紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
これが異世界での私の役目
「こっ、国王陛下! 夜も明けないうちから、なぜこのような場所に来られたのですか!」
「ああ、まあ、これには色々と複雑な理由があってな」
「っていうか、アレクは!? アレクはどこにいるのっ!?」
夜明けにはまだ早すぎる時間帯、突然、現れた国王陛下を目にして、その場にいた看守たちが、いったい何が起きたのかと騒ぎ出す。
混乱を極める最中、事情を説明していた国王陛下の会話を遮って、間に割り込むなり、対応に当たっていた看守が、珍妙なものを見たとでも言いたげに、私からそっと視線を外した。
「陛下、この小娘は、一体、何なのです?」
「ああ、そのことについては、後でゆっくり話そう。今は一刻を争う事態でね。アレクシオはどこに収監されている?」
「先日、捕らえたアレクシオでしたら、地下二階の一番奥の独房に収監しておりますが――……って、おい! 小娘! どこへ行く気だ! 許可もなく、牢舎内へ立ち入ることは――……」
人の顔を見るなり、目を逸らすなんて失礼ねえ! と看守の露骨な態度に、むう、としたものの、今、優先すべきはアレクを助け出すことだ、と思い至り、入手したばかりの情報を頭の中に叩き込むと、わあわあと騒ぎ立てる看守の声を無視して、私は急ぎ足で地下に続く階段へと向かった。
月を守護する神様の従者である、アルトゥールという最強の後ろ楯を得て、『月に呼ばれし異端者』――正しくは『解放者』なんだけれど――が、全く以って人畜無害であることを証明し、晴れて身の証を立てることに成功したのは、今から遡ること、一時間くらい前の話。
最初にして一番の難関であった『王様に会いに行こう!』の課題を見事突破し、次なる課題である『腐敗臭漂う薄暗い地下牢にぶち込まれたアレクを助け出そう!』を完遂すべく、アリルア城の広大な敷地内の一角に建つ牢舎――いわゆる拘置所に向かおうとして、国王陛下に呼び止められてしまった。
何でも国王陛下が住まう居城から牢舎までは、かなり離れているらしく、のらりくらりと歩いて向かっていては、朝になっても辿り着けないと言われ、かくして国王陛下が用意してくれた馬車に乗り込み、牢舎に向かうことになったのである。
その際、どういうわけだか、国王陛下も同行することとなり、牢舎に辿り着くまでの間、色々と話を聞かされたのだが、アレクが捕らえられてから以降、国王陛下自身も、どう処分を下せば良いか、考え倦ねていたらしく、とにかく事実関係を確認するには、『月に呼ばれし異端者』である私と会うことが必要だと判断し、その結果、王都から逃げ失せた私たちの身柄を確保するため、莫大な懸賞金をかけ、炙り出す作戦に打って出たそうだ。
アレクに関しても、ヴィクトール卿相の目を欺くため、敢えて身柄を拘束したものの、事実関係がはっきりするまでは、あくまで勾留しているだけに過ぎず、ジオルドが話していたような熾烈な拷問などは与えていないらしい。
またヴィクトール卿相に関しても、以前から、彼の人間性に疑念を抱いていて、その本性を暴くため、表向きは離宮に向かうよう見せかけて、その実、途中で引き返し、ヴィクトール卿相が行動に出るのを待っていたところ、賞金首である私がのこのことやってきた――というのが一連の流れだそうだ。
とまあそんな感じで、あれこれ一悶着こそあったものの、『月に呼ばれし異端者』問題に関しては、平和的解決へと至り、今、現在は捕らえられたアレクを解放するため、広大なお城の敷地内に造られた牢舎に赴き、地下二階の一番奥の独房を目指して、階段を駆け下りている次第なのだ。
本当はもっと急ぎたいのだが、如何せん、階段の幅が非常に狭く、その上、傾斜もかなり急なので、ちょっとでも足を踏み外せば、一気に下まで転げ落ちてしまうのは、必至だ。
アレクを救出するまで、あともう少しというところまで来ているのに、ここで階段から転げ落ちて怪我などしてしまっては、これまでの努力がすべて泡になってしまう。
そんなバカみたいな結末だけは、是が非でも回避せねば! と焦る気持ちを抑えつつ、足場の悪い階段を、できるだけ素早く下りてゆき、どうにか地下二階に辿り着いたところで、おい、こら、待てー! という声とともに、階段を下りてくる複数の靴音が、上の方から聞こえてきた。
どうやら看守たちが後を追いかけてきたようだ。
だけどこちらとしても課題完遂を目前にして、まんまと捕まるわけにもいかない。
かくして私は逃げるが勝ち! を実践すべく、奥へと続く薄暗い通路を全力で駆け出した。
そこそこ広さはあるものの、迷路のように入り組んではいないから、万が一にでも、遭難する心配はなさそうだが、ほぼ四角形に近い造りになっているせいで、一番奥がどこなのか見当がつかない。
(って一番奥ってどこなのよーーーーっ!)
と焦っていたらば、薄暗い地下牢で見るには、あからさまに不自然なメイド服を着た人が、壁際に立っていることに気づいた。
何でこんなところにメイドさんがいるんだ? と不審に思いつつも、何か有益な情報を得られるかもしれない、と一人佇む彼女の傍まで走ってゆき、声をかけようとして、すぐ傍の頑丈そうな鉄の扉の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「――――……っ、アレク!?」
微かではあるものの、鉄の扉の向こうから聞こえたのは、間違いなく、アレクの声だ。
だが、しかし、なんだか様子がおかしい。
切羽詰まったような声色に、いつだったか見た映画の中で、敵国に捕らえられた女スパイが、阿鼻叫喚な惨たらしい私刑を受ける一幕があったのを思い出し、わー! 大変だあ! と半開きになっていた鉄の扉を押し開いて、中へ飛び込んでみたらば、山ほども大きな体躯をした男が、アレクの背中に馬乗りになっているではないか!
拷問は受けていないって言ってたのになんでー!? と軽く混乱に陥りつつも、とにかくアレクを助けなければ、という思いに駆られ、私は無我夢中、アレクの背中に伸しかかっているムキムキマッチョ目がけて、体当たりをかましていた。
こんな時間帯に誰かが乱入してくるなんて、想像もしていなかったのだろう。
全身全霊渾身の力を込めて放った一撃を受けて、バランスを崩したムキムキマッチョが、アレクの背中から転げ落ちる。
その様子を横目で見遣りつつ、私は床に倒れ込んでいるアレクの傍に駆け寄った。
「アレクっ!」
「ってお前、何でこんなところにいるんだ!」
「何でってアレクを助けに来たからに決まってるでしょう!」
「助けに来たって――レナードとジオルドはどうしたんだ! 一緒にいたはずだろう!」
「二人のことなら心配しなくても大丈夫よ! アルトゥールが介抱してくれているはずだから安心して」
「アル……トゥール? って誰だそれ」
「詳しいことは後でゆっくり話すから! それよりも拘束具を外さなきゃ……」
矢継ぎ早に捲し立てるアレクに、むう、としたものの、思っていたよりも、ずいぶんと元気そうだ。
アレクが無事だったことに、ほう、と安堵の息を吐いたけれど、アレクの両手両足には、枷が嵌められていて、見ているだけでも痛々しい。
しかも倒れているアレクのすぐ脇には、ひっくり返ったお皿や器が散らばっていて、中に入っていたのだろう、スープやら、パンやらが、そこいら中に飛び散っているではないか。
何があったのかは分からないが、とにもかくにも不衛生すぎるその状況から、一刻も早くアレクを助け出さなければと思うものの、そうするにはアレクの自由を奪っている拘束具を、どうにかしないといけなさそうだ。
「え、えっと、とにかく鍵を探さなきゃ……」
「――……っ、美緒! そこから離れろ!」
頑丈そうな鎖で繋がれた拘束具を力任せに壊すのは、さすがに無理だと思って、きょろきょろと視線を彷徨わせながら、それらしき鍵を探していたらば、アレクの鋭い声が飛んできた。
アレクの声に、何が起きたのか、すぐには理解できず、きょとり、と呆けて、次の瞬間、ぶわり、と身体が浮き上がるのと同時に、丸太ほども太い腕が首に巻きついてきた。
「てめえ! いきなり何をしやがる!」
「――っ、やだっ、離し――……っ、」
がなり立てるムキムキマッチョの声が、鼓膜をきいぃいんと震わせる。
どうやら体勢を立て直したムキムキマッチョに、羽交い絞めにされてしまったようだ。
じたばたと足掻きながら、ムキムキマッチョの毛むくじゃらの太い腕を、びしばしと叩くものの、ぎりぎりと首を絞めつける力は全く緩まない。
「やめろ! ランヴァルド! そいつに手を出すな!」
「ああ!? うるせえ、アレクシオ! てめえは黙っていろ!」
「――……っ、くそ、」
これまで遭遇した数々の危機的な状況から、何度も助け出してくれたアレクも、両手両足を拘束された状態では、さすがに手も足も出せないらしい。
それでも、この状況をどうにか打破しようと、身動きの取れないアレクが、声を張り上げて牽制するものの、ムキムキマッチョはアレクの声を無視すると、毛むくじゃらの太い腕に、さらに力を加えた。
呼吸がままならないどころか、このままでは首を圧し折られてしまいそうだ。
忍び寄ってくる死神の気配を感じつつ、絶体絶命の状況から、何とか抜け出そうと、尚もじたばたと悪足掻きをしていたら、救いの手は意外なところから差し出された。
「こんなところで何をしている、ランヴァルド」
「――……っ、へ、陛下、」
何者であろうと逆らうことを許さない、威厳に満ちたその声に、首を絞めつけていたムキムキマッチョの力が緩んで、硬い床の上に身体を投げ出される。
押し潰されたカエルみたく、べしゃり、と、うつ伏せで倒れ込んだ私を見て、器用に身体を捻って向きを変えると、アレクが心配そうに顔を覗き込んだ。
「――……っ、美緒! 大丈夫か!?」
一時的に失っていた酸素が、一気に肺に入り込んできて、その反動で激しく咳き込む。
さすがにすぐに会話をできるような状態ではなく、ケホケホと咳き込みながら、小さく頭を動かして頷けば、アレクは藍色の双眸を僅かに歪ませた。
「すまない。護れなかった」
「――……っ、」
静かに落ちてきたアレクの言葉に、きゅうっ、と唇を噛み締める。
アレクはいつだってそうだ。
彼に落ち度があるわけでもないのに、いつだって自分のせいだと、責任の全てを一人で背負おうとする。
ディハルトに襲撃されたあの日だって、私たちを王都から逃したときだって、それに今だって両手両足を拘束されて、身動き一つさえ困難な状態で、誰かを助けるなんて絶対に無理なのに、どうしてアレクが謝るのか、全然理解が及ばない。
(なんで……なんでいつも人の心配ばかりするのよ!)
例えそれが騎士として生きるアレクの信念なのだとしても、納得ができず、腹立たしいやら、情けないやら、切ないやら、色々な感情が綯い交ぜになって、目頭が、じんと熱くなる。
けれども、今ここで涙を見せたら、なんだか自分に負けたような気がして、絶対に泣くもんか! と溢れそうになる涙を必死に堪えていたら、さらり、と柔らかい衣擦れの音が鼓膜を揺らした。
さっきよりは幾分か呼吸も楽になり、のろり、と上半身を起こしてみれば、いつの間にか、傍らに国王陛下が立っている。
(そう言えばムキムキマッチョはどうしたんだろう)
何となしにムキムキマッチョのことを思い出して、彼がいる方へ目を向ければ、予想だにしなかった国王陛下の登場に、すっかり色を失くしてしまったらしい。
ついさっきまで、がなり立てて大暴れしていたはずのムキムキマッチョは、牙を抜かれた猛獣のごとく、肩を落として、すっかり悄気返っているではないか。
たった一言、声を発しただけで、あれほど獰猛だったムキムキマッチョを、ここまで意気消沈させるなんて凄すぎる! と国王陛下という存在の偉大さに感服していたら、身に纏う衣服の裾が汚れるのも厭わず、国王陛下は硬い石の床に膝をついた。
これにはアレクもひどく驚いたらしい。
「陛下、お召し物が汚れてしまいます。今すぐ御立ち下さ――……」
「まあ、そう堅苦しいことを言うな、アレクシオ。衣服が汚れたならば、洗えば済むことだ」
膝を折るなど陛下がすることではない、と遠回しに窘めるアレクを、尤もな理由で以って制しながら、国王陛下は懐から小さな鍵を取り出すと、アレクの手首に嵌められた拘束具の鍵穴へ差し込む。
かちり、と小気味よく響く金属音とともに、アレクの両手を縛りつけていた拘束具が緩み、続けて足に嵌められていた枷も外される。
ようやく自由を取り戻したアレクは、けれども数日間、まともに身体を動かすことができなかったせいか、すぐに立ち上がるのは難しいようだ。
国王陛下の助けを借りて、ようやっと上半身を起こすと、アレクは寄りかかるようにして、背中を壁に預けた。
「それにしても、なぜ陛下までもが、このような場所に来られたのですか?」
「ああ、それについては、彼女から話を聞けばよいだろう」
ライオンの鬣みたいな髭を愛おしげに撫でながら、国王陛下は、ちろり、と私の方へ視線を寄越す。
「そうだな。私から言えるのは、お前の見立ては間違っていなかったということだけだ」
「陛下、それは――……」
「勘違いをするな、アレクシオ。私の目を欺き、『月に呼ばれし異端者』を匿っていた罪が、そう簡単に消されるわけではない。お前の処遇については、これから考えるつもりだ。だがディハルト殺害容疑に関しては、正当な防衛であったと審議で認められた。裁きに免じて、一旦は、その身を釈放してやろう。二、三日はゆっくりと身体を休めるといい」
「もったいないお言葉を賜り、大変感謝しております。いかなる処遇であれ、謹んでお受け致しましょう」
丁寧に言葉を紡ぎ、折り目正しく、頭を下げたアレクの肩を軽く叩いて、衣装の裾についた汚れを払い落としながら、立ち上がった陛下は、一仕事を終えたと言わんばかり、ふう、と息を吐く。
「まったく、どこまでも頭が固いやつだな。まあ、いいだろう。もう少しゆっくりと話をしたいところだが、私もそれなりに忙しくてね。そろそろ居城へ戻らねばならない。ひとまず、あとのことは君に任せても構わないだろうか? お嬢さん――……いや、ミオと呼んだ方がいいかね?」
「陛下――……はい。今日は色々と助けて下さり、ありがとうございました。陛下から受けたご恩は一生忘れません」
「――……まったく、君まで畏まる必要はないだろうに。ああ、そうだ。君の処遇についても、後日、改めて連絡させよう。それまではこれまで通り、身を預けている施設で、ゆっくりと過ごすといいだろう」
『月に呼ばれし異端者』ではなく、ちゃんと名前で呼んでくれたことに、喜びを噛み締めつつ、アレクを見習って、折り目正しく、お辞儀をすれば、国王陛下は苦い笑いを一つ残して、鉄の扉の向こうへと去ってゆく。
国王陛下の背中が、視界から消えてしまうまで見送っていたら、今度は複数人の看守たちが、どやどやとやってきた。
総勢八人でやってきた看守たちは二手に分かれると、片方は床に散らばっていたお皿やら残飯を手際よく片付けてゆき、もう片方の看守たちは、すっかり意気消沈して、おとなしく座り込んでいるムキムキマッチョを取り囲むと、何処へと、しょっ引いてゆく。
そうしてそれぞれがやることを終えると、看守たちはさっさと立ち去ってしまい、気が付いたら、薄暗い独房の中には、私とアレクだけが取り残されていた。
(って、ちょっとー! みんな、どこに行ったのよー!?)
と焦っていたらば、不運にも、アレクとがっつり視線が合ってしまった。
何とも絶妙なタイミングに、うわあー、気まずい! と思ったものの、あからさまに視線を逸らすこともできず、何から話せば良いのかも分からず、苦し紛れに愛想笑いを浮かべるなり、綺麗に整った端正なその顔立ちが不快そうに歪む。
何の前触れもなく、いきなり風向きが悪くなったアレクに困惑しつつ、なにか機嫌を損ねるようなことをしただろうか、とその要因を探ってみたものの、ここに辿り着くやいなや、ムキムキマッチョに襲われ、国王陛下を巻き込んでの大騒動へと発展してしまったから、アレクとは会話らしい会話は、ほとんどできていない。
アレクと再会してからの自分の言動を顧みたものの、これといって思い当たる節はなく、だったらどうしてアレクはこんなにも機嫌が悪いのだろうか、と頭を悩ませていたら、
「どうしてこんなところまで来たんだ」
不機嫌さを隠さないまま、アレクがそんなことを聞く。
言い方が少し変わっただけの問いかけに、その質問だったら、さっき答えたじゃないか、と思ったものの、強い口調で言い放ったアレクの声を、無視できるような雰囲気ではなく。
「どうしてって……それはさっきも答えたじゃない。アレクを助けに来たんだって――……」
「お前に助けて欲しいと頼んだ覚えはない。だいたいお前は怪我を負っていたはずだろう? 少なくとも二週間は安静が必要な状態だと聞いている。それなのに、なぜ王都へ戻ってきたんだ」
「怪我のことなら気にしなくても大丈夫だよ。マルティーヌお婆さまから、もらった薬で、痛みを抑えているから平気――……」
「って大丈夫なわけがないだろう! なぜ危険を顧みず、のこのこと王都へ戻ってきたんだ! 陛下が働きかけてくれたから、何事もなく、無事に済んだが、下手をすれば、命を奪われていたかも知れないんだぞ!」
ぴしゃりと落ちてきた鋭い声に、反射的に首を竦めてしまう。
どうやら怪我を押してまで、王都に戻ってきたことに、ものすごく腹を立てているらしい。
ここに来るまでの経緯を、まだ説明できていないから、アレクが怒る気持ちも分からないでもないが、だったら先に事情を聞けばいいではないか。
それなのに頭ごなしに怒鳴りつけるアレクに、だんだんと腹が立ってきた。
「って、そんな、頭ごなしに怒らなくてもいいじゃない! 命を奪われる危険があったのは、アレクだって同じでしょう! 『月に呼ばれし異端者』である私を逃すために、囮になって捕まったって話を聞かされて、知らん顔でいられるほど、私は無神経じゃない! なんでアレクは――……っ、」
言い返しているうちに、心の中でずっと燻っていた感情に火がつく。
「いつも人のことばかり心配するのよ! ディハルトに襲われた時だって、私を王都から逃した時だって、ついさっきだって――……っ、それがアレクの優しさの顕れだっていうのは分かっているし、アレクが私のことを大切に想ってくれる気持ちも嬉しいって思う。
でもそれを優先するがために、アレクが何度も危険に曝されるのを見るのは嫌だよ。自分を庇ったせいで、アレクが苦しむ姿を見るのは嫌なの。だからもっと自分のことも大切にしてよ!」
ずっと言えないでいた本心をぶちまけるなり、アレクが目を見開く。
抑えつけていた感情を爆発させたら、張り詰めていた糸までもが、ぷつり、と切れてしまい、我慢していた涙が一気に溢れ出してきた。
こんな風に人前で泣くのは、これで何度目なのだろう、と自分の涙腺の脆さにへこみつつ、涙を見られたくなくて、顔を背けようとして、それよりも一瞬早く、アレクが手首を掴む。
え、と思う暇もなく、掴まれた手首を、ぐいっ、と引っ張られ、体勢を崩した私は受け身を取ることもできないまま、壁に背中を預けて座り込んでいるアレクの懐に顔から突っ込んでいた。
「――……って、いきなり何すんのよ!」
危ないじゃないか! と抗議の声を上げようとして、背中に触れたアレクの手に、力が籠もったかと思ったら、そのまま、息もできないくらい、強く抱き締められてしまった。
あまりに突然のことに吃驚してしまい、一瞬にして、涙がすっこんでしまう。
いつもであれば、純真無垢な女子高生になんてことするんだ! と激しく抵抗するのだが、何かを言うわけでもなく、ただ無言で抱き締めるアレクのことが、逆に心配になってしまい、私は、そろり、と腕を伸ばすと、泣いている子供をあやすように、アレクの背中を、とんとん、と軽く叩いていた。
私のその行動に、ぴくり、とアレクが身じろぐ。
「――……ああ、その……悪かった、」
アレクが口にした言葉は、あまりに短く、何に対して悪いと言ったのか、皆目見当もつかないが、とりあえず、煮え繰り返っていた腸は収まったようだ。
機嫌が戻って良かった、と、ほう、と息を吐いて安心していたら、背中に回していた腕を解いて、私を解放すると、アレクは決まり悪そうに視線を逸らす。
(おお!? 目を逸らしたぞ!?)
何で視線を逸らしたんだ? と不思議に思いつつも、まずはアレクを怒らせてしまった要因――……つまりは私が王都に戻ってきた理由を話さなければ、と思ったものの、あまりにも内容が濃密すぎて、そこに至るまでの経緯を簡潔に纏めるのは、ちょっと難しそうだ。
だからと言って、その全容を一から語ろうとすれば、果てしなく、時間がかかってしまう。
「あのさ、アレク。聞いて欲しいことがたくさんあるんだけれど、ものすごく時間がかかりそうなの」
あれこれ迷ったものの、やはり端折って話すのは無理だと判断して、時間がかかると申告をすれば、途端にアレクはぎょっとしたように目を剥く。
「いやちょっと待て! 確実に長くなる話で、半日も費やしたお前が、ものすごく時間のかかる話をするのか!?」
「うん。でもたぶん二日もあれば、全部話せると思うよ?」
「ふ……二日!?」
いつかどこかで聞いたことのある流れだなあ、と思いつつ、だいたいの時間を伝えれば、アレクはがっくしと項垂れる。
いつもは表情に乏しいのだけれど、今日はいつになく感情が豊かだ。
怒ったり、居心地悪そうにしたり、驚いたり、焦ったり、さっきから忙しなく、くるくると表情が変化していて、これはこれでなかなかに面白いではないか。
これで喜怒哀楽の『喜』と『楽』が揃えば、完璧なんだけどなあ、とそんなことを思っていたら、アレクは片手で額を押さえつけながら、はあ、と盛大に溜め息を吐く。
「分かった。話を聞けばいいんだろう。話を聞けば。こうなったら、お前の気が済むまで、とことん付き合ってやる。だがその前に一風呂浴びて、ふかふかのベッドで、少しだけ眠らせてくれ」
数日間とはいえ、薄暗い牢獄で不自由な生活を強いられ、心身ともに疲れ切っているのだろう。
渋々といった体で答えながら、アレクはおもむろに立ち上がると、打ちっ放しの壁の突起部に、無造作に引っかかっていた愛用のロングコートを引っ掴む。
「起き上がったりして大丈夫なの?」
「ああ、感覚もだいぶ戻ってきたし、もう大丈夫だ」
心配になって声をかければ、アレクが大きな掌を目の前に差し出してくる。
差し出された掌にすぐに反応できず、きょとり、と首を傾げていたら、痺れを切らしたアレクが手首を掴んで、私の身体を引き上げてくれる。
ああ、立てという意味だったのかと思っていたら、行くぞ、と言って、アレクが踵を返す。けれども何かを思い立ったように、こちらを振り返った。
「さっきはいきなり怒鳴ったりして悪かった。それから――……」
そこまで話して、何かを躊躇うように、アレクは口を噤んでしまう。
どうしたのだろう、と思いながらも、アレクが話し出すのを待っていたら、またしてもアレクが視線を逸らした。
一度ならず、二度までも目を逸らすなんて、今日のアレクは、やはりどこか様子が変だ。
もしかしたら、どこかで頭を強く打ったのではなかろうか、と心配になってしまい、やはり医者に診てもらった方がいいのではなかろうかと、そんなことを思っていたら、一度は逸れた視線が戻ってきた。
「ねえ、アレク。どこか具合が悪いのなら、お医者さんに診てもらった方が――……」
どこか様子がおかしいアレクのことを放っておけなくて、医療機関へ行くことを勧めていたら、迷いを振り切るかのように、軽く頭を振ると、何を思ったのか、アレクがこちらへと引き返してくる。
え、いきなりどうしたのだ、と戸惑っていたら、掴んでいた愛用のロングコートを、ばさり、と私の頭に被せたかと思えば、アレクは、そのまま、私の後頭部を、ぐいっ、と引き寄せた。
ついでに肩も引っ張られ、ほとんど無抵抗のまま、ぽすり、と、アレクの腕の中に納まってしまう。
「色々と心配をさせて悪かった。自分を大切にしろなんて、誰かに言われたのは初めてだ。ありがとう、美緒」
突然のことに理解が追いつかず、目をぱちくり、とさせていたら、柔らかいアレクの声が降ってくる。頭に被せられたコートのせいで視界が遮られて、アレクの表情は確認できないけれど、その声色はひどく優しい。
(……ああ、ちゃんと受け止めてくれたんだ)
決して多くを語ろうとはしないけれど、それでもさっき自分がぶつけた気持ちを受け止めてくれたんだと思ったら、何だかものすごく気が緩んでしまって、一度は引っ込んだはずの涙が、ふたたび溢れ出してしまい、結局、頭に被せられたコートを隠れ蓑にして、私はいつまでもさめざめと泣くこととなってしまった。
*
その日の夕方。
子供たちが待つ施設へと戻り、一眠りして、目を覚ました私は、マルティーヌさんが宣告していた通り、飲み薬の副反応に襲われ、約半日ほど、想像を絶する激痛に、のた打ち回ることになった。
この世の災厄が全部降りかかって来たんじゃないか、と思えるくらいの激痛に見舞われ、ベッドの上で転げ苦しむ私を心配そうに見下ろしながら、薬の副反応が収まるまで、アレクはずっと傍にいてくれた。
聞いて欲しいことがたくさんあるの、と言ったそれが叶ったのは、薬の副反応が収まってから、さらに三日が経ってからのこと。
気が済むまで付き合ってやると言っていたアレクは、夜が明けて空が白み始めても、昇り始めた太陽の柔らかな陽が窓から差し込んでも、陽が落ちて暗くなった空に星が瞬き始めても、滔々と語る私の長い長い話に、いつまでも耳を傾け続けてくれた。
*第一章 Fin*
「ああ、まあ、これには色々と複雑な理由があってな」
「っていうか、アレクは!? アレクはどこにいるのっ!?」
夜明けにはまだ早すぎる時間帯、突然、現れた国王陛下を目にして、その場にいた看守たちが、いったい何が起きたのかと騒ぎ出す。
混乱を極める最中、事情を説明していた国王陛下の会話を遮って、間に割り込むなり、対応に当たっていた看守が、珍妙なものを見たとでも言いたげに、私からそっと視線を外した。
「陛下、この小娘は、一体、何なのです?」
「ああ、そのことについては、後でゆっくり話そう。今は一刻を争う事態でね。アレクシオはどこに収監されている?」
「先日、捕らえたアレクシオでしたら、地下二階の一番奥の独房に収監しておりますが――……って、おい! 小娘! どこへ行く気だ! 許可もなく、牢舎内へ立ち入ることは――……」
人の顔を見るなり、目を逸らすなんて失礼ねえ! と看守の露骨な態度に、むう、としたものの、今、優先すべきはアレクを助け出すことだ、と思い至り、入手したばかりの情報を頭の中に叩き込むと、わあわあと騒ぎ立てる看守の声を無視して、私は急ぎ足で地下に続く階段へと向かった。
月を守護する神様の従者である、アルトゥールという最強の後ろ楯を得て、『月に呼ばれし異端者』――正しくは『解放者』なんだけれど――が、全く以って人畜無害であることを証明し、晴れて身の証を立てることに成功したのは、今から遡ること、一時間くらい前の話。
最初にして一番の難関であった『王様に会いに行こう!』の課題を見事突破し、次なる課題である『腐敗臭漂う薄暗い地下牢にぶち込まれたアレクを助け出そう!』を完遂すべく、アリルア城の広大な敷地内の一角に建つ牢舎――いわゆる拘置所に向かおうとして、国王陛下に呼び止められてしまった。
何でも国王陛下が住まう居城から牢舎までは、かなり離れているらしく、のらりくらりと歩いて向かっていては、朝になっても辿り着けないと言われ、かくして国王陛下が用意してくれた馬車に乗り込み、牢舎に向かうことになったのである。
その際、どういうわけだか、国王陛下も同行することとなり、牢舎に辿り着くまでの間、色々と話を聞かされたのだが、アレクが捕らえられてから以降、国王陛下自身も、どう処分を下せば良いか、考え倦ねていたらしく、とにかく事実関係を確認するには、『月に呼ばれし異端者』である私と会うことが必要だと判断し、その結果、王都から逃げ失せた私たちの身柄を確保するため、莫大な懸賞金をかけ、炙り出す作戦に打って出たそうだ。
アレクに関しても、ヴィクトール卿相の目を欺くため、敢えて身柄を拘束したものの、事実関係がはっきりするまでは、あくまで勾留しているだけに過ぎず、ジオルドが話していたような熾烈な拷問などは与えていないらしい。
またヴィクトール卿相に関しても、以前から、彼の人間性に疑念を抱いていて、その本性を暴くため、表向きは離宮に向かうよう見せかけて、その実、途中で引き返し、ヴィクトール卿相が行動に出るのを待っていたところ、賞金首である私がのこのことやってきた――というのが一連の流れだそうだ。
とまあそんな感じで、あれこれ一悶着こそあったものの、『月に呼ばれし異端者』問題に関しては、平和的解決へと至り、今、現在は捕らえられたアレクを解放するため、広大なお城の敷地内に造られた牢舎に赴き、地下二階の一番奥の独房を目指して、階段を駆け下りている次第なのだ。
本当はもっと急ぎたいのだが、如何せん、階段の幅が非常に狭く、その上、傾斜もかなり急なので、ちょっとでも足を踏み外せば、一気に下まで転げ落ちてしまうのは、必至だ。
アレクを救出するまで、あともう少しというところまで来ているのに、ここで階段から転げ落ちて怪我などしてしまっては、これまでの努力がすべて泡になってしまう。
そんなバカみたいな結末だけは、是が非でも回避せねば! と焦る気持ちを抑えつつ、足場の悪い階段を、できるだけ素早く下りてゆき、どうにか地下二階に辿り着いたところで、おい、こら、待てー! という声とともに、階段を下りてくる複数の靴音が、上の方から聞こえてきた。
どうやら看守たちが後を追いかけてきたようだ。
だけどこちらとしても課題完遂を目前にして、まんまと捕まるわけにもいかない。
かくして私は逃げるが勝ち! を実践すべく、奥へと続く薄暗い通路を全力で駆け出した。
そこそこ広さはあるものの、迷路のように入り組んではいないから、万が一にでも、遭難する心配はなさそうだが、ほぼ四角形に近い造りになっているせいで、一番奥がどこなのか見当がつかない。
(って一番奥ってどこなのよーーーーっ!)
と焦っていたらば、薄暗い地下牢で見るには、あからさまに不自然なメイド服を着た人が、壁際に立っていることに気づいた。
何でこんなところにメイドさんがいるんだ? と不審に思いつつも、何か有益な情報を得られるかもしれない、と一人佇む彼女の傍まで走ってゆき、声をかけようとして、すぐ傍の頑丈そうな鉄の扉の向こうから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「――――……っ、アレク!?」
微かではあるものの、鉄の扉の向こうから聞こえたのは、間違いなく、アレクの声だ。
だが、しかし、なんだか様子がおかしい。
切羽詰まったような声色に、いつだったか見た映画の中で、敵国に捕らえられた女スパイが、阿鼻叫喚な惨たらしい私刑を受ける一幕があったのを思い出し、わー! 大変だあ! と半開きになっていた鉄の扉を押し開いて、中へ飛び込んでみたらば、山ほども大きな体躯をした男が、アレクの背中に馬乗りになっているではないか!
拷問は受けていないって言ってたのになんでー!? と軽く混乱に陥りつつも、とにかくアレクを助けなければ、という思いに駆られ、私は無我夢中、アレクの背中に伸しかかっているムキムキマッチョ目がけて、体当たりをかましていた。
こんな時間帯に誰かが乱入してくるなんて、想像もしていなかったのだろう。
全身全霊渾身の力を込めて放った一撃を受けて、バランスを崩したムキムキマッチョが、アレクの背中から転げ落ちる。
その様子を横目で見遣りつつ、私は床に倒れ込んでいるアレクの傍に駆け寄った。
「アレクっ!」
「ってお前、何でこんなところにいるんだ!」
「何でってアレクを助けに来たからに決まってるでしょう!」
「助けに来たって――レナードとジオルドはどうしたんだ! 一緒にいたはずだろう!」
「二人のことなら心配しなくても大丈夫よ! アルトゥールが介抱してくれているはずだから安心して」
「アル……トゥール? って誰だそれ」
「詳しいことは後でゆっくり話すから! それよりも拘束具を外さなきゃ……」
矢継ぎ早に捲し立てるアレクに、むう、としたものの、思っていたよりも、ずいぶんと元気そうだ。
アレクが無事だったことに、ほう、と安堵の息を吐いたけれど、アレクの両手両足には、枷が嵌められていて、見ているだけでも痛々しい。
しかも倒れているアレクのすぐ脇には、ひっくり返ったお皿や器が散らばっていて、中に入っていたのだろう、スープやら、パンやらが、そこいら中に飛び散っているではないか。
何があったのかは分からないが、とにもかくにも不衛生すぎるその状況から、一刻も早くアレクを助け出さなければと思うものの、そうするにはアレクの自由を奪っている拘束具を、どうにかしないといけなさそうだ。
「え、えっと、とにかく鍵を探さなきゃ……」
「――……っ、美緒! そこから離れろ!」
頑丈そうな鎖で繋がれた拘束具を力任せに壊すのは、さすがに無理だと思って、きょろきょろと視線を彷徨わせながら、それらしき鍵を探していたらば、アレクの鋭い声が飛んできた。
アレクの声に、何が起きたのか、すぐには理解できず、きょとり、と呆けて、次の瞬間、ぶわり、と身体が浮き上がるのと同時に、丸太ほども太い腕が首に巻きついてきた。
「てめえ! いきなり何をしやがる!」
「――っ、やだっ、離し――……っ、」
がなり立てるムキムキマッチョの声が、鼓膜をきいぃいんと震わせる。
どうやら体勢を立て直したムキムキマッチョに、羽交い絞めにされてしまったようだ。
じたばたと足掻きながら、ムキムキマッチョの毛むくじゃらの太い腕を、びしばしと叩くものの、ぎりぎりと首を絞めつける力は全く緩まない。
「やめろ! ランヴァルド! そいつに手を出すな!」
「ああ!? うるせえ、アレクシオ! てめえは黙っていろ!」
「――……っ、くそ、」
これまで遭遇した数々の危機的な状況から、何度も助け出してくれたアレクも、両手両足を拘束された状態では、さすがに手も足も出せないらしい。
それでも、この状況をどうにか打破しようと、身動きの取れないアレクが、声を張り上げて牽制するものの、ムキムキマッチョはアレクの声を無視すると、毛むくじゃらの太い腕に、さらに力を加えた。
呼吸がままならないどころか、このままでは首を圧し折られてしまいそうだ。
忍び寄ってくる死神の気配を感じつつ、絶体絶命の状況から、何とか抜け出そうと、尚もじたばたと悪足掻きをしていたら、救いの手は意外なところから差し出された。
「こんなところで何をしている、ランヴァルド」
「――……っ、へ、陛下、」
何者であろうと逆らうことを許さない、威厳に満ちたその声に、首を絞めつけていたムキムキマッチョの力が緩んで、硬い床の上に身体を投げ出される。
押し潰されたカエルみたく、べしゃり、と、うつ伏せで倒れ込んだ私を見て、器用に身体を捻って向きを変えると、アレクが心配そうに顔を覗き込んだ。
「――……っ、美緒! 大丈夫か!?」
一時的に失っていた酸素が、一気に肺に入り込んできて、その反動で激しく咳き込む。
さすがにすぐに会話をできるような状態ではなく、ケホケホと咳き込みながら、小さく頭を動かして頷けば、アレクは藍色の双眸を僅かに歪ませた。
「すまない。護れなかった」
「――……っ、」
静かに落ちてきたアレクの言葉に、きゅうっ、と唇を噛み締める。
アレクはいつだってそうだ。
彼に落ち度があるわけでもないのに、いつだって自分のせいだと、責任の全てを一人で背負おうとする。
ディハルトに襲撃されたあの日だって、私たちを王都から逃したときだって、それに今だって両手両足を拘束されて、身動き一つさえ困難な状態で、誰かを助けるなんて絶対に無理なのに、どうしてアレクが謝るのか、全然理解が及ばない。
(なんで……なんでいつも人の心配ばかりするのよ!)
例えそれが騎士として生きるアレクの信念なのだとしても、納得ができず、腹立たしいやら、情けないやら、切ないやら、色々な感情が綯い交ぜになって、目頭が、じんと熱くなる。
けれども、今ここで涙を見せたら、なんだか自分に負けたような気がして、絶対に泣くもんか! と溢れそうになる涙を必死に堪えていたら、さらり、と柔らかい衣擦れの音が鼓膜を揺らした。
さっきよりは幾分か呼吸も楽になり、のろり、と上半身を起こしてみれば、いつの間にか、傍らに国王陛下が立っている。
(そう言えばムキムキマッチョはどうしたんだろう)
何となしにムキムキマッチョのことを思い出して、彼がいる方へ目を向ければ、予想だにしなかった国王陛下の登場に、すっかり色を失くしてしまったらしい。
ついさっきまで、がなり立てて大暴れしていたはずのムキムキマッチョは、牙を抜かれた猛獣のごとく、肩を落として、すっかり悄気返っているではないか。
たった一言、声を発しただけで、あれほど獰猛だったムキムキマッチョを、ここまで意気消沈させるなんて凄すぎる! と国王陛下という存在の偉大さに感服していたら、身に纏う衣服の裾が汚れるのも厭わず、国王陛下は硬い石の床に膝をついた。
これにはアレクもひどく驚いたらしい。
「陛下、お召し物が汚れてしまいます。今すぐ御立ち下さ――……」
「まあ、そう堅苦しいことを言うな、アレクシオ。衣服が汚れたならば、洗えば済むことだ」
膝を折るなど陛下がすることではない、と遠回しに窘めるアレクを、尤もな理由で以って制しながら、国王陛下は懐から小さな鍵を取り出すと、アレクの手首に嵌められた拘束具の鍵穴へ差し込む。
かちり、と小気味よく響く金属音とともに、アレクの両手を縛りつけていた拘束具が緩み、続けて足に嵌められていた枷も外される。
ようやく自由を取り戻したアレクは、けれども数日間、まともに身体を動かすことができなかったせいか、すぐに立ち上がるのは難しいようだ。
国王陛下の助けを借りて、ようやっと上半身を起こすと、アレクは寄りかかるようにして、背中を壁に預けた。
「それにしても、なぜ陛下までもが、このような場所に来られたのですか?」
「ああ、それについては、彼女から話を聞けばよいだろう」
ライオンの鬣みたいな髭を愛おしげに撫でながら、国王陛下は、ちろり、と私の方へ視線を寄越す。
「そうだな。私から言えるのは、お前の見立ては間違っていなかったということだけだ」
「陛下、それは――……」
「勘違いをするな、アレクシオ。私の目を欺き、『月に呼ばれし異端者』を匿っていた罪が、そう簡単に消されるわけではない。お前の処遇については、これから考えるつもりだ。だがディハルト殺害容疑に関しては、正当な防衛であったと審議で認められた。裁きに免じて、一旦は、その身を釈放してやろう。二、三日はゆっくりと身体を休めるといい」
「もったいないお言葉を賜り、大変感謝しております。いかなる処遇であれ、謹んでお受け致しましょう」
丁寧に言葉を紡ぎ、折り目正しく、頭を下げたアレクの肩を軽く叩いて、衣装の裾についた汚れを払い落としながら、立ち上がった陛下は、一仕事を終えたと言わんばかり、ふう、と息を吐く。
「まったく、どこまでも頭が固いやつだな。まあ、いいだろう。もう少しゆっくりと話をしたいところだが、私もそれなりに忙しくてね。そろそろ居城へ戻らねばならない。ひとまず、あとのことは君に任せても構わないだろうか? お嬢さん――……いや、ミオと呼んだ方がいいかね?」
「陛下――……はい。今日は色々と助けて下さり、ありがとうございました。陛下から受けたご恩は一生忘れません」
「――……まったく、君まで畏まる必要はないだろうに。ああ、そうだ。君の処遇についても、後日、改めて連絡させよう。それまではこれまで通り、身を預けている施設で、ゆっくりと過ごすといいだろう」
『月に呼ばれし異端者』ではなく、ちゃんと名前で呼んでくれたことに、喜びを噛み締めつつ、アレクを見習って、折り目正しく、お辞儀をすれば、国王陛下は苦い笑いを一つ残して、鉄の扉の向こうへと去ってゆく。
国王陛下の背中が、視界から消えてしまうまで見送っていたら、今度は複数人の看守たちが、どやどやとやってきた。
総勢八人でやってきた看守たちは二手に分かれると、片方は床に散らばっていたお皿やら残飯を手際よく片付けてゆき、もう片方の看守たちは、すっかり意気消沈して、おとなしく座り込んでいるムキムキマッチョを取り囲むと、何処へと、しょっ引いてゆく。
そうしてそれぞれがやることを終えると、看守たちはさっさと立ち去ってしまい、気が付いたら、薄暗い独房の中には、私とアレクだけが取り残されていた。
(って、ちょっとー! みんな、どこに行ったのよー!?)
と焦っていたらば、不運にも、アレクとがっつり視線が合ってしまった。
何とも絶妙なタイミングに、うわあー、気まずい! と思ったものの、あからさまに視線を逸らすこともできず、何から話せば良いのかも分からず、苦し紛れに愛想笑いを浮かべるなり、綺麗に整った端正なその顔立ちが不快そうに歪む。
何の前触れもなく、いきなり風向きが悪くなったアレクに困惑しつつ、なにか機嫌を損ねるようなことをしただろうか、とその要因を探ってみたものの、ここに辿り着くやいなや、ムキムキマッチョに襲われ、国王陛下を巻き込んでの大騒動へと発展してしまったから、アレクとは会話らしい会話は、ほとんどできていない。
アレクと再会してからの自分の言動を顧みたものの、これといって思い当たる節はなく、だったらどうしてアレクはこんなにも機嫌が悪いのだろうか、と頭を悩ませていたら、
「どうしてこんなところまで来たんだ」
不機嫌さを隠さないまま、アレクがそんなことを聞く。
言い方が少し変わっただけの問いかけに、その質問だったら、さっき答えたじゃないか、と思ったものの、強い口調で言い放ったアレクの声を、無視できるような雰囲気ではなく。
「どうしてって……それはさっきも答えたじゃない。アレクを助けに来たんだって――……」
「お前に助けて欲しいと頼んだ覚えはない。だいたいお前は怪我を負っていたはずだろう? 少なくとも二週間は安静が必要な状態だと聞いている。それなのに、なぜ王都へ戻ってきたんだ」
「怪我のことなら気にしなくても大丈夫だよ。マルティーヌお婆さまから、もらった薬で、痛みを抑えているから平気――……」
「って大丈夫なわけがないだろう! なぜ危険を顧みず、のこのこと王都へ戻ってきたんだ! 陛下が働きかけてくれたから、何事もなく、無事に済んだが、下手をすれば、命を奪われていたかも知れないんだぞ!」
ぴしゃりと落ちてきた鋭い声に、反射的に首を竦めてしまう。
どうやら怪我を押してまで、王都に戻ってきたことに、ものすごく腹を立てているらしい。
ここに来るまでの経緯を、まだ説明できていないから、アレクが怒る気持ちも分からないでもないが、だったら先に事情を聞けばいいではないか。
それなのに頭ごなしに怒鳴りつけるアレクに、だんだんと腹が立ってきた。
「って、そんな、頭ごなしに怒らなくてもいいじゃない! 命を奪われる危険があったのは、アレクだって同じでしょう! 『月に呼ばれし異端者』である私を逃すために、囮になって捕まったって話を聞かされて、知らん顔でいられるほど、私は無神経じゃない! なんでアレクは――……っ、」
言い返しているうちに、心の中でずっと燻っていた感情に火がつく。
「いつも人のことばかり心配するのよ! ディハルトに襲われた時だって、私を王都から逃した時だって、ついさっきだって――……っ、それがアレクの優しさの顕れだっていうのは分かっているし、アレクが私のことを大切に想ってくれる気持ちも嬉しいって思う。
でもそれを優先するがために、アレクが何度も危険に曝されるのを見るのは嫌だよ。自分を庇ったせいで、アレクが苦しむ姿を見るのは嫌なの。だからもっと自分のことも大切にしてよ!」
ずっと言えないでいた本心をぶちまけるなり、アレクが目を見開く。
抑えつけていた感情を爆発させたら、張り詰めていた糸までもが、ぷつり、と切れてしまい、我慢していた涙が一気に溢れ出してきた。
こんな風に人前で泣くのは、これで何度目なのだろう、と自分の涙腺の脆さにへこみつつ、涙を見られたくなくて、顔を背けようとして、それよりも一瞬早く、アレクが手首を掴む。
え、と思う暇もなく、掴まれた手首を、ぐいっ、と引っ張られ、体勢を崩した私は受け身を取ることもできないまま、壁に背中を預けて座り込んでいるアレクの懐に顔から突っ込んでいた。
「――……って、いきなり何すんのよ!」
危ないじゃないか! と抗議の声を上げようとして、背中に触れたアレクの手に、力が籠もったかと思ったら、そのまま、息もできないくらい、強く抱き締められてしまった。
あまりに突然のことに吃驚してしまい、一瞬にして、涙がすっこんでしまう。
いつもであれば、純真無垢な女子高生になんてことするんだ! と激しく抵抗するのだが、何かを言うわけでもなく、ただ無言で抱き締めるアレクのことが、逆に心配になってしまい、私は、そろり、と腕を伸ばすと、泣いている子供をあやすように、アレクの背中を、とんとん、と軽く叩いていた。
私のその行動に、ぴくり、とアレクが身じろぐ。
「――……ああ、その……悪かった、」
アレクが口にした言葉は、あまりに短く、何に対して悪いと言ったのか、皆目見当もつかないが、とりあえず、煮え繰り返っていた腸は収まったようだ。
機嫌が戻って良かった、と、ほう、と息を吐いて安心していたら、背中に回していた腕を解いて、私を解放すると、アレクは決まり悪そうに視線を逸らす。
(おお!? 目を逸らしたぞ!?)
何で視線を逸らしたんだ? と不思議に思いつつも、まずはアレクを怒らせてしまった要因――……つまりは私が王都に戻ってきた理由を話さなければ、と思ったものの、あまりにも内容が濃密すぎて、そこに至るまでの経緯を簡潔に纏めるのは、ちょっと難しそうだ。
だからと言って、その全容を一から語ろうとすれば、果てしなく、時間がかかってしまう。
「あのさ、アレク。聞いて欲しいことがたくさんあるんだけれど、ものすごく時間がかかりそうなの」
あれこれ迷ったものの、やはり端折って話すのは無理だと判断して、時間がかかると申告をすれば、途端にアレクはぎょっとしたように目を剥く。
「いやちょっと待て! 確実に長くなる話で、半日も費やしたお前が、ものすごく時間のかかる話をするのか!?」
「うん。でもたぶん二日もあれば、全部話せると思うよ?」
「ふ……二日!?」
いつかどこかで聞いたことのある流れだなあ、と思いつつ、だいたいの時間を伝えれば、アレクはがっくしと項垂れる。
いつもは表情に乏しいのだけれど、今日はいつになく感情が豊かだ。
怒ったり、居心地悪そうにしたり、驚いたり、焦ったり、さっきから忙しなく、くるくると表情が変化していて、これはこれでなかなかに面白いではないか。
これで喜怒哀楽の『喜』と『楽』が揃えば、完璧なんだけどなあ、とそんなことを思っていたら、アレクは片手で額を押さえつけながら、はあ、と盛大に溜め息を吐く。
「分かった。話を聞けばいいんだろう。話を聞けば。こうなったら、お前の気が済むまで、とことん付き合ってやる。だがその前に一風呂浴びて、ふかふかのベッドで、少しだけ眠らせてくれ」
数日間とはいえ、薄暗い牢獄で不自由な生活を強いられ、心身ともに疲れ切っているのだろう。
渋々といった体で答えながら、アレクはおもむろに立ち上がると、打ちっ放しの壁の突起部に、無造作に引っかかっていた愛用のロングコートを引っ掴む。
「起き上がったりして大丈夫なの?」
「ああ、感覚もだいぶ戻ってきたし、もう大丈夫だ」
心配になって声をかければ、アレクが大きな掌を目の前に差し出してくる。
差し出された掌にすぐに反応できず、きょとり、と首を傾げていたら、痺れを切らしたアレクが手首を掴んで、私の身体を引き上げてくれる。
ああ、立てという意味だったのかと思っていたら、行くぞ、と言って、アレクが踵を返す。けれども何かを思い立ったように、こちらを振り返った。
「さっきはいきなり怒鳴ったりして悪かった。それから――……」
そこまで話して、何かを躊躇うように、アレクは口を噤んでしまう。
どうしたのだろう、と思いながらも、アレクが話し出すのを待っていたら、またしてもアレクが視線を逸らした。
一度ならず、二度までも目を逸らすなんて、今日のアレクは、やはりどこか様子が変だ。
もしかしたら、どこかで頭を強く打ったのではなかろうか、と心配になってしまい、やはり医者に診てもらった方がいいのではなかろうかと、そんなことを思っていたら、一度は逸れた視線が戻ってきた。
「ねえ、アレク。どこか具合が悪いのなら、お医者さんに診てもらった方が――……」
どこか様子がおかしいアレクのことを放っておけなくて、医療機関へ行くことを勧めていたら、迷いを振り切るかのように、軽く頭を振ると、何を思ったのか、アレクがこちらへと引き返してくる。
え、いきなりどうしたのだ、と戸惑っていたら、掴んでいた愛用のロングコートを、ばさり、と私の頭に被せたかと思えば、アレクは、そのまま、私の後頭部を、ぐいっ、と引き寄せた。
ついでに肩も引っ張られ、ほとんど無抵抗のまま、ぽすり、と、アレクの腕の中に納まってしまう。
「色々と心配をさせて悪かった。自分を大切にしろなんて、誰かに言われたのは初めてだ。ありがとう、美緒」
突然のことに理解が追いつかず、目をぱちくり、とさせていたら、柔らかいアレクの声が降ってくる。頭に被せられたコートのせいで視界が遮られて、アレクの表情は確認できないけれど、その声色はひどく優しい。
(……ああ、ちゃんと受け止めてくれたんだ)
決して多くを語ろうとはしないけれど、それでもさっき自分がぶつけた気持ちを受け止めてくれたんだと思ったら、何だかものすごく気が緩んでしまって、一度は引っ込んだはずの涙が、ふたたび溢れ出してしまい、結局、頭に被せられたコートを隠れ蓑にして、私はいつまでもさめざめと泣くこととなってしまった。
*
その日の夕方。
子供たちが待つ施設へと戻り、一眠りして、目を覚ました私は、マルティーヌさんが宣告していた通り、飲み薬の副反応に襲われ、約半日ほど、想像を絶する激痛に、のた打ち回ることになった。
この世の災厄が全部降りかかって来たんじゃないか、と思えるくらいの激痛に見舞われ、ベッドの上で転げ苦しむ私を心配そうに見下ろしながら、薬の副反応が収まるまで、アレクはずっと傍にいてくれた。
聞いて欲しいことがたくさんあるの、と言ったそれが叶ったのは、薬の副反応が収まってから、さらに三日が経ってからのこと。
気が済むまで付き合ってやると言っていたアレクは、夜が明けて空が白み始めても、昇り始めた太陽の柔らかな陽が窓から差し込んでも、陽が落ちて暗くなった空に星が瞬き始めても、滔々と語る私の長い長い話に、いつまでも耳を傾け続けてくれた。
*第一章 Fin*