君に届くのは、10分の1だけ
プロローグ
あの日、私は死のうとしていた。
冬の空は、どこまでも白かった。
屋上のドアを開けた瞬間、冷たい風が顔に当たった。
痛いくらいの寒さだったけど、別にいいと思った。
もう関係ない。
フェンスに近づく。
足元に、薄く積もった雪。
地面も、校庭も、遠くの田んぼも、全部白かった。
誰の足跡もなかった。
ここに来る人は、いない。
私みたいな人間以外。
手袋をしていない指で、冷えた鉄をつかんだ。
錆びた感触。
それが、なんか合ってると思った。
中学三年の、二月。
卒業まで、あと一ヶ月。
ずっと、それを言い訳にして耐えてきた。
卒業したら終わる。
卒業したら、誰もいなくなる。
でも。
もう信じられなかった。
いつからか、私はクラスに存在しなかった。
話しかけても、聞こえていないみたいな顔をされた。
名前を呼ばれることも、目が合うことも、なくなった。
ただそこにいるだけの、何か。
先生に言ったことがある。
一度だけ。
「そんなことないだろ」
笑いながら言われた。
それで終わった。
透明になる練習を、ずっとしてきた。
目立たないように。
声を出さないように。
誰の邪魔にもならないように。
うまくなりすぎた。
自分でも、自分が見えなくなった。
だったら。
本当に、透明になればいい。
フェンスをよじ登ろうとした、その瞬間。
「……ねえ」
声がした。
振り返る。
隣のクラスの男の子が、屋上のドアのそばに立っていた。
確か、瀬川、だったか。そのくらいの。
制服のボタンが一つ、外れていた。
息が、白かった。
「なんか、変だと思って」
それだけだった。
理由も、説明も、なかった。
「ついてきちゃった」
息が、少し乱れていた。
馬鹿みたいな話だと思った。
ついてきた、って。
ろくに話したこともないのに。
「……帰ってください」
私の声は、自分でも驚くくらい平坦だった。
「やだ」
一言。
「なんで」
「なんとなく」
会話になっていなかった。
でも彼は動かなかった。
ポケットに手を突っ込んで、ただ、立っていた。
少し経って、彼が口を開いた。
「今死んじゃって、どうなりたいとかないの」
唐突だった。
「……ない」
正直に答えた。
考えたことが、なかった。
「そっか」
彼は少し間を置いてから、続けた。
「俺はあるよ。卒業したら県立北浜高校に行くんだ。美術科があって」
なんで急にそんな話を、と思った。
でも彼は止まらなかった。
「絵、ずっと描いてて。大学も美大狙ってる。将来は画家になりたくて。
田舎だからそういう高校少なくて、片道一時間くらいかかるんだけど」
少し笑った。
「まあ、行くって決めてるから」
自慢でも、励ましでもなかった。
ただ、話していた。
自分のことを、普通に。
私は黙って聞いていた。
未来の話だ、と思った。
この人は、未来の話をしている。
あたりまえみたいに。
「……一ヶ月後には卒業だろ」
少し間があって、彼が言った。
「全部終わるから」
全部、終わる。
私はその言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。
終わる。
そうか。
卒業したら、終わるんだ。
死ぬんじゃなくて、終わるんだ。
なんで今まで、そう思えなかったんだろう。
フェンスをつかんでいた手から、ゆっくりと力が抜けた。
気づいたら、泣いていた。
声も出なかった。
ただ、涙だけが出た。
泣き方、覚えてた。
彼は何も言わなかった。
ただ、私の隣に来て、一緒に空を見ていた。
どれくらいそうしていたか、分からない。
「名前、なんていうの」
少し経って、彼が聞いた。
「……水瀬、柚希」
「瀬川律」
それだけだった。
彼はその後すぐ、行ってしまった。
引き止めなかった。
名前以外、何も聞かなかった。
一人になった屋上で、私はもう一度だけ空を見た。
吐く息が、また白かった。
でも今度は、それが少しだけ、きれいに見えた。
手首をつかんだ手が、温かかった。
春まで、生きてみようと思った。
冬の空は、どこまでも白かった。
屋上のドアを開けた瞬間、冷たい風が顔に当たった。
痛いくらいの寒さだったけど、別にいいと思った。
もう関係ない。
フェンスに近づく。
足元に、薄く積もった雪。
地面も、校庭も、遠くの田んぼも、全部白かった。
誰の足跡もなかった。
ここに来る人は、いない。
私みたいな人間以外。
手袋をしていない指で、冷えた鉄をつかんだ。
錆びた感触。
それが、なんか合ってると思った。
中学三年の、二月。
卒業まで、あと一ヶ月。
ずっと、それを言い訳にして耐えてきた。
卒業したら終わる。
卒業したら、誰もいなくなる。
でも。
もう信じられなかった。
いつからか、私はクラスに存在しなかった。
話しかけても、聞こえていないみたいな顔をされた。
名前を呼ばれることも、目が合うことも、なくなった。
ただそこにいるだけの、何か。
先生に言ったことがある。
一度だけ。
「そんなことないだろ」
笑いながら言われた。
それで終わった。
透明になる練習を、ずっとしてきた。
目立たないように。
声を出さないように。
誰の邪魔にもならないように。
うまくなりすぎた。
自分でも、自分が見えなくなった。
だったら。
本当に、透明になればいい。
フェンスをよじ登ろうとした、その瞬間。
「……ねえ」
声がした。
振り返る。
隣のクラスの男の子が、屋上のドアのそばに立っていた。
確か、瀬川、だったか。そのくらいの。
制服のボタンが一つ、外れていた。
息が、白かった。
「なんか、変だと思って」
それだけだった。
理由も、説明も、なかった。
「ついてきちゃった」
息が、少し乱れていた。
馬鹿みたいな話だと思った。
ついてきた、って。
ろくに話したこともないのに。
「……帰ってください」
私の声は、自分でも驚くくらい平坦だった。
「やだ」
一言。
「なんで」
「なんとなく」
会話になっていなかった。
でも彼は動かなかった。
ポケットに手を突っ込んで、ただ、立っていた。
少し経って、彼が口を開いた。
「今死んじゃって、どうなりたいとかないの」
唐突だった。
「……ない」
正直に答えた。
考えたことが、なかった。
「そっか」
彼は少し間を置いてから、続けた。
「俺はあるよ。卒業したら県立北浜高校に行くんだ。美術科があって」
なんで急にそんな話を、と思った。
でも彼は止まらなかった。
「絵、ずっと描いてて。大学も美大狙ってる。将来は画家になりたくて。
田舎だからそういう高校少なくて、片道一時間くらいかかるんだけど」
少し笑った。
「まあ、行くって決めてるから」
自慢でも、励ましでもなかった。
ただ、話していた。
自分のことを、普通に。
私は黙って聞いていた。
未来の話だ、と思った。
この人は、未来の話をしている。
あたりまえみたいに。
「……一ヶ月後には卒業だろ」
少し間があって、彼が言った。
「全部終わるから」
全部、終わる。
私はその言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。
終わる。
そうか。
卒業したら、終わるんだ。
死ぬんじゃなくて、終わるんだ。
なんで今まで、そう思えなかったんだろう。
フェンスをつかんでいた手から、ゆっくりと力が抜けた。
気づいたら、泣いていた。
声も出なかった。
ただ、涙だけが出た。
泣き方、覚えてた。
彼は何も言わなかった。
ただ、私の隣に来て、一緒に空を見ていた。
どれくらいそうしていたか、分からない。
「名前、なんていうの」
少し経って、彼が聞いた。
「……水瀬、柚希」
「瀬川律」
それだけだった。
彼はその後すぐ、行ってしまった。
引き止めなかった。
名前以外、何も聞かなかった。
一人になった屋上で、私はもう一度だけ空を見た。
吐く息が、また白かった。
でも今度は、それが少しだけ、きれいに見えた。
手首をつかんだ手が、温かかった。
春まで、生きてみようと思った。
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