。でも今日は、その言葉が少しだけ違う方向から聞こえた気がした。
朝霧先生も、「変わっている」と思われているはずだ。感情を必要としない医師と、感情を持てない看護師。お互いがお互いを「変わっている」と感じながら、同じ病棟にいる。
そんな状況が、少しだけ可笑しいような気がした。
可笑しい、と思う感覚が私にあったことに、気づいた。
それが何なのかは、やはり言葉にならなかった。
その夜、アパートに帰って、私は久しぶりに夜の散歩に出た。
別に先生の指示に従ったわけではない。ただ、なんとなく、壁と天井に囲まれた空間にいたくなかっただけだ。
近所の公園を一周した。夜の公園には人気がなく、街灯が等間隔に並んでいた。落ち葉が風に吹かれて、アスファルトの上を滑っていった。
空を見上げると、薄い雲の切れ間から星がいくつか見えた。
(外気に当たって神経系をリセットしろ、か)
先生の言葉が、頭の中で再生された。
バカみたいだと思いながら、深く息を吸い込んだ。夜の冷たい空気が肺に入ってきた。それは気持ちいい、とは言えなかったけれど、「冷たい」という感覚は確かにあった。
感覚があるということは、まだ生きているということだ。
当たり前のことを、今更みたいに確認していた。
悠斗くんが入院してきたのは、十月の半ばのことだった。
七歳。急性虫垂炎の手術を終えて、術後管理のために外科病棟に移ってきた男の子。担当看護師が私に変わったのは、手術を担当した朝霧先生だったからだ。
病室に初めて入ったとき、悠斗くんはシーツを首まで引き上げて、じっとこちらを見ていた。短く刈り込んだ黒髪に、まんまるな目。頬に、薄く泣いた跡があった。
「悠斗くん、こんにちは。白石です。今日からそばにいるね」
返事はなかった。
「傷を少し見てもいい?」
首を横に振った。
「そっか。じゃあ今日は見るだけでいい。触らないから」
少し待った。悠斗くんの目がこちらをじっと見ていた。何かを測るような目だった。子供の目は、大人より正直に何かを映す。信用できるかどうかを、全力で見極めようとしていた。
「……ほんとに?」
「ほんとに。お約束する」
「……じゃあ、いい」
そうしてゆっくりと、シーツが下がっていった。
悠斗くんのお母さんは、毎日午後から夜まで面会に来ていた。小柄で、柔らかい声の人だった。面会に来るたびに悠斗くんの話を聞き、絵本を読み聞かせ、帰るときには「明日またくるね」と言い残した。
面会時間が終わって一人になると、悠斗くんは少し心細そうだった。ナースコールを押すのを遠慮しているのか、暗くなってもじっとベッドで待っていることがあった。
私が見回りに来ると、悠斗くんは「あ、白石さん」と言って少し顔を緩めた。
「眠れてる?」
「……あんまり。なんか変な感じがして」
「傷のあたりが?」
「ちがう。なんか、病院って感じがして」
病院って感じ、という表現が、妙に正確だと思った。消毒液の匂い、規則的な蛍光灯の光、どこかから聞こえる機械音。子供にとっては確かに、すべてが「いつもと違う」感覚として積み重なるだろう。
私は椅子を引いて、悠斗くんのベッドの横に座った。
「悠斗くんって、好きなものある?」
「……きょうりゅう」
「どんな恐竜が好き?」
「ティラノサウルスと、スピノサウルスと、あと、トリケラトプス。でも、いちばんはスピノサウルス。せなかのやつがかっこいいから」
話し始めると、悠斗はよく喋った。恐竜の生態から始まり、学校のクラスで一番足が速い子の話になり、昨日お母さんが持ってきてくれたプリンの話になった。
私は相槌を打ちながら、聞き続けた。
楽しかった、とは言えない。楽しみという感情が私にはないから。でも、悠斗くんが少しずつ緊張をほどいていくのを見ながら、「これでよかった」という静かな確認があった。
変化は、三日目の朝の回診のときに起きた。
朝霧先生が病室に入ってきた瞬間、悠斗くんはシーツを顔の上まで引き上げて、完全に姿を消した。
私はそっとシーツの山に声をかけた。
「悠斗くん、先生が来てくれたよ。傷を確認するだけだから」
返事がなかった。シーツがわずかに動いたが、出てくる気配はなかった。
先生はカルテに視線を落としたまま、しばらく黙っていた。怒った様子もなく、困った様子もなく、ただ、シーツの山を見ていた。
それから、低い声で言った。
「悠斗くん」
名前だけ呼んだ。余計な言葉は何もなかった。
シーツが、ぴくりと動いた。
「俺は医者だ。お前の手術をした」
先生の声は、子供に向けているとは思えないほど、普通だった。高くもなく、柔らかくもなく、ただフラットだった。
シーツがまた動いた。今度はゆっくりと、目の部分だけが出てきた。まんまるな目が、先生を見た。
「……せんせいが、きったの?」
「そうだ」
「……いたかった」
「麻酔をかけていたから、お前は眠っていた。切っているときは痛くなかった」
「でも、おきてからいたかった」
「それは傷が治っている証拠だ。痛みがなければ治っていない」
悠斗くんは少し考えるような顔をした。先生の言葉を、頭の中で確認しているようだった。
「……じゃあいたいのは、なおってるから?」
「そうだ」
「ずっと、いたいの?」
「あと二日で痛みは半分になる。一週間で退院できる」
「ほんと?」
「嘘をつく理由がない」
悠斗くんのシーツが、ゆっくりと下がっていった。まだ少し警戒した目はしていたが、さっきより表情が柔らかくなっていた。
私はその様子を見ながら、静かに驚いていた。
先生の話し方は、大人に対するときとまったく変わらなかった。子供向けに言葉を選び直すということをしなかった。でも悠斗くんは、その「変わらなさ」に何かを受け取ったのだ。
大人は子供に対して、しばしば「優しい嘘」をつく。「痛くないよ」「すぐ終わるよ」「大丈夫だよ」。善意の言葉だが、それが嘘だとわかると、子供は大人を信じなくなる。
でも先生は嘘をつかなかった。「痛い」という事実を否定しなかった。代わりに、痛みに意味を与えた。「治っている証拠だ」と。
悠斗くんは、その誠実さを、怖さより先に受け取ったのだ。
数日で、悠斗くんは朝霧先生に懐いた。
毎朝の回診を楽しみにするようになった。先生が病室に入ると「先生きた!」と声を上げるようになって、シーツに潜ることをやめた。
先生は相変わらず表情を変えなかった。でも変化は確かにあった。
ある朝、悠斗くんが「先生、恐竜って好き?」と聞いたとき、先生は少し間を置いて「詳しくない」と答えた。普通ならそこで終わる会話だったが、先生はその後で、「どんな種類がいる」と続けた。
悠斗くんの目が輝いた。二十分後、先生は悠斗くんから恐竜の分類とそれぞれの特徴について、詳細なレクチャーを受けていた。先生は時々「それは何時代のことだ」「体重はどのくらいだ」と質問した。悠斗くんはその問いに喜んで答え、どんどん喋り続けた。
私は処置の準備をしながら、その様子をちらちらと見ていた。
先生の表情は変わらなかった。でも悠斗くんの話を聞く目が、どこか真剣だった。子供の話だからといって、聞き流す気配がなかった。
(この人は、子供の話もちゃんと聞くんだ)
当たり前のことかもしれない。でも、あの冷たい目で、七歳の子供の恐竜話に「それは何時代のことだ」と問い返す朝霧先生を見て、私は何か、うまく言葉にならないものを感じた。
感じた、という言葉が正確かどうかも、自信はなかった。
でも確かに、何かがあった。
退院前日の夕方、私が悠斗くんの病室に夕方の処置に行くと、先生がもう来ていた。
珍しかった。先生が夕方に病室に立ち寄ることは、普段はない。
悠斗くんはベッドに座って、クリアファイルに入れた恐竜の絵を先生に見せていた。お母さんが描いてくれたらしく、色鉛筆で丁寧に塗られたスピノサウルスの絵だった。
「ままに、かいてもらったの。先生にあげる」
悠斗くんは迷いなく言った。
先生は一瞬、黙った。
普通の大人なら「ありがとう」と言ってにっこりするところだ。でも先生は「ありがとう」と言わなかった。
ただ、絵を受け取って、しばらく見た。
「……うまく描けている」
そう言って、白衣のポケットに入れた。
悠斗くんが満足そうに笑った。
私はドアの前で処置の準備をしながら、その一瞬を見ていた。先生が絵を白衣のポケットに入れるとき、その手が、ほんの少しだけ、丁寧だった。
(この人にも、ちゃんとある)
そう思った瞬間、胸の中で何かが動いた。
「動いた」という感覚が正確なのかどうかは、わからない。でも確かに、何か変化があった。風もないのに、湖の水面に波紋が生まれたような、そんな感じ。
私は、その感覚に名前をつけられなかった。
だから、心の中の誰にも見えない場所に、こっそりと書き留めた。
「朝霧先生は、子供には不器用に優しい」
それだけを、静かに書き留めた。
十一月に入ると、朝の空気が冷たくなってきた。
病棟の窓から見える街路樹が一枚また一枚と葉を落とし、廊下を歩く患者のご家族がコートを着込むようになった。季節の変わり目は体調を崩す患者が増える時期でもある。心不全の悪化、感染症の発症、術後合併症の発現。朝霧先生の担当患者数は十一月に入ってからじわりと増えていて、私の仕事量もそれに比例して重くなっていた。
私は黙ってこなした。
感情がなければ、多忙であることへの不満がない。一つ片付けたら次、また次、と積み上げていく。自分がロボットのようだと思うこともあったが、その感想さえもすぐに消えていった。
夜になっても病棟には仕事が残った。記録の更新、翌日の準備、申し送りの作成。コンビニ弁当を片手にデスクに向かうことが続いた。
ある夜、残業中のナースステーションは私と朝霧先生の二人だけになった。
二十一時を回った頃だった。フロアの照明は落とされていて、ナースステーションだけに光が集まっていた。外の廊下は暗く、どこかから誰かが歩く足音がたまに聞こえるだけだった。
先生は電子カルテに向かって何かを入力していた。私は翌日の処置の準備リストを確認しながら、薬品の残量をチェックしていた。
しばらく、キーボードの音だけが続いた。
静かだった。
不思議と、この静けさは居心地が悪くなかった。先生との沈黙は、圧迫感がない。互いに余計なことを話さないという点で、私たちは似ているのかもしれない。ほかのスタッフがいる空間では、私は常に「適切な反応をする」ことを意識していなければならない。でも先生との沈黙は、それを必要としない。
そう思ったとき、先生が口を開いた。
「白石」
「はい」
「お前、誰の死にも何も感じていないだろう」
断言だった。問いかけではなく、確認だった。
私は手を止めた。
「……」
答えを探した。でも答える前に、先生が続けた。
「入院患者が亡くなるたびに、俺はお前の反応を見ていた。倉田さんのときだけじゃない。その後も三人。椎名さん、橋本さん、藤本さん。お前は一度も揺れなかった」
先生はカルテから目を離さないまま、淡々と続けた。
「ご家族が廊下で泣いていたとき、当直医が顔を曇らせていたとき、ほかの看護師が処置室で肩を震わせていたとき。お前だけが、最初から最後まで、一度も表情を変えなかった。完璧な対応をしながら、内側は空っぽだった」
空っぽ。
その言葉が、胸の中心に静かに落ちた。
拒絶したくなったわけではない。傷ついたわけでもない。ただ、正確すぎた。反論できないほど正確だったから、返す言葉が見つからなかった。
「……否定できません」
私は静かに答えた。
「患者の死に、悲しみを感じないのか」
「感じません」
「悔しさは」
「……ないです」
「怖さは」
「ありません」
「無力感は」
「それも、ないです」
先生がカルテから手を離した。椅子ごとこちらに向き直り、私を正面から見た。
蛍光灯の光が、先生の目に反射していた。
「なぜだ」
その問いに、私は少し沈黙した。
なぜ感情がないのか。答えは持っていない。正確には、答えを言語化したことがなかった。
「……わかりません」
本当のことだった。
「感情がないのと、感情を殺しているのは、違う」
静かな声だった。
「お前はどちらだと思う」
私は少し考えた。窓の外の夜を見た。駐車場の街灯が、雨粒に濡れてにじんでいた。今夜は雨が降っているらしかった。
「……殺している、のかもしれません」
言いながら、自分でも驚いた。こんなことを、口にしたのは初めてだった。
「ただ、やり方がわからなくなって、感じ方ごと忘れてしまったんだと思います」
先生は黙って聞いていた。
「最初から感情がなかったわけじゃないとは思っています。昔は……何かを感じていたはずです。ただ、あるときからそれがなくなった。自分でそうしたのか、そうなってしまったのかは、わかりません」
「あるとき、というのは」
私は答えなかった。
先生もそれ以上は聞かなかった。
少しの間、沈黙が続いた。
「感じ方を忘れた人間が、患者の感情を的確に読める理由は何だ」
先生が、別の方向から聞いてきた。
「……昔は、感じていたからだと思います。感じていた経験が、今は分析の材料になっている。悲しいときにどんな行動をするか、不安なときにどんな言葉を必要とするか。自分が体験していたから、他人の中にそれを見つけられる」
「記憶として残っているということか」
「はい。ただ、記憶と感情は別物で。地図は持っているのに、自分はその土地に行けない、みたいな感じです」
言ってしまってから、少し恥ずかしくなった。こんな比喩を使うのは、私らしくなかった。でも先生は笑わなかった。
「地図は持っているのに、自分はその土地に行けない」
先生が、静かに繰り返した。
その声には、何かが含まれていた気がした。何かを、噛み締めるような。
「……なるほどな」
それだけ言って、先生はカルテの入力を再開した。
私も手元の仕事に戻った。
また、キーボードの音だけが続いた。
でも今度の静けさは、さっきとは少し違った。何かが、言葉の間に残っていた。見えないけれど、確かにそこにある。
誰かに、初めて少しだけ、本当のことを話した夜だった。
私はそれを、帰りの電車の中でもずっと、噛み締めていた。
橘さんから声をかけられたのは、その翌週のことだった。
昼休みの休憩室、二人きりになったタイミングで、橘さんは少し言いにくそうに口を開いた。
「白石さん、ひとつ聞いていい? ちょっと失礼なこと聞くかもしれないけど」
「なんでしょう」
「白石さんって、患者さんにすごく優しいじゃない。誰にでも、いつも同じ顔で接して。それって……本当に、心からそうなの?」
私は、お茶のカップを持ったまま橘さんを見た。
「どういう意味ですか」
「なんか最近、ずっと気になってて。白石さんって、感情がないわけじゃないと思うんだけど、感情を使っていない感じがするって言えばいいのかな。患者さんに優しくするとき、白石さんは心が動いているのかな、って」
橘さんは少し申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、変なこと言って」
「いいえ」
私はカップを置いた。
「橘さんの言う通りです」
橘さんが目を丸くした。
「優しくしているのは、そうするべきだと判断しているからです。患者さんが不安を感じていると分析して、安心させるのが最適な対応だと判断して、動いています。心から「かわいそう」とか「助けたい」と思って動いているわけじゃない」
橘さんはしばらく、言葉を失っていた。
「……それって、つらくない?」
「つらいとは感じません。感じ方がわからないので」
「そっか……でも」
橘さんはお茶のカップを両手で包みながら、少し考えるように続けた。
「白石さんが患者さんのそばにいると、患者さんは安心するよ。それって、本物じゃないの?」
「結果としては、本物かもしれません。でも動機が違う」
「動機が違っても、安心させられるなら、それでいいんじゃないのかな」
橘さんの声は、責めるでもなく、不思議がるでもなく、ただ静かだった。
私は何と返せばいいかわからなくて、「そうかもしれませんね」とだけ言った。
でも本当は、そうは思えなかった。
動機が偽りなら、その優しさも偽りだ。患者が安心しているとしたら、それは演技に騙されているだけで、本当に救われているわけじゃない。
そうずっと、思い続けてきた。
その日の夜勤は、静かだった。
二十三時を回ると廊下の明かりが落とされ、病棟は夜の顔になった。ナースステーションだけが白く光っていた。私は見回りを終えて、一人でデスクに向かっていた。
橘さんとの会話が、頭の中でぐるぐると回っていた。
動機が偽りなら、優しさも偽りだ。
本当に、そうだろうか。
考えたことがなかったわけではない。でも今夜は、橘さんの言葉がひっかかって、うまく片付けられなかった。
窓の外に目をやった。夜の病院の周囲は静かで、遠くに街の灯りがぼんやりと滲んでいた。
(そういえば、昔は本当に感じていたんだろうか)
二十三歳より前のことを、たまに思い出そうとする。でも記憶というのは不思議なもので、出来事は残っているのに、そのときの感情だけが抜け落ちていることがある。
お母さんが笑っているシーンは覚えている。でもそれを見てどう思ったかが、わからない。嬉しかったのか、温かかったのか。どんな感情だったのか。
ただ、映像だけが残っている。
(あのときも、もう感情がなかったのかな)
それとも、感情はちゃんとあって、事故の後で全部消えてしまったのか。
わからない。
自分の過去の感情が、自分にもわからない。
それがひどく奇妙なことのように思えた。そして同時に、当たり前のことのようにも。
夜中の二時頃、301号室のナースコールが鳴った。
行ってみると、七十代の女性患者、松本さんが起き上がっていた。松本さんは肝臓癌の術後で、あと数週間の入院が続く見込みだった。夜中に眠れなくなることが増えていた。
「眠れませんか」
「ごめんね、また起こしちゃって」
「いいえ、大丈夫です。何かありましたか」
「なんか……夢を見て。娘が子供のときの夢。よく笑う子でね、ずっと笑ってるの。起きたらなんか悲しくなっちゃって」
松本さんは少し恥ずかしそうに笑った。
「子供のころのことって、思い出すとなんか切ない。もう戻れないでしょう。あのころに」
私は椅子を引いて、ベッドの横に座った。
「そうですね」
それ以上の言葉が、出てこなかった。「今も素敵ですよ」とか「きっとまた笑えますよ」とか、そういった言葉を言うことはできた。でも今夜は、なぜかそれをする気になれなかった。
松本さんはしばらく窓の外を見てから、「白石さんって、悲しいって思うことある?」と聞いた。
私は少し間を置いた。
「……あまり、ないです」
「そっか。羨ましいな」
羨ましい、という言葉が、少し重かった。
「羨ましくはないと思います」
「そう?」
「悲しくないということは、嬉しくもないということなので」
松本さんは私の顔を見た。それから、柔らかく笑った。
「それって、つらいね」
その言葉が、胸に落ちた。
橘さんもそう言っていた。「つらくない?」と。
私は「つらくない」と思っていた。感情がなければ、つらいと感じることもないから。
でも今、松本さんに「つらいね」と言われて、何かが小さく揺れた。
(つらい、のだろうか)
わからなかった。でも揺れた。
「少し横になりましょうか」と言って、松本さんに毛布をかけた。松本さんはすぐに目を閉じて、しばらくして寝息が聞こえ始めた。
私は病室を出て、廊下に立った。
しんとした夜の廊下に、遠くのナースコールが微かに鳴っていた。
橘さんの言葉と、松本さんの言葉と、二十三歳の冬の記憶が、ゆっくりと混ざり合った。
(偽りの優しさでも、誰かが救われるなら、それでいいのかもしれない)
そう思いながら、同時に思った。
(でも本当に、それでいいのか)
答えは出なかった。
夜は、まだ長かった。
悠斗くんの容態が急変したのは、木曜日の夜だった。
退院まであと三日というタイミングだった。
処置も順調で、食欲も戻り、悠斗くんは毎日お母さんと笑顔で話すようになっていた。前日の朝の回診でも、朝霧先生が「経過良好、退院予定通り」と記録していた。あの日の朝、悠斗くんは「退院したらスピノサウルスの図鑑を買ってもらう」と嬉しそうに話していた。
二十一時過ぎ、ナースコールが鳴った。
「白石さん、212号室の悠斗くん、熱が出てて、お腹痛いって」
夜勤の後輩、二年目の木村くんからの声だった。私はすぐに立ち上がった。
病室に入ると、悠斗くんはベッドで横になり、両手でお腹のあたりを押さえていた。顔色が青白く、眉間に皺が寄っている。いつもの元気がなかった。
「悠斗くん、白石だよ。どこが痛い?」
「……ここ。ずっと痛い。さっきから」
術後の創部から少し下。私は手袋をつけながら腹部を診た。
圧痛がある。反跳痛もある。腹膜刺激症状だ。
「いつから痛くなった?」
「……ごはんのあと、ちょっと。でも、がんばれると思って」
子供が、頑張れると思って黙っていた。
その言葉が何かに触れた。感情と呼べないかもしれないが、何かに。
体温は、三十八度七分。
私は素早く動いた。木村くんに指示を出しながら、当直医に連絡した。同時に、朝霧先生の内線を押した。
コール音が二回鳴って、先生が出た。
「朝霧です」
「白石です。悠斗くん、術後腹膜炎の疑い。腹部全体に圧痛と反跳痛あり。熱は三十八度七分。血液検査と画像確認が必要です」
受話器の向こうで、一瞬の間があった。
「今から行く」
電話が切れた。
先生が到着するまで、私は悠斗くんのそばにいた。
悠斗くんは痛みで顔を歪めながら、それでも泣いていなかった。七歳の子供が、泣かないようにこらえていた。
「先生がすぐ来るから。大丈夫だよ」
「……いたい」
「うん。つらいね。でも白石はここにいるから」
演じていた。
感情があって言っているのではなく、今この子に必要な言葉を判断して、口にしていた。
でも声が、いつもより少しだけ低くなっていた気がした。自分でも、気づかないうちに。
緊急手術が決まったのは、先生の診察から十分後だった。
腹腔内膿瘍の疑いがあり、緊急開腹が必要だった。私はその間、手術室の準備を手伝いながら、お母さんへの説明に立ち会い、同意書を取り、夜間呼び出しのスタッフへの連絡を入れた。
お母さんは最初、何が起きているのか理解できない様子だった。
「どういうことですか。退院できるって言ってたじゃないですか」
泣きながら言った言葉は、責めているのではなかった。ただ、怖くて、信じられなくて、その気持ちが言葉になっていた。
「先生が最善を尽くします。そばで待ちましょう」
私は事実を言った。感情を込めようとはしなかった。そうするべき場所がわからなかった。ただ、お母さんの隣に立ち続けた。
悠斗くんが手術室に運ばれていくとき、ストレッチャーのそばを歩いた。
悠斗くんが上を向いて、天井を見ていた。こわばった顔をしていた。私の顔を見て、少しだけ目が動いた。
「絶対、退院できるからね」
言っていた。気づいたら、言っていた。
嘘かもしれなかった。でも言っていた。
手術室の外で、私はお母さんの隣に座った。
時計の針が、ゆっくりと動いていた。廊下は静かだった。夜の病院の静けさは、昼間のそれとは違う。物音がないだけでなく、空気の重さが違う。
お母さんは手を組んで、膝の上に置いていた。何も言わなかった。言葉を探しているのか、それとも言葉が出てこないのか、わからなかった。
私は「大丈夫です」と言った。
信じているから言うのではなかった。でも何も言えないよりは、と思って、言い続けた。
一時間が過ぎた。
お母さんがぽつりと言った。
「あの子、入院してから泣かなかったんです。最初の夜は怖かったと思うのに、一度も泣かなかった。強がりなんですよ、七歳のくせに」
「……そうですね」
「白石さんがいてくれたから、安心してたんだと思います。ありがとうございます」
私は答えられなかった。
「いいえ」と言うべきだった。でも口が動かなかった。
お母さんの言葉が、胸の中に落ちた。落ちて、そこに留まった。
感謝を受け取るたびに、私はいつも「当然のことをしただけです」と思っていた。でも今夜は、その言葉がすっと入ってきた。
なぜかはわからなかった。
手術室の扉が開いたのは、日付が変わる少し前だった。
朝霧先生が出てきた。
白衣の袖口に、血がついていた。
先生の顔を見た瞬間、私は理解した。
先生はゆっくりとお母さんの前に立った。
「手術は行いました」
静かな声だった。
「ですが、処置が届きませんでした。二十三時五十二分、悠斗くんは亡くなりました」
お母さんの膝が折れた。
廊下の床に崩れ落ちながら、「嘘でしょう」と言った。声にならない声で繰り返した。「嘘でしょう、嘘でしょう」と。
私は屈んで、お母さんの背中に手を当てた。
「つらい結果となってしまい、本当に残念です」
泣けなかった。
悠斗くんの顔が、頭の中に次々と浮かんだ。シーツの中から出てきた目。「ほんとに?」と聞いた声。先生に恐竜の話をしながら輝いた目。「退院したら図鑑を買ってもらう」と言った声。私の手を掴んで「怖い夢を見た」と言った、あの小さな手。
全部、映像としては浮かんだ。
しかし、胸の中は静かだった。
悲しくなかった。泣けなかった。悔しくなかった。
ただ、「この子がいなくなった」という事実だけが、頭の中で繰り返されていた。
お母さんが病室に移り、当直スタッフに引き継いで廊下に出たとき、朝霧先生が壁に背中を預けて立っていた。
廊下の照明が落ちていて、先生の顔は半分、影の中にあった。白衣の袖口の血が、蛍光灯の光の届かない側にある。腕を組んでいた。下を向いていた。
私が近づくと、先生は顔を上げた。
その目が、今まで見たことのない色をしていた。
感情のない目ではなかった。何かが、揺れていた。あの冷たく整った顔の奥に、今夜だけは、何か人間的なものが浮かんでいた。
「白石」
低い声だった。
「はい」
「お前、何も感じていないか」
廊下に、静寂が落ちた。
私は答えた。
「……はい」
先生の表情が、動いた。
怒りではなかった。怒りよりもっと根源的な、もっと深いところから来る何かが、あの無表情な顔に滲み出た。
先生は私を見たまま、静かに言った。
「それで看護師か」
声が、震えていた。
微かに、でも確かに、震えていた。
その言葉が、胸に刺さった。
刺さった、という感覚が、確かにあった。
痛い、とは違う。でも「何もない」とも違う。何かが、揺れた。水面が、揺れた。波紋が、広がった。
私は言い返せなかった。
先生も、それ以上は何も言わなかった。
廊下に、消毒液の匂いが漂っていた。遠くでナースコールが鳴り始めた。どこかの病室で、誰かが誰かを呼んでいた。
先生は私から目を逸らして、廊下の奥へ歩き始めた。
一歩、二歩。
足音が、遠くなっていった。
私はその場に一人、残された。
壁を見つめながら、自分の胸のあたりに手を当てた。何かを確かめるように。
刺さった感覚が、まだそこにあった。
(なぜ)
感情がなければ、言葉は刺さらないはずだった。
それなのに、刺さった。
「それで看護師か」という言葉が、消えなかった。頭の中で繰り返されていた。
悠斗くんが死んだという事実より、先生のあの震えた声の方が、今夜の私には強く残っていた。
それがどういう意味なのかを、私はまだ知らなかった。
ただ、ナースコールが鳴り続けている廊下を歩きながら、私は思った。
(何かが、始まっている)
何が始まっているのかも、どこへ向かうのかも、わからなかった。
ただ、今夜の私の内側は、いつもと少し違った。
しんと静かなはずなのに、水面がざわついていた。見えない何かが、深いところで動いていた。
足が、いつもより重かった。
その重さの意味を、私はまだ知らなかった。