紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
追い詰められた少女の選択肢②
傍らを摺り抜けてゆく風に煽られ、頭の天辺で纏めていた金色の長い髪が、ふわり、と靡く。
ここに辿り着くまでの長い道のりを回顧していた彼女は睫毛を持ち上げ、閉ざしていた瞼をゆっくりと開くと、烏の羽のような漆黒の闇に覆われた森を、つい、と見上げた。
引き返すのは簡単だ。
けれど、今、ここで引き返すことを選んでしまったら、数か月もの長い時間をかけて、積み重ねてきた全てのことが、一瞬にして水の泡になってしまう。
本当にそれでいいのだろうか。
後悔しないと言い切れるのだろうか。
頭の中で何度も繰り返される自問自答の声に、暫しの間、逡巡していた彼女はやがて頭を左右に小さく振ると、自分の頬を、ぱちり、と両手で叩いた。
いまさら離宮に引き返したところで、どうなるというのだろうか。
逃亡を企てていることがバレないよう、表向けは大人しく振る舞っていたが、実行に移してしまった今となっては、優等生の仮面は最早使い物にはならないだろう。
寧ろ、よくぞ騙してくれたな、この悪女め! と罵られた揚句、あっという間にひっ捕らえられ、二度と逃亡などできぬよう、それこそ手枷足枷で繋がれて、自由を奪われるのは目に見えている。
そうなったら最後、次に陽の目を見られるのは、いつになるか分からない。
というか下手すれば、一生涯、辺境の地に幽閉され続け、陽の目を見ないまま、死んでしまう可能性だってあり得るのだ。
(一生涯、幽閉生活なんて絶対にイヤ!)
たった数ヶ月の短期間でも、ものすごく窮屈で息が詰まりそうだというのに、それが一生涯続くなんてありえないし、考えたくもない。
そもそも何の罪も犯していないのに――今回の逃亡に関してはあくまでノーカウント!―――住み慣れた宮殿から追い出されただけでなく、辺境の地に建つ離宮にいきなり幽閉されるとか、あまりにも理不尽すぎる。
身の潔白を証明さえできれば、亡命なんて危険を冒さずとも、無罪放免解放される可能性もあるだろうが、四面楚歌状態の現状ではそれは望めないだろう。
それ以前、今、ここで、
『▸離宮に戻る』
の選択肢を選ぼうならば、それこそ死ぬまで後悔しそうだ。
それならば、いさぎよく森に突っ込んで結果、魔物もしくは獣の餌になる方がマシだ。
(あれだけ頑張ったのだから大丈夫。きっと成功する)
暗示をかけるように自分に強く云い聞かせ、松脂を染み込ませた松明に火を灯すと、彼女は未だ進むことを拒もうとする足をどうにか動かし、夜の静寂に包まれた森の中へと踏みこんだ。
***
右へ左へと好きな方へ伸び放題に伸びている草木や、頭上から垂れ下がる枝葉をばっさばっさと薙ぎ倒しつつ、ひたすら前へと突き進む。
松明の灯り一つだけでは足元が覚束ず、最初の方はとても歩きにくかったが、時間が経つにつれ、暗闇にも目が慣れてきたのか、足元もだいぶしっかりとしてきて、森の中に入ったばかりの頃と比べれば、随分と歩きやすくなった。
それでも松明の灯りで照らせる範囲はとても狭く、明るい日差しが指す昼間のように、ひょいひょいと身軽に動き回ることは適わず、ちょっとでも気を緩めれば、剥き出しになった木の根元につま先を引っかけて躓いたり、すっ転んだり、を何度も繰り返した。
そのせいであちこちに擦り傷や打ち身などができて、少し痛むけれど、歩けないほどの怪我でもなく、身体もそこまで疲弊はしていない。
ただ寒さで吐く息は真っ白に染まり、指の先や足のつま先は、すっかり悴んでしまっている。
彼女が生まれ育った北の大陸は、ついこの間、夏季を迎えたばかりだ。
凍てつくような寒さと凄まじい猛吹雪に襲われる真冬のことを思えば、これでもまだ温暖な方だと言えなくもないが、大陸のほぼ中央に位置する宮殿と違い、辺境の地――……フォルトゥナ地方の最北端に建つ離宮周辺は夏でも気温はそれほど上がらず、夜ともなれば、氷点下まで下がることも、しばしばあるくらいだ。
少しでも動きやすいようにと、荷物になるようなものは全て置いてきたのだが、どうやらこの判断は誤っていたようだ。
今、着ている冒険者向けの軽装備は雨風や寒さを軽減するために、特殊な素材を用いて作られた厚手の物だが、それ一枚だけでは到底寒さは凌げず、せめて防寒具の一つくらいは用意すべきだったと後悔したものの、いまさら引き返せるわけもなく、松明を手元に引き寄せ、ぱちぱちと小さく爆ぜる炎で、悴む指先を温めつつ、彼女は頭上に広がる夜空を見上げた。
月明かりが邪魔をしない新月の夜を選んだため、月の位置で方角を定めることはできないが、幸いにも今夜は天候もよく、視界を遮る雲の量も少ない。夜の空を銀色に縁取る星々を観察するには最適だ。
的確に方角を定めたいのであれば、不動の星と呼ばれるシグルスを見つければいいし、時間を知りたければ、シグルスを中心にして瞬く星の動きを見れば、ある程度の時間を割り出すことだって可能だ。
(目指す国境は森の北西の方だから――……)
夜空に瞬くどの星よりも一際明るく輝くシグルスを見つけ出し、進むべき方角をしっかりと見定める。ついでに周りの星の傾きから、粗方の時間を割り出して、今、自分がグリーヴァの森のどの辺りにいるのかも、ざっくりではあるが調べてみた。
森の中に踏みこむほんの少し前、彼女は遠くの方から、微かに聞こえる鐘の音を捕えていた。
日によって多少の誤差はあるが、一日の最後に聖堂の鐘楼で打ち鳴らされる鐘の音は、おおよそ午後十時を告げるものだ。
鐘の音を聞いた時――……つまりは午後十時頃に見た星の位置と今現在の星の位置が、どの程度ずれているのか、それさえ確認すれば、おおよその時間は絞り込める。ぱっと見た感じではあるが、星の位置から読み解くに、おそらく森に入ってから、二時間以上は経過しているだろう。
となれば、どう小さく見積もっても、午前零時はとっくに過ぎているはずだ。
では今現在、彼女は森のどの辺りにいるのだろうか。
彼女が目指している国境は森の北西方面にある。
松明の灯りが届かないところは暗闇に包まれ、覆い茂る木々や灌木の輪郭が辛うじて確認できるかできないかほど暗いが、それでも時折立ち止まっては夜空を見上げ、シグルスの位置をこまめに観察しているから、進む方角に関しては間違っていないだろう。
彼女が目指す国境は森の北西を抜けた先にあり、深い渓を隔てた向こう側に渡れば、隣国であるグランベール国領に辿り着くことができる。
渓を渡るための吊り橋と国境を越えるための関所があるくらいで、他に観光スポットらしきものがあるわけでもなく、国境を超えるという目的がない限り、立ち寄るものなど誰一人としていないくらい辺鄙な場所だ。
遊び場として慣れ親しんでいる彼女でさえ、国境付近に足を踏み入れたのは、片手で数えられるくらいしかない。
一番最近の話で言えば、幽閉される二週間ほど前にも立ち寄っていて、散歩がてら、森の入口から歩いたのだが、日中で明るかったから視界も良かったし、また足元を捉われることもなかったから、最短距離で突き進んで、四時間ほどで辿り着けたはずだ。
たとえそれが同じ森なのだとしても、昼間と深夜とでは、条件が全く違えば、環境も全く異なってくる。
昼間のように視界も良くなければ、歩く速度だって、日中と比べれば、かなり遅い。
それでも国境までの道のりの半分近くまでは進んでいるだろう。
自分の目算が合っていれば、今のペースを保ったまま、歩き続ければ、夜が明けるまでには国境付近に辿り着けるはず。
――……願わくば魔獣や獣に遭遇せず、山賊や追い剝ぎにも出喰わさず、ついでに追跡者にも見つかりませんように。
悴んでいた指先に温もりが戻ってくるのを感じながら、首から下げていたロザリオを胸元に引き寄せると、長い睫毛をそっと伏せて祈りを捧げる。少し欲張って祈り過ぎたかもしれないわね、とほんの少し反省しつつ、ぱちぱちと音を立てて爆ぜる松明を掲げると、彼女は国境を目指し、ふたたび歩き始めた。
ここに辿り着くまでの長い道のりを回顧していた彼女は睫毛を持ち上げ、閉ざしていた瞼をゆっくりと開くと、烏の羽のような漆黒の闇に覆われた森を、つい、と見上げた。
引き返すのは簡単だ。
けれど、今、ここで引き返すことを選んでしまったら、数か月もの長い時間をかけて、積み重ねてきた全てのことが、一瞬にして水の泡になってしまう。
本当にそれでいいのだろうか。
後悔しないと言い切れるのだろうか。
頭の中で何度も繰り返される自問自答の声に、暫しの間、逡巡していた彼女はやがて頭を左右に小さく振ると、自分の頬を、ぱちり、と両手で叩いた。
いまさら離宮に引き返したところで、どうなるというのだろうか。
逃亡を企てていることがバレないよう、表向けは大人しく振る舞っていたが、実行に移してしまった今となっては、優等生の仮面は最早使い物にはならないだろう。
寧ろ、よくぞ騙してくれたな、この悪女め! と罵られた揚句、あっという間にひっ捕らえられ、二度と逃亡などできぬよう、それこそ手枷足枷で繋がれて、自由を奪われるのは目に見えている。
そうなったら最後、次に陽の目を見られるのは、いつになるか分からない。
というか下手すれば、一生涯、辺境の地に幽閉され続け、陽の目を見ないまま、死んでしまう可能性だってあり得るのだ。
(一生涯、幽閉生活なんて絶対にイヤ!)
たった数ヶ月の短期間でも、ものすごく窮屈で息が詰まりそうだというのに、それが一生涯続くなんてありえないし、考えたくもない。
そもそも何の罪も犯していないのに――今回の逃亡に関してはあくまでノーカウント!―――住み慣れた宮殿から追い出されただけでなく、辺境の地に建つ離宮にいきなり幽閉されるとか、あまりにも理不尽すぎる。
身の潔白を証明さえできれば、亡命なんて危険を冒さずとも、無罪放免解放される可能性もあるだろうが、四面楚歌状態の現状ではそれは望めないだろう。
それ以前、今、ここで、
『▸離宮に戻る』
の選択肢を選ぼうならば、それこそ死ぬまで後悔しそうだ。
それならば、いさぎよく森に突っ込んで結果、魔物もしくは獣の餌になる方がマシだ。
(あれだけ頑張ったのだから大丈夫。きっと成功する)
暗示をかけるように自分に強く云い聞かせ、松脂を染み込ませた松明に火を灯すと、彼女は未だ進むことを拒もうとする足をどうにか動かし、夜の静寂に包まれた森の中へと踏みこんだ。
***
右へ左へと好きな方へ伸び放題に伸びている草木や、頭上から垂れ下がる枝葉をばっさばっさと薙ぎ倒しつつ、ひたすら前へと突き進む。
松明の灯り一つだけでは足元が覚束ず、最初の方はとても歩きにくかったが、時間が経つにつれ、暗闇にも目が慣れてきたのか、足元もだいぶしっかりとしてきて、森の中に入ったばかりの頃と比べれば、随分と歩きやすくなった。
それでも松明の灯りで照らせる範囲はとても狭く、明るい日差しが指す昼間のように、ひょいひょいと身軽に動き回ることは適わず、ちょっとでも気を緩めれば、剥き出しになった木の根元につま先を引っかけて躓いたり、すっ転んだり、を何度も繰り返した。
そのせいであちこちに擦り傷や打ち身などができて、少し痛むけれど、歩けないほどの怪我でもなく、身体もそこまで疲弊はしていない。
ただ寒さで吐く息は真っ白に染まり、指の先や足のつま先は、すっかり悴んでしまっている。
彼女が生まれ育った北の大陸は、ついこの間、夏季を迎えたばかりだ。
凍てつくような寒さと凄まじい猛吹雪に襲われる真冬のことを思えば、これでもまだ温暖な方だと言えなくもないが、大陸のほぼ中央に位置する宮殿と違い、辺境の地――……フォルトゥナ地方の最北端に建つ離宮周辺は夏でも気温はそれほど上がらず、夜ともなれば、氷点下まで下がることも、しばしばあるくらいだ。
少しでも動きやすいようにと、荷物になるようなものは全て置いてきたのだが、どうやらこの判断は誤っていたようだ。
今、着ている冒険者向けの軽装備は雨風や寒さを軽減するために、特殊な素材を用いて作られた厚手の物だが、それ一枚だけでは到底寒さは凌げず、せめて防寒具の一つくらいは用意すべきだったと後悔したものの、いまさら引き返せるわけもなく、松明を手元に引き寄せ、ぱちぱちと小さく爆ぜる炎で、悴む指先を温めつつ、彼女は頭上に広がる夜空を見上げた。
月明かりが邪魔をしない新月の夜を選んだため、月の位置で方角を定めることはできないが、幸いにも今夜は天候もよく、視界を遮る雲の量も少ない。夜の空を銀色に縁取る星々を観察するには最適だ。
的確に方角を定めたいのであれば、不動の星と呼ばれるシグルスを見つければいいし、時間を知りたければ、シグルスを中心にして瞬く星の動きを見れば、ある程度の時間を割り出すことだって可能だ。
(目指す国境は森の北西の方だから――……)
夜空に瞬くどの星よりも一際明るく輝くシグルスを見つけ出し、進むべき方角をしっかりと見定める。ついでに周りの星の傾きから、粗方の時間を割り出して、今、自分がグリーヴァの森のどの辺りにいるのかも、ざっくりではあるが調べてみた。
森の中に踏みこむほんの少し前、彼女は遠くの方から、微かに聞こえる鐘の音を捕えていた。
日によって多少の誤差はあるが、一日の最後に聖堂の鐘楼で打ち鳴らされる鐘の音は、おおよそ午後十時を告げるものだ。
鐘の音を聞いた時――……つまりは午後十時頃に見た星の位置と今現在の星の位置が、どの程度ずれているのか、それさえ確認すれば、おおよその時間は絞り込める。ぱっと見た感じではあるが、星の位置から読み解くに、おそらく森に入ってから、二時間以上は経過しているだろう。
となれば、どう小さく見積もっても、午前零時はとっくに過ぎているはずだ。
では今現在、彼女は森のどの辺りにいるのだろうか。
彼女が目指している国境は森の北西方面にある。
松明の灯りが届かないところは暗闇に包まれ、覆い茂る木々や灌木の輪郭が辛うじて確認できるかできないかほど暗いが、それでも時折立ち止まっては夜空を見上げ、シグルスの位置をこまめに観察しているから、進む方角に関しては間違っていないだろう。
彼女が目指す国境は森の北西を抜けた先にあり、深い渓を隔てた向こう側に渡れば、隣国であるグランベール国領に辿り着くことができる。
渓を渡るための吊り橋と国境を越えるための関所があるくらいで、他に観光スポットらしきものがあるわけでもなく、国境を超えるという目的がない限り、立ち寄るものなど誰一人としていないくらい辺鄙な場所だ。
遊び場として慣れ親しんでいる彼女でさえ、国境付近に足を踏み入れたのは、片手で数えられるくらいしかない。
一番最近の話で言えば、幽閉される二週間ほど前にも立ち寄っていて、散歩がてら、森の入口から歩いたのだが、日中で明るかったから視界も良かったし、また足元を捉われることもなかったから、最短距離で突き進んで、四時間ほどで辿り着けたはずだ。
たとえそれが同じ森なのだとしても、昼間と深夜とでは、条件が全く違えば、環境も全く異なってくる。
昼間のように視界も良くなければ、歩く速度だって、日中と比べれば、かなり遅い。
それでも国境までの道のりの半分近くまでは進んでいるだろう。
自分の目算が合っていれば、今のペースを保ったまま、歩き続ければ、夜が明けるまでには国境付近に辿り着けるはず。
――……願わくば魔獣や獣に遭遇せず、山賊や追い剝ぎにも出喰わさず、ついでに追跡者にも見つかりませんように。
悴んでいた指先に温もりが戻ってくるのを感じながら、首から下げていたロザリオを胸元に引き寄せると、長い睫毛をそっと伏せて祈りを捧げる。少し欲張って祈り過ぎたかもしれないわね、とほんの少し反省しつつ、ぱちぱちと音を立てて爆ぜる松明を掲げると、彼女は国境を目指し、ふたたび歩き始めた。