真夜中にハーブティーを、あなたとふたりで
第一章
「えっ……それは、どういう意味?」
桜が満開の夜。日本橋にあるレストランで、私は手にしていたグラスをテーブルに置いた。
七年間勤めていたジュエリーショップ「メゾン・エテルネル」の日本橋店店長になった報告をしようと向かったレストランで、三歳年上の恋人・佐竹悠磨から告げられたのは、思いもしない言葉だった。
「香帆には本当に申し訳ないと思っている。でも、美織は俺がいないとダメなんだ」
頭を下げ、悠磨はドラマでしか聞いたことのないセリフを言った。
「いつから、浮気していたの? 年明けには双方の両親にも会って食事をしたよね」
数ヶ月前、悠磨の転職が決まったお祝いに上京してきたご両親に、私を紹介してくれた。
さらに数日後、悠磨は私の実家で「真剣にお付き合いをしている」と両親に言ってくれたのに。
二十六歳から三年間、それなりの月日を過ごし信頼を築いてきた。
プロポーズこそまだだけれど、両親との食事会で交わされた会話は、私たちの結婚を前提としたものだったはずだ。
「……彼女と出会ったのは半年前で、その……そういう関係になったのは二ヶ月ぐらい前、かな」
二ヶ月前といえば、二月。私に人事異動の内示があり、四月から店長として就任するための研修が始まった頃だ。
通常勤務と社内研修が重なり忙しかったのを覚えている。休みのほとんどを研修の復習に費やし、悠磨と会っていなかった。
「香帆が忙しくしていたから……」
「私のせいだって言いたいの?」
「そうじゃなくて。俺だって転職したばかりで忙しかったし。それで、歓迎会で経理課の美織と仲良くなって……」
それ以上言うのは憚られたようで、悠磨はグラスのビールを喉に流し込む。
悠磨の仕事はプログラマーだ。
大学の先輩から引き抜きの声をかけられたのが、年末だったと思う。様々な会社からシステムの基盤構築や運用を請け負うその会社は、プログラマーなら誰でも知っているほど有名らしい。
イノベーティブ・データ・ファウンデーションズというちょっと舌を噛みそうな名前を、悠磨は何度も誇らしげに語っていた。通称はIDFだそうだ。
なんでも、凄腕のプログラマーが急に年内で辞めることになったとか。
彼の穴を埋めるために新たに五人のプログラマーを雇う必要があり、悠磨に白羽の矢が立った。
ブラック企業なのではと心配する私に「中途採用を始めると同時に、働き方改革をすると説明を受けた」と悠磨は笑った。
実際に働いてみると、ブラックからグレーになった程度らしいが、待遇は悪くないと聞いていた。
私もグラスを手にしてビールを口にする。だけれど少しも味がしない。
グラスを持つ指先が冷たく、震えている。頭が真っ白になって目に涙が滲む。
私たちが過ごした三年間はなんだったの?
どうしていきなり現れた女が、私の居場所をかっさらうのよ。
「それで、その人が妊娠したから、私と別れて彼女と結婚するんだ」
「……すまない」
怒りと悲しみが身体の中で渦を巻く。この感情をなんて呼べばいいか分からない。
用意されていた未来が、目の前でガタガタと崩れていく。その先にあるのは真っ暗闇で、どこへ続くのか分からない不安が、足元から込み上げてくる。
「で、でも。香帆なら大丈夫。店長になったんだろう! 今までの仕事を認めてもらえてよかったな。それに香帆は美人だから、これからいくらでも出会いが……」
「あなたにだけは言われたくない!」
私の思い描いた未来を壊したその口で、私の将来を語らないで。
手にしているビールを悠磨にかけたら、ちょっとはすっきりするんだろうか。
でも、そんなことをしたらお店の迷惑になる。
こうやって常識を考えて生きるから、突然現れた彼女にすべて奪われるのかもしれない。
とてもではないけれど、これ以上一緒のテーブルに着いてはいられなかった。
「……さようなら」
「すまない」
せめて別れの言葉は、私から言いたかった。
なけなしのプライドをかき集め、背筋を伸ばして入口へ向かう。
ここで泣いて縋ってもなにも変わらないし、自分が惨めになるだけだ。泣くな。
そう自分に言い聞かせて店を出て、私は地下鉄へ足を向ける。
段々、一歩が早くなるのが自分でも分かる。やや駆け足気味にトイレへ駆け込むと、私は口を押さえ嗚咽した。
どんどん涙が流れてくる。
もしかしたら今日、プロポーズされるかもしれないと思っていた。
どんなウェディングドレスがいいかなと、ネットで検索した。
「メゾン・エテルネル」の主力商品はエンゲージリングとマリッジリングだ。
仕事中にどれがいいかと考えたのは、一度や二度じゃない。
すぐそこにあった未来が手のひらから零れていく。
掴めたと思ったものは消え、私の手を涙が伝う。
地下のトイレで声を殺して泣くなんて、どれだけ惨めなんだろう。