紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
序章
追い詰められた少女の選択肢①
「たかが小娘一人を捕えるのに何を手間取っている! そう遠くまでは逃げていないはずだ! 草の根を分けてでも見つけ出せ!」
ほんの数メートルも離れない場所で、がさり、と木立が揺れ、その向こうから苛立ちを滲ませた野太い声が響く。
目と鼻の先ほどの至近距離から聞こえてきた怒声に、びくり、と肩を揺らした少女は息を詰めると、身体をさらに小さく丸め、身を寄せていた灌木の陰に腰を深く沈めた。
どくどくといつまでも鳴り止まない心臓の音がひどくうるさい。
(ああ、どうか――……どうか見つかりませんように)
鼓膜を揺らす心音すらも聞こえてしまうのではないだろうか、と不安に駆られ、片手に握りしめていたロザリオを胸元に引き寄せると、少女は、ぎゅうっ、と瞼を閉じ、藁にも縋る思いで祈りを奉げた。
***
追手が来ることは始めから分かっていた。
だからこそ彼女は起こりうるであろう、あらゆる事態を想定し、何が起きても冷静に対処できるよう、二ヶ月以上も前から綿密な計画を練り、作戦決行日に照準を合わせ、着実に事の準備を進めていた。
最初は馬を使うことも考えたが、見通しの良い野山を駆るのとは違って、鬱蒼とした木々が群生する森の中を馬で駆けるのは、あまりにも無謀すぎる。それに落馬する可能性だって大いにあるだろう。
何より大切に育ててきた愛馬が、木の根元などに脚を引っかけて、怪我を負いでもしたら、それこそ一大事だ。
そのような考えもあって、馬に乗って逃げる、という選択肢は、彼女の中で完全に消去された。
となると彼女に残された選択肢はたった一つ。
歩いて森を抜け、国境を超える――……という方法しかなさそうだ。
幸いなことに同じ大陸内に点在する他の森と比べれば、彼女が逃走ルートに選んだ森は、それほど広くもなければ、複雑に入り組んでいるわけでもない。
ゆっくりと時間をかけて歩いても、半日もあれば、回りきれるほどの規模だ。
幼い頃から慣れ親しんできたその森は庭のようなものであり、どこをどう通れば良いのかも熟知していたから、徒歩で森を抜けて国境を超えることは、彼女にとって、そう難しいことではなさそうだった。
だがさすがに白昼堂々と逃亡するわけにもいかない。
行動に移すのだとすれば、陽が完全に落ち、人々が眠りに就く頃を見計らってからになるだろう。
しかしいくら慣れ親しんでいるとはいえ、夜の森を歩き回るのは、とても危険なことだ。
鋭い牙を持つ狼や気性の荒い灰色熊など獰猛な獣もいれば、猛毒を持つ蛇や昆虫だっている。何よりも一番厄介なのは魔物の存在だ。
獣や蛇など大抵の動物は火を嫌うため、松明を持ち歩けば、不用に襲われることはないが、魔物に於いては、どの種族であれど、火を恐れることは一切ない。
出喰わしたが最後、武器なり、武術なり、魔法なりで対処するより他になく、それら魔物や獣の行動が最も活発になるのが、多くの人々が寝静まった夜更けからなのだ。
剣術もそれなりに習得し、魔法もそれなりに心得ているが、実践となれば、ずいぶんと昔に一度だけ経験したことがあるくらいで、こんな夜更けに森の中を歩き回るのだって、初めてのことだ。
念入りに計画を立て、準備も進めてきたが、本当に大丈夫なのだろうか、と不安ばかりが募ってしまう。
けれども彼女にはどうしても果たさなければならないことがあった。
魔物や獣に遭遇した時のことを考えれば、身が竦むような怖さを覚えるが、彼女にとって、一番怖いと思うのは追手そのものだ。
彼らに見つかることなく、安全に国境を超えるには、やはり夜の森を歩いて抜けるのが最善だろう。
漆黒の闇に溶け込んでしまえば、たとえ追手が来たとしても、そう簡単には見つからないはずだ。
(――……そうなると作戦決行日は新月を迎える頃が良いわよね)
ついと窓の外に視線を投げやり、空に浮かぶ月の状態を確認した彼女は暦をめくり、次に新月を迎えるのは、いつ頃であるかを調べた。
本音を溢せば、少しでも明るい方が歩きやすいし、心強いのだが、頼りなさげに見えても、月明かりは案外と明るい。
魔物や動物は鋭い嗅覚を持っているから、明るさはあまり関係ないが、人に限っては視覚に頼る部分が大きく、たとえそれが仄かな月明かりだとしても、運が悪ければ、すぐに見つかってしまうかもしれない。
彼女にとって最も重要視すべきことは追手に捕らわれないことだ。
そこさえクリアできれば、魔物や獣のことは、二の次でも構わなかった。
(満月を迎えたのは確か四日前だったはず。だとしたら次の新月は……)
暦の上を右へ左へと泳いでいた彼女の指が、一点で、ぴたり、と止まる。
その日の夜から数えてちょうど十日後。
宮殿から遥か遠く離れた最果ての離宮に幽閉されていた彼女の逃亡劇の幕は切って落とされた。
***
「これがグリーヴァの森……なの?」
薄っすらと開いた唇から真っ白い息を吐き出しながら、ぽつり、と小さく呟いた彼女は、その場に立ち竦んだ。
幼い頃から遊び場として慣れ親しんできた森。
立ち並ぶ木々の枝葉の隙間から、穏やかな陽の光が差し込み、森の中にある全てのものが、きらきらと煌めく光景が、まるで宝石箱を引っ繰り返したみたいに美しく、十九歳になった今でも暇さえあれば、彼女はお気に入りの場所である、グリーヴァの森によく出かけていた。
森のちょうどまんなか辺りに小さな泉が湧き出ており、その周辺を取り囲むように広がる花畑に腰を下ろし、四季折々咲き乱れる彩り豊かな草花を眺めながら、ちょっとしたお茶会を開くのが、彼女の楽しみの一つでもあった。
明るい日差しが届く日中は、そんな穏やかな雰囲気に包まれているというのに、今、目の前に広がるそれは本当に自分が知っている森と同じなのだろうか。
そんな風に考えてしまうほどに、夜の空気を纏った森は、がらり、と、その様子を一変させていた。
黄泉の世界へ誘うかのように、ぽっかりと開く入り口からは、冷たい空気が絶えず流れ込んでいる。
入り込めば最後、もう二度と出られないのではなかろうか、と思わせるほどに、異質な空気に包まれた森を前にして、彼女の足取りは完全に止まってしまった。
それなりの覚悟を以って、ここまで辿り着いたが、まさかこれほどまでに雰囲気が違うとは思いも寄らなかった。
物心がついた頃からずっと慣れ親しんできたから、真夜中であっても大丈夫だろう、と思っていたが、どうやらその考えは甘かったらしい。
(――……ああ、どうしよう)
時折、吹く風に枝葉が擦れる音が響く。
ざわざわと揺れる枝葉の音に混じって、森の奥の方から微かに聞こえてくるのは、人ならざるものの咆哮だ。
自分は決して意志薄弱な方ではないと思う。
けれども初めて直面するそれに畏怖の方が勝ってしまい、絶対にやり遂げてみせる、と誓った決意が、ぐらんぐらんと揺れ動く。
一旦引き返して態勢を立て直した方がいいのではなかろうか、と思い至り、異様な雰囲気を放つ森に背を向けかけて、彼女は何とかぎりぎりのところで引き返すのを思い留まった。
離宮を抜け出してから、もう間もなく、一時間が経とうとしている。
少しでも発覚を遅らせて時間を稼ごうと、ちょっとした小細工を仕掛けてきたのだが、子供騙しも同然のそれに、いつまでも気づかれない――……ということは流石にないだろう。
幽閉していたはずの自分が忽然と姿を消したことに気づいて、今頃、離宮では大騒ぎになっているはずだ。
国費の不正な流用だの、司教への冒涜だの、挙句の果てには国王に対して謀反を企てた――……だのと言いがかりをつけられ、身に覚えのない濡れ衣を次から次へと着せられたのは、今から遡ること数か月前の話。
自分のことを快く思わない誰かが、裏で見えない糸を繰っていることには、薄々勘づいていたから、それらの罪状は全て自分を陥れるためのでっち上げよ! と身の潔白を訴えるべく反論したものの、彼女の声に耳を傾ける者など誰一人としていなかった。
かくして彼女は潔白の身でありながら、重大な罪を犯した罪人として、宮殿からの永久追放ならびに離宮での幽閉生活を余儀なくされたのだ。
辺境の地に建つ離宮に幽閉されてから早三ヶ月。
囚われの身ではあったが、そもそも罪に問われることなど一切していなかったし、幽閉されてからも目立った行動や問題を起こすでもなく、それなりに大人しく過ごしていたからか、見張りの者を常に傍に置く、という条件の下、離宮内に限り、自由に行動しても良いという許可が、彼女には早くから与えられていた。
むろん、彼女とて何の考えもなく、三ヶ月近くもの月日を、無駄に過ごしていたわけではない。
表面上では模範生を装って大人しく従っていたが、いつまでも幽閉生活を続けるつもりなんてなかったし、腹の底ではいつ逃げ出してやろうか――……とそればかりを考えていた。
だがしかし離宮には頼れそうな人間は誰一人としていない。
頼れるのは己の知識と知恵と行動力のみだ。
本音を溢せば、すぐにでも窮屈な幽閉生活とは、おさらばしたかったのだが、何の下準備もないまま、無計画に逃亡を謀ろうなんてことは、それこそ自殺行為に値するくらい無謀なことだ。
急がば回れ。急いては事を仕損じる。
それらの言葉が標語となったその日から、確実且つ、安全に離宮から抜け出せないか、彼女はその方法を見つけるべく、自分と深く係り合う人間を中心に、徹底的に調べ上げることにした。
彼女に携わる人間は総勢二十名ほど。
そのうち、ほぼ毎日のように、彼女に携わっているのが、世話係である侍女のチェルシーとマリエッタの二人。それから彼女の日課を管理する侍女長のアデリーヌ。家庭教師のジョバンナとは週に四日ほど顔を突き合わせているし、宮殿付き補佐官のヴォルハラムとの遭遇率もなかなか高い。
そうして最も注意すべき人物が騎士長官のユリウス――……と彼が絶大な信頼を寄せる取り巻きの騎士たちだった。
彼を知り、己を知れば、百戦殆からず。
敵と味方の情勢を知り、その優劣や長短を把握していれば、何度戦っても負けることはない。
要するに勝利を掴みたかったら敵を知れ! というどこかの国の偉人が遺したありがたい言葉を忠実に守り、彼らの性格や行動パターンはもちろんのこと、各々が持つ癖や性質など細部にまで渡って、事細かくじっくりと観察し、得た情報の全てを記し、できる限り多くのことを記憶したのだ。
そうして積み重ねた彼女の並々ならぬ努力と分析力は程なくして実を結ぶこととなったのである。
彼女がそれに気づいたのは、彼らを観察し始めてから、一月半ばかりが経った頃だった。
ほぼ全員の行動パターンを網羅し、計画を立てるにあたっての情報も十二分に集め、いよいよ本格的に逃亡作戦を練ろうと思い、彼らの行動を細かく記した帳面を、何となしに眺めていた彼女は、一週間に一度だけ、夕飯を済ませてからの数時間、誰とも遭遇しない空白の時間があることに気づいた。
行動が変則的過ぎることに加え、こちらの読みを裏切って、突然現れる神出鬼没タイプであるがため、なかなか行動パターンが掴めないでいる騎士長官ユリウスでさえも、彼女が見つけた空白の時間帯には、一度も顔を合わせていないのだ。
眺めていた手帳を閉じると、次に彼女は窓の外を見やり、月の状態を確認してから、傍にあった暦を手に取った。
一週間に一度の空白の時間。
そうして月が新月を迎える日。
それら二つの条件が重なり合う日などそうそうないだろう。
ほとんど諦めの気持ちで、暦を捲っていた彼女の指が、とある一点で、ぴたり、と止まった。
運命なのだと思った。
いや今になって思えば、それは神様がくれた偶然でもあり、与えられた試練でもあったのかもしれない。
ほんの数メートルも離れない場所で、がさり、と木立が揺れ、その向こうから苛立ちを滲ませた野太い声が響く。
目と鼻の先ほどの至近距離から聞こえてきた怒声に、びくり、と肩を揺らした少女は息を詰めると、身体をさらに小さく丸め、身を寄せていた灌木の陰に腰を深く沈めた。
どくどくといつまでも鳴り止まない心臓の音がひどくうるさい。
(ああ、どうか――……どうか見つかりませんように)
鼓膜を揺らす心音すらも聞こえてしまうのではないだろうか、と不安に駆られ、片手に握りしめていたロザリオを胸元に引き寄せると、少女は、ぎゅうっ、と瞼を閉じ、藁にも縋る思いで祈りを奉げた。
***
追手が来ることは始めから分かっていた。
だからこそ彼女は起こりうるであろう、あらゆる事態を想定し、何が起きても冷静に対処できるよう、二ヶ月以上も前から綿密な計画を練り、作戦決行日に照準を合わせ、着実に事の準備を進めていた。
最初は馬を使うことも考えたが、見通しの良い野山を駆るのとは違って、鬱蒼とした木々が群生する森の中を馬で駆けるのは、あまりにも無謀すぎる。それに落馬する可能性だって大いにあるだろう。
何より大切に育ててきた愛馬が、木の根元などに脚を引っかけて、怪我を負いでもしたら、それこそ一大事だ。
そのような考えもあって、馬に乗って逃げる、という選択肢は、彼女の中で完全に消去された。
となると彼女に残された選択肢はたった一つ。
歩いて森を抜け、国境を超える――……という方法しかなさそうだ。
幸いなことに同じ大陸内に点在する他の森と比べれば、彼女が逃走ルートに選んだ森は、それほど広くもなければ、複雑に入り組んでいるわけでもない。
ゆっくりと時間をかけて歩いても、半日もあれば、回りきれるほどの規模だ。
幼い頃から慣れ親しんできたその森は庭のようなものであり、どこをどう通れば良いのかも熟知していたから、徒歩で森を抜けて国境を超えることは、彼女にとって、そう難しいことではなさそうだった。
だがさすがに白昼堂々と逃亡するわけにもいかない。
行動に移すのだとすれば、陽が完全に落ち、人々が眠りに就く頃を見計らってからになるだろう。
しかしいくら慣れ親しんでいるとはいえ、夜の森を歩き回るのは、とても危険なことだ。
鋭い牙を持つ狼や気性の荒い灰色熊など獰猛な獣もいれば、猛毒を持つ蛇や昆虫だっている。何よりも一番厄介なのは魔物の存在だ。
獣や蛇など大抵の動物は火を嫌うため、松明を持ち歩けば、不用に襲われることはないが、魔物に於いては、どの種族であれど、火を恐れることは一切ない。
出喰わしたが最後、武器なり、武術なり、魔法なりで対処するより他になく、それら魔物や獣の行動が最も活発になるのが、多くの人々が寝静まった夜更けからなのだ。
剣術もそれなりに習得し、魔法もそれなりに心得ているが、実践となれば、ずいぶんと昔に一度だけ経験したことがあるくらいで、こんな夜更けに森の中を歩き回るのだって、初めてのことだ。
念入りに計画を立て、準備も進めてきたが、本当に大丈夫なのだろうか、と不安ばかりが募ってしまう。
けれども彼女にはどうしても果たさなければならないことがあった。
魔物や獣に遭遇した時のことを考えれば、身が竦むような怖さを覚えるが、彼女にとって、一番怖いと思うのは追手そのものだ。
彼らに見つかることなく、安全に国境を超えるには、やはり夜の森を歩いて抜けるのが最善だろう。
漆黒の闇に溶け込んでしまえば、たとえ追手が来たとしても、そう簡単には見つからないはずだ。
(――……そうなると作戦決行日は新月を迎える頃が良いわよね)
ついと窓の外に視線を投げやり、空に浮かぶ月の状態を確認した彼女は暦をめくり、次に新月を迎えるのは、いつ頃であるかを調べた。
本音を溢せば、少しでも明るい方が歩きやすいし、心強いのだが、頼りなさげに見えても、月明かりは案外と明るい。
魔物や動物は鋭い嗅覚を持っているから、明るさはあまり関係ないが、人に限っては視覚に頼る部分が大きく、たとえそれが仄かな月明かりだとしても、運が悪ければ、すぐに見つかってしまうかもしれない。
彼女にとって最も重要視すべきことは追手に捕らわれないことだ。
そこさえクリアできれば、魔物や獣のことは、二の次でも構わなかった。
(満月を迎えたのは確か四日前だったはず。だとしたら次の新月は……)
暦の上を右へ左へと泳いでいた彼女の指が、一点で、ぴたり、と止まる。
その日の夜から数えてちょうど十日後。
宮殿から遥か遠く離れた最果ての離宮に幽閉されていた彼女の逃亡劇の幕は切って落とされた。
***
「これがグリーヴァの森……なの?」
薄っすらと開いた唇から真っ白い息を吐き出しながら、ぽつり、と小さく呟いた彼女は、その場に立ち竦んだ。
幼い頃から遊び場として慣れ親しんできた森。
立ち並ぶ木々の枝葉の隙間から、穏やかな陽の光が差し込み、森の中にある全てのものが、きらきらと煌めく光景が、まるで宝石箱を引っ繰り返したみたいに美しく、十九歳になった今でも暇さえあれば、彼女はお気に入りの場所である、グリーヴァの森によく出かけていた。
森のちょうどまんなか辺りに小さな泉が湧き出ており、その周辺を取り囲むように広がる花畑に腰を下ろし、四季折々咲き乱れる彩り豊かな草花を眺めながら、ちょっとしたお茶会を開くのが、彼女の楽しみの一つでもあった。
明るい日差しが届く日中は、そんな穏やかな雰囲気に包まれているというのに、今、目の前に広がるそれは本当に自分が知っている森と同じなのだろうか。
そんな風に考えてしまうほどに、夜の空気を纏った森は、がらり、と、その様子を一変させていた。
黄泉の世界へ誘うかのように、ぽっかりと開く入り口からは、冷たい空気が絶えず流れ込んでいる。
入り込めば最後、もう二度と出られないのではなかろうか、と思わせるほどに、異質な空気に包まれた森を前にして、彼女の足取りは完全に止まってしまった。
それなりの覚悟を以って、ここまで辿り着いたが、まさかこれほどまでに雰囲気が違うとは思いも寄らなかった。
物心がついた頃からずっと慣れ親しんできたから、真夜中であっても大丈夫だろう、と思っていたが、どうやらその考えは甘かったらしい。
(――……ああ、どうしよう)
時折、吹く風に枝葉が擦れる音が響く。
ざわざわと揺れる枝葉の音に混じって、森の奥の方から微かに聞こえてくるのは、人ならざるものの咆哮だ。
自分は決して意志薄弱な方ではないと思う。
けれども初めて直面するそれに畏怖の方が勝ってしまい、絶対にやり遂げてみせる、と誓った決意が、ぐらんぐらんと揺れ動く。
一旦引き返して態勢を立て直した方がいいのではなかろうか、と思い至り、異様な雰囲気を放つ森に背を向けかけて、彼女は何とかぎりぎりのところで引き返すのを思い留まった。
離宮を抜け出してから、もう間もなく、一時間が経とうとしている。
少しでも発覚を遅らせて時間を稼ごうと、ちょっとした小細工を仕掛けてきたのだが、子供騙しも同然のそれに、いつまでも気づかれない――……ということは流石にないだろう。
幽閉していたはずの自分が忽然と姿を消したことに気づいて、今頃、離宮では大騒ぎになっているはずだ。
国費の不正な流用だの、司教への冒涜だの、挙句の果てには国王に対して謀反を企てた――……だのと言いがかりをつけられ、身に覚えのない濡れ衣を次から次へと着せられたのは、今から遡ること数か月前の話。
自分のことを快く思わない誰かが、裏で見えない糸を繰っていることには、薄々勘づいていたから、それらの罪状は全て自分を陥れるためのでっち上げよ! と身の潔白を訴えるべく反論したものの、彼女の声に耳を傾ける者など誰一人としていなかった。
かくして彼女は潔白の身でありながら、重大な罪を犯した罪人として、宮殿からの永久追放ならびに離宮での幽閉生活を余儀なくされたのだ。
辺境の地に建つ離宮に幽閉されてから早三ヶ月。
囚われの身ではあったが、そもそも罪に問われることなど一切していなかったし、幽閉されてからも目立った行動や問題を起こすでもなく、それなりに大人しく過ごしていたからか、見張りの者を常に傍に置く、という条件の下、離宮内に限り、自由に行動しても良いという許可が、彼女には早くから与えられていた。
むろん、彼女とて何の考えもなく、三ヶ月近くもの月日を、無駄に過ごしていたわけではない。
表面上では模範生を装って大人しく従っていたが、いつまでも幽閉生活を続けるつもりなんてなかったし、腹の底ではいつ逃げ出してやろうか――……とそればかりを考えていた。
だがしかし離宮には頼れそうな人間は誰一人としていない。
頼れるのは己の知識と知恵と行動力のみだ。
本音を溢せば、すぐにでも窮屈な幽閉生活とは、おさらばしたかったのだが、何の下準備もないまま、無計画に逃亡を謀ろうなんてことは、それこそ自殺行為に値するくらい無謀なことだ。
急がば回れ。急いては事を仕損じる。
それらの言葉が標語となったその日から、確実且つ、安全に離宮から抜け出せないか、彼女はその方法を見つけるべく、自分と深く係り合う人間を中心に、徹底的に調べ上げることにした。
彼女に携わる人間は総勢二十名ほど。
そのうち、ほぼ毎日のように、彼女に携わっているのが、世話係である侍女のチェルシーとマリエッタの二人。それから彼女の日課を管理する侍女長のアデリーヌ。家庭教師のジョバンナとは週に四日ほど顔を突き合わせているし、宮殿付き補佐官のヴォルハラムとの遭遇率もなかなか高い。
そうして最も注意すべき人物が騎士長官のユリウス――……と彼が絶大な信頼を寄せる取り巻きの騎士たちだった。
彼を知り、己を知れば、百戦殆からず。
敵と味方の情勢を知り、その優劣や長短を把握していれば、何度戦っても負けることはない。
要するに勝利を掴みたかったら敵を知れ! というどこかの国の偉人が遺したありがたい言葉を忠実に守り、彼らの性格や行動パターンはもちろんのこと、各々が持つ癖や性質など細部にまで渡って、事細かくじっくりと観察し、得た情報の全てを記し、できる限り多くのことを記憶したのだ。
そうして積み重ねた彼女の並々ならぬ努力と分析力は程なくして実を結ぶこととなったのである。
彼女がそれに気づいたのは、彼らを観察し始めてから、一月半ばかりが経った頃だった。
ほぼ全員の行動パターンを網羅し、計画を立てるにあたっての情報も十二分に集め、いよいよ本格的に逃亡作戦を練ろうと思い、彼らの行動を細かく記した帳面を、何となしに眺めていた彼女は、一週間に一度だけ、夕飯を済ませてからの数時間、誰とも遭遇しない空白の時間があることに気づいた。
行動が変則的過ぎることに加え、こちらの読みを裏切って、突然現れる神出鬼没タイプであるがため、なかなか行動パターンが掴めないでいる騎士長官ユリウスでさえも、彼女が見つけた空白の時間帯には、一度も顔を合わせていないのだ。
眺めていた手帳を閉じると、次に彼女は窓の外を見やり、月の状態を確認してから、傍にあった暦を手に取った。
一週間に一度の空白の時間。
そうして月が新月を迎える日。
それら二つの条件が重なり合う日などそうそうないだろう。
ほとんど諦めの気持ちで、暦を捲っていた彼女の指が、とある一点で、ぴたり、と止まった。
運命なのだと思った。
いや今になって思えば、それは神様がくれた偶然でもあり、与えられた試練でもあったのかもしれない。
< 1 / 74 >