春から小学校に通う子を持つ親向け短編小説『まっさらのページ』

第一話

 春が来る少し前、リビングの棚のいちばん下に置いてあったスケッチブックを、娘は引っ張り出してきた。
 表紙は角が丸まり、白だったはずの紙は、ところどころ薄く黄色い。
「これ、つかっていい?」
 六歳の娘――陽向は、もうすぐ幼稚園を卒園する。
 私はキッチンで洗い物をしながら、「いいよ」とだけ答えた。
 娘は床にぺたりと座り、クレヨンの箱を開ける。
 赤、青、黄色、みどり。少し短くなった色たちが、カラカラと音を立てた。
 最初のページに描かれたのは、ぐるぐるした線だった。
 何を描いているのか、私にはわからない。
「これはね、ようちえん」
 そう言って、娘は紫色を重ねた。
 その上に、黄色で小さな丸をいくつも描く。
「おともだち?」
「うん。せんせいもいるよ」
 説明はそれだけだった。
 私は「そっか」と言って、また洗い物に戻る。
 気がつくと、娘は二枚目のページを開いていた。
 今度は、少しだけ線が整っている。
 茶色で四角、青で屋根のような三角。
「おうち?」
「ちがう。しょうがっこう」
 娘は得意そうに言った。
 私は思わず手を止める。
「もう、描けるんだ」
「テレビでみた」
 そう言って、娘はクレヨンを持ち替える。
 赤い線で、大きな四角を描き、その横に細い線を二本。
「これは?」
「ランドセル」
 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけきゅっとした。
 まだ早いと思っていた。
 まだ幼稚園のままでいてほしいと、どこかで願っていた。

 三枚目のページは、まっさらだった。
 娘はしばらくクレヨンを持ったまま、何も描かない。
「どうしたの?」
「ここは、あとで」
 そう言って、スケッチブックを閉じた。

 その夜、娘が寝たあと、私はそっとスケッチブックを開いた。
 ぐるぐるの線、少し歪んだ学校、赤いランドセル。
 最後の、白いページ。
 そこに、何が描かれるのだろう。
 数日後、玄関に小さな段ボールが届いた。
 中には、真新しいランドセルが入っていた。
 赤くて、少しだけ大きい。
 娘は目を丸くして、声も出さずにそれを抱きしめた。
「おもい?」
「うん。でも、だいじょうぶ」
 鏡の前で背負う姿は、少し不格好で、でも確かに“小学生”だった。

 その日の夜、娘はまたスケッチブックを開いた。
 最後のページに、今度は迷わずクレヨンを走らせる。

 描かれたのは、小さな丸がひとつ。
 その背中に、赤い四角。
 その前に、少し大きな丸がひとつ。
 手を伸ばしている。

「これ、だれ?」
「わたし」
「こっちは?」

 娘は一瞬だけ考えてから言った。
「いっしょにあるいてる、ママ」

 私は何も言えなかった。
 胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
「しょうがっこうはね、ちょっとこわい」
 娘はぽつりと言った。
「でもね、ランドセルがあるから、いける」
私は娘の頭を、そっと撫でた。

 スケッチブックの最後のページは、もう白くない。
 でも、これから先のページは、まだ見えない。

 それでいいのだと思った。

 クレヨンみたいに、少しずつ短くなっていく時間の中で、
 描ききれなかった線も、はみ出した色も、全部抱えたまま。

 ランドセルは、きっと重たい。
 でも、その重さの分だけ、世界は広がっていく。

 私は、玄関に並んだ小さな靴を見ながら、そう思った。

 まっさらじゃなくていい。
 きれいじゃなくていい。

 今日まで描いてきた全部の上に、
 明日が、そっと重なっていけばいい。
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