あなたが愛おしくて

​始まりは、編集部の喧騒の中だった。

​千代田区の一角、築四十年に手が届きそうな古い雑居ビル。その三階に位置する文芸編集部は、常に紙の匂いとコーヒーの出がらし、そして誰かの苛立ちが混ざり合ったような、澱んだ空気に満ちている。

窓の外では神保町の古書店街が夕闇に沈み始め、室内の蛍光灯はチカチカと不規則な瞬きを繰り返していた。それはまるで、私の摩耗した神経そのもののようだった。

​「絵里、このゲラ、明日の午前中までに戻しといて」

​副部長の投げやりな声とともに、分厚い束がデスクに放られた。乾いた音が室内に響く。私は「分かりました」と、自分の心さえも機械の一部になったかのような声で答える。

二十代半ば、夢見ていた「言葉を編む仕事」は、いつの間にか、締め切りという名の怪物に魂を切り売りする作業へと変質していた。

​そんな灰色の日常に、不意に光が差し込んだ。

​「少し、根を詰めすぎじゃないですか」

​その声は、ひどく穏やかだった。怒号が飛び交う編集部に、そこだけ凪いだ海のような静寂を持ち込んだかのような、涼やかな響き。ふと顔を上げると、装丁家の今井圭佑がいた。デスクの端に置かれたのは、一本の冷たい缶コーヒー。

​「……今井さん」

​まだお互いに敬語で、適切な距離を保った仕事相手。けれど、打ち合わせを重ねるたびに、私たちは「仕事」という言葉を盾にして、少しずつ互いの境界線を越えていった。

​新宿のバーの片隅、彼は誰にも見せたことがないという孤独を、私にだけ預けるようになった。

「妻は仕事優先で、僕の方を向いてくれないんだ。家の中にいても、僕は透明人間みたいだよ」

その横顔に宿る寂しさを、私は真実だと信じた。

​やがて「今井さん」という呼び方は、二人きりの夜に「圭佑さん」へと溶け、やがて日常の甘えを含んだ「圭佑」へと変わっていった。

私は、彼を呼び捨てにする権利を手に入れた代償として、自分自身の名前を誇ることを忘れていった。

​「離婚する。あと少しだけ、待っていてほしい」

​その言葉を命綱にして、私は二年も日陰の道を歩き続けた。けれど、あの日。十一月の冷たい雨が街を濡らし、湿った空気が肌にまとわりつく午後のことだ。

駅近くの、壁紙が煙草のヤニで黄ばんだ古い喫茶店。

カラン、と乾いたベルの音が響く。先に席についていた圭佑の姿を見つけ、私は雨で冷えた体も忘れて、パッと顔を輝かせた。

​「圭佑! お疲れ様。雨、すごかったね」

​ようやく会えた喜びで、自然と笑顔がこぼれる。濡れた上着を脱ぎながら、今日あった何気ない出来事でも話そうと彼の顔を覗き込んだ。けれど、返ってきたのは、いつもの穏やかな微笑みではなかった。

​「……あ、ああ。お疲れ様。濡れなかった?」

​声に力がない。視線もどこか泳いでいて、私を直視しようとしない。

​「……圭佑? どうしたの、元気ないけど。仕事、忙しかった?」

​心配になって身を乗り出すと、彼はテーブルの上で組んだ自分の指先をじっと見つめたまま、重い口を開いた。

​「……あのさ。妻に、離婚を切り出す話をするって約束、していたよね」

​唐突に切り出された避けていた話題。期待していたはずの言葉なのに、彼の表情があまりに暗くて、心臓が嫌な音を立てた。

​「言おうと思っていたら……赤ちゃんができたって、言われたんだ」

​「え……?」

​思考が真っ白に染まる。耳の奥で、カチリと何かが外れる音がした。

​「赤ちゃん……?赤ちゃんって… 離婚するって、言ってたのに……?」
一瞬で頭の中が真っ白になった。

​絞り出すような私の声に、彼はただ視線を落としたまま、掠れた声で繰り返した。

​「……ごめん。本当に、ごめん」

その謝罪は、これまで積み上げてきた二年の月日を、何よりも残酷に切り裂いていった。

「圭佑は?圭佑は何て応えたの?」

「……絵里とのことは終わりに、したい」

「…本気なの?」

「…」

​怒りよりも先に、激しい嘔気がせり上がってきた。離婚を決意したと言った時の圭佑の顔が何度も脳裏に浮かんでくる。

「良かったね。圭佑の方に向いてくれたんだ…」

​胃の奥から込み上げる不快感を飲み込み、私は頬を吊り上げて、精一杯の笑顔を作った


私は「おめでとう」とだけ言って、テーブルに千円札を一枚置いて席を立った。背後から追いかけてくるはずの足音を、心のどこかで期待していた。けれど、最後まで靴音は聞こえなかった。

それは、連日の激務で誰もがいら立っていた、ある日の深夜だった。
​「……まだ、終わらないんですか」
編集部のデスクで頭を抱えていた私に、缶コーヒーの冷たさが不意に頬を叩いた。

顔を上げると、そこには同じように目の下に隈を作った圭佑が立っていた。
​「絵里こそ。……無理すんなよ。ほら、糖分補給」

​受け取った微糖のコーヒーは、驚くほど冷たかった。
同じプロジェクトを抱え、終電を逃しては二人で朝日を見た。ミスを補い合い、上司の叱責を一緒に頭を下げて耐えた。
​「俺さ……絵里が隣にいてくれると、なんだか戦える気がするんだ」
​帰り道の公園のベンチ。街灯の下でそう言った彼の横顔は、ひどく心細そうで、けれど真っ直ぐに私を求めていた。
彼には家庭がある。知っていた。けれど、深夜のオフィスや誰もいない非常階段で共有したあの熱量は、どんな倫理観よりも本物だと思えてしまった。

​「……私も。圭佑がいない毎日は、もう想像できない」
​重なった手から伝わる体温が、孤独な戦場だった編集部を、二人だけの隠れ家に変えていった。
あの時の彼が浮かべた、壊れ物を扱うような優しい眼差し。
それが今の「ごめん」という枯れた声と同じ男のものだなんて、到底信じられなかった


​どうやって駅まで歩き、どの電車に乗って、どうやって家まで辿り着いたのか、記憶が抜け落ちている。気がつけば真っ暗な部屋の床に座り込んでいた。

スマートフォンの画面は、一度も明るくなることはなかった。彼からの謝罪も、言い訳も、一通の通知さえ届かない。その沈黙こそが、彼の選んだ答えだった。


気がつけば、明かりもつけない真っ暗な部屋の床に座り込んでいた。

​脳のどこかが麻痺したように、感情が動かない。さっき喫茶店で聞いた「赤ちゃんができた」「終わりにしたい」という言葉が、まるで遠い国のニュースか、質の悪いフィクションの台詞のように頭の表面を滑っていく。

「嘘でしょう?」

独り言さえ、乾いていて自分のものではないみたいだ。あまりの衝撃に、悲しみすら湧いてこない。ただ、冷たい指先でスマートフォンの画面を何度も見つめていた。

​もしかしたら、すぐに「さっきのは冗談だ」と、あるいは「やっぱり離れられない」と、一通の通知が届くのではないか。そんな馬鹿げた期待が、辛うじて私を繋ぎ止めていた。

​けれど、一時間、二時間と時が過ぎても、画面は一度も明るくなることはなかった。

鏡のような漆黒の画面に、ただ、呆然と立ち尽くす自分の無様な輪郭が映り込んでいるだけ。

​……ああ、本当なんだ。


​その重苦しい沈黙こそが、彼が選んだ、何よりも残酷な「答え」だった。

彼にとって、私はもう、言葉を尽くして別れを惜しむ価値さえない存在になったのだ。その事実が、鋭い刃となってようやく私の胸の奥深くまで突き刺さった。

​視界が不意に歪んだ。

一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。声を殺して、肺が痛くなるほど泣いた。

暗闇の中で一人、彼と過ごした二年間を、その一晩だけで絞り出すようにして、私はただ床に座り込み、声もなく泣き続けた。

​半年が過ぎた頃にはすでに「彼が奥さんと別れてくれたら」と、夜の底でひとり願うようになっていた。けれど、それを口にすれば、この脆い幸福さえ壊れてしまうのが怖くて、ずっと喉の奥に押し込めていたのだ。

​思考の泥濘と、小さな執着
​床に這いつくばったまま、私は震える手でスマホを強く握りしめた。

泣き疲れて、思考は泥のように濁り、何が正解なのかも分からなくなっていく。ただ、指先が白くなるほどスマホを握りしめていることだけが、今の私をこの世に繋ぎ止める唯一の手段だった。

​不意に、朦朧とした意識の隙間にひとつの懸念がよぎる。
​(……圭佑が、来るかもしれない)
​彼が仕事帰りに突然寄ることもある。

もし、このぐちゃぐちゃな顔のまま、床に転がっている私を見られたら。

そう思った瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。別れると決めたはずなのに、それでも彼に「惨めだ」と思われることだけは、本能が拒絶していた。


​シャワーの熱いお湯で、顔にこびりついた涙の痕と、惨めな感情を無理やり洗い流す。鏡に映る自分はひどく青白く、それでも「彼にだけは見せられない」という意地が、私を辛うじて立たせていた。

​スマートフォンの画面は、期待と絶望を孕んだまま沈黙を続けている。
圭佑からの連絡はない。

​「……もう、無理」

震える手でスマートフォンの画面を叩く。呼び出し音が数回。彼女の声が聞こえた瞬間、せっかく止まったはずの涙が、堰を切ったように溢れ出した。

​『絵里? おつかれ』
​期待を含んだ未知の声に、私は喉の奥を詰まらせながら答える。
​「……終わった。全部、終わっちゃった……」

『え? 何が?何が終わったの?』

​「……赤ちゃん、できたって。離婚、しないって……。私、『おめでとう』って言って、……逃げてきちゃった」
​受話器の向こうで、未知が息を呑む。

​『……は? 何それ。』
​未知の怒鳴り声が遠くで響いている。私は力なくソファに崩れ落ちた。
​「……怖いよ、未知。一人は、怖い……」

​『いい、絵里。今すぐそっち行く。分かった!?』

​「……うん……分かった……」
​プツリ、と通話が切れる。
無機質な電子音だけが残された耳元で、さっきまで隣にいた圭佑の「ごめん」という掠れた声が、呪文のように何度もリフレインしていた。

一時間後、玄関のチャイムが鳴った。

扉を開けると、そこには息を切らせた未知が立っていた。彼女は何も聞かず、ただ私の冷え切った肩を強く抱きしめてくれた。
​その温もりに触れた瞬間、電話では語りきれなかった感情が、濁流のように溢れ出した。

​「……赤ちゃん、できたって……っ、おめでとうって……私、笑って、言っちゃったんだよ……」
​しゃくり上げる声で、断片的な言葉をぶつける私を、未知は何も言わずにただ受け止めてくれた。

​「……離婚するって……信じてた……圭佑のこと、待ってたのに……」
​裏切られた悔しさ、期待していた自分への惨めさ、そして何より、もう二度と彼の手が私に触れることはないのだという絶望。

支離滅裂な私の告白を、未知は「うん、うん」と小さく頷きながら、私の背中を一定のリズムでさすり続けてくれた。

​「……馬鹿だよね、私……っ、………逃げてきたの……」
​溢れる涙で未知の肩が濡れていくのも構わず、私は子供のように声を上げて泣いた。

彼女は決して「忘れなよ」とも「そんな男最低だよ」とも言わなかった。ただ、私の震えが少しずつ収まるまで、その腕を緩めることなく、静かな重みで私をこの世界に繋ぎ止めてくれていた。

​どのくらい時間が経っただろうか。
泣き疲れて、吐き出す言葉も枯れ果てた頃、未知はようやく私の顔を覗き込み、親指で涙の跡をそっと拭った。

​「……全部吐き出した? お腹、空いてない?」
​そのぶっきらぼうな優しさに、また少しだけ、新しい涙がこぼれた。


​「大丈夫、今日は私がずっとここにいるから。もう考えなくていいよ」
​その夜、未知は部屋の隅に小さな明かりを灯したまま、隣にいてくれた。

彼女が立てる微かな衣擦れの音や、穏やかな寝息。それだけが、泥のように濁った私の意識を、少しずつ凪いだ海へと変えていく。

​一人ではない。その事実が、凍りついた心をゆっくりと溶かしていった。


カーテンの隙間から差し込む光が、重たい瞼を容赦なく刺激する。
ゆっくりと目を開けようとするけれど、目やにと熱を持った腫れのせいで、視界が半分も開かない。
​(……ああ、やっぱりダメか)

​指先でそっと触れると、そこには自分でも驚くほどパンパンに膨らんだ皮膚の感触があった。昨日、あんなに冷やしたのに。あんなに必死に抗ったのに。鏡を見なくても、今の自分がどれほど無残な顔をしているか、痛いほど伝わってくる。

​「……おはよ」
​リビングから、未知の控えめな声がした。
私は顔を覆うようにして、のろのろと這い出した。今のこの顔を、一番の親友にさえ見られたくない。

​「まだ……ひどい顔でしょ」
​俯いたまま呟くと、未知が近づいてくる気配がした。彼女は無理に私の顔を覗き込もうとはせず、ただ温かい蒸しタオルを差し出してくれた。

​「いいよ、今はそんなの気にしなくて。誰に見せるわけでもないんだから」
​彼女は私の隣に座り、私の強張った肩にそっと手を置いた。

​「ねえ。その腫れた目はさ、あんたがそれだけ一生懸命、誰かを思って、自分を削って頑張ってきた証拠だよ。恥じることなんて、ひとつもない」
​タオルの熱が、少しずつ瞼の強張りを溶かしていく。

​「腫れが引くまでは、ここにいればいい。仕事だって、そんな顔で行かなくていい。……もう、全部リセットしちゃおうよ。あんたが壊れちゃう前に」
​未知の言葉は、熱を持った瞼に染み渡るように優しかった。

未知の言葉は、熱を持った瞼に染み渡るように優しかった。その言葉に甘えるように、私は二日間の有給を取り、泥のような眠りの中でただ窓の外を流れる時間だけをやり過ごした。

​二日後。鏡の中に映る自分の目は、ようやく本来の形を取り戻していた。赤みは引き、そこには悲しみではなく、乾いた「拒絶」の光が宿っている。
​(……もう、いいんだ)

​そう呟いた瞬間、心の奥で何かが静かに外れる音がした。
圭佑との関係も、無理をして笑っていた仕事場での毎日も。それらすべてを「過去」にするためには、今の居場所を丸ごと捨てるしかない。中途半端に繋ぎ止めているから、苦しいのだ。
​そう確信した私の手は、もう迷わなかった。


デスクに置かれたままの退職願。それは、自分を縛り付けていた鎖を解くための鍵に見えた。
「惨めだ」と思われたくなくて必死に守ろうとしていたプライドも、彼に見せるための顔も、もう必要ない。


スマホの電源を入れ、まずは職場への連絡を入れる。
「体調は落ち着きました。明日から出社します」
短くそう告げる指先は、もう白くなるほど震えてはいなかった。未知が淹れてくれた温かいお茶の残り香が、まだ部屋に漂っている。リセットボタンを押した私の心は、驚くほど静かだった。

二日間の有給休暇という「聖域」が終わり、私は再び編集部の重い扉の前に立っていた。

​朝の光を浴びるエントランス。まだ少しだけ熱を持っている瞼を、いつもより念入りなメイクで隠す。鏡に映った自分の目は、少し重たげに見えたけれど、その奥にある意志だけは誰にも侵されないほど静かだった。
​(……大丈夫。もう、決めたんだから)

​深く息を吸い込み、カードキーをかざす。ピッという無機質な音が、終わりの始まりを告げた。

​編集部内は、慌ただしさに包まれていた。
電話のベル、キーボードを叩く音、ゲラをめくる音。以前の私なら、その喧騒の一部になろうと必死に足並みを揃えていただろう。

けれど今は、その光景がどこか遠い世界の出来事のように感じられた。

​私は自分のデスクに鞄を置くと、ルーチンの業務には手をつけず、真っ先に編集長のデスクへと向かった。
​胸のポケットには、昨夜、未知に見守られながら書き上げた一通の封筒。
指先に伝わる紙の感触が、不思議と私を落ち着かせてくれた。

​「編集長。今、お時間よろしいでしょうか」
​忙しなく画面を睨んでいた編集長の手が止まる。
「何? 進行の相談?」
​「いえ。仕事のお話ではありません」
​私は迷うことなく、真っ白な封筒を差し出した。

誰の顔色を伺う必要も、期待に応えようと自分を削る必要も、もうない。
​「一ヶ月後をもちまして、退職させていただきます」
​その瞬間、周囲のノイズがふっと遠のいた気がした。

驚きに目を見開く編集長の顔も、遠くで鳴り続けている電話の音も、今の私にはどうでもよかった。
​腫れぼったい瞼の奥で、私はようやく、自分自身の人生の主導権を握り直した。


編集部のデスクに戻った私を待っていたのは、腫れぼったい瞼を気遣う言葉ではなく、今井さんの「不在」を告げる上司の不可解そうな顔だった。
​「おはよう。体調はもういいのか? ……ところでさ、今井さんのことなんだけど」

​私は書類を整理する手を止めず、鏡の前で何度も練習した、感情の読めない顔で聞き返した。

「……はい。おはようございます。何かあったんですか?」
​「いや、『急に案件が重なって忙しくなったから、自分はもうそっちの担当には行けない。代わりの人間を行かせる』って言い出したんだよ。

……お前ら、何かあったのか? あんなに熱心に通ってたのに、急に『行けない』なんて不自然じゃないか」

​「行けない、ですか」
​私は、心臓が嫌な跳ね方をするのを悟られないよう、ゆっくりと上司に顔を向けた。

わずかに小首をかしげ、純粋な疑問だけを瞳に宿して。
「さあ……。今井さんのご都合までは、私にはわかりかねます」

​「でも、あんなに急にだよ? 心当たり、本当にないのか?」

​「ないです…」
​食い下がる上司の視線を、私は淡々とはねのけた。それ以上、彼の名前を口にすることさえ拒むように。


「…あ、この校正、今日中ですよね? 先に進めていいですか。新しい担当の方への引き継ぎ準備もありますし」

​突き放すような私の態度に、上司は「なんだ、拍子抜けだな」とでも言いたげに肩をすくめて離れていった。

​(……忙しいから、行けない、か)
​彼らしい逃げ方だと思った。「忙しい」という大義名分を盾にして、私と物理的に顔を合わせる可能性を完璧に遮断する。そうすれば、ボロボロになった私を見ることも、自分の罪悪感に触れることもなくて済むから。


​けれど、今の私にとってそれは、この上ない「清算」のチャンスだった。
彼が私の世界から、自分の存在をこれほどまでに徹底して消してくれたのなら、好都合だ。


圭佑が「忙しくて行けない」と言い出し、代わりに他のスタッフを寄越すようになってから、編集部の空気は奇妙な静寂に包まれた。
​「……おはようございます」

​朝、私がデスクに座る。かつてなら、コーヒーの香りと共に彼がひょっこり現れ、「昨日のあのカットさ」と声をかけてきたはずの時間。今はただ、隣のデスクが吐き出すパソコンの排気音だけが、虚しく響いている。

​同僚たちは、時折、私と圭佑の「不在」を繋ぎ合わせようと、探るような視線を送ってきた。
「絵里、今井さんから何か聞いてる? 『荻野さんが辛いだろうから、別の担当を行かせる』って、彼、編集長に言ってたらしいけど……」

​私はそのたびに、完璧なまでに無味乾燥な微笑を浮かべてみせた。
「いいえ、何も。今井さんもお忙しいんでしょう。」
​その「とぼけ」は、自分を守るための鎧であり、彼への最後の手向けでもあった。

心の中では、毒を吐き捨てていた。
(辛いだろうから? ……笑わせないで。あなたはただ、ボロボロになった私を見て、自分の加害性を突きつけられるのが怖かっただけでしょ)

​彼が他の人間を「盾」にして作ったその空白は、いつしか私の「聖域」へと変わっていった。
​夜、未知と電話で話す時間が、唯一の解毒剤だった。

「あいつ、徹底して逃げてるね。他の人間を壁にするなんて、もはや執念だよ」
受話器の向こうで未知が笑う。

「……でも、おかげで目が腫れる暇もないよ。毎日、淡々と荷物をまとめてる」
「いいよ。その調子。あんたの物語から、あいつをモブ(端役)に降格させるの」

​退職まで残り一週間。
私は、デスクの引き出しの奥に残っていた、彼がくれた付箋の束をゴミ箱へ落とした。

「惨めだと思われたくない」と、爪が食い込むほど握りしめていた自尊心。それを捨てた瞬間に訪れたのは、絶望ではなく、驚くほどの「軽さ」だった。

​もう、彼のためにメイクを直す必要もない。
彼がフロアのどこかにいる気配を感じても、心臓は凪のように静まり返っている。

​(ありがとう、圭佑。あなたが逃げてくれたおかげで、私は一度もあなたと目を合わせることなく、この部屋から自分を消し去ることができるわ)

​窓の外では、季節が少しだけ進もうとしていた。
かつて圭佑と見上げた夜景も、今はただの光の羅列にしか見えない。


最終日、空になったデスクを撫でる指先が、微かに震えていた。
周囲には「新しいステップアップのために」と微笑んで見せたけれど、本当は、このフロアのどこかに漂う彼の気配を吸い込むだけで、肺の奥が焼けるように痛かった。

​圭佑が「荻野さんが辛いだろうから」と、他の人間を間に立てて自分を遠ざけたあの時、本当は叫びたかった。
「勝手に決めないで。私の痛みも、私の恋も、あなたが勝手に解釈して終わらせないで」
​けれど、私はとぼけ続けた。

彼が「忙しいから行けない」と嘘をついて逃げたのなら、私はその嘘に、最高の演技で応えてあげようと思った。それが、圭佑に対して私ができる、最後で最大の「拒絶」だったから。
​(……好きだよ、圭佑。会いたいよ…まだ、全然消えてくれない)

​引き出しの奥、彼と一緒に校了したゲラの切れ端を、誰にも見つからないように握りしめる。
彼に会わないこの一ヶ月は、彼を忘れるための時間ではなく、「彼を想ったまま生きていく自分」に絶望しないための、リハビリのような時間だった。

​「お疲れ様でした」
​静かに編集部を後にする。

エレベーターの鏡に映る自分の目は、もう腫れてはいない。けれど、その奥にはまだ、彼との記憶が澱(おり)のように沈んでいる。

​この街にいたら、いつか偶然、彼とすれ違ってしまうかもしれない。
あの横顔を、あの声を、どこかの雑踏で見つけてしまったら、積み上げてきた「とぼけ」が、一瞬で崩れ去ってしまう。

​だから、私はこの街を捨てる。
明日には、彼の手の届かない、彼を知る人のいない遠い場所へ、荷物を送り出す。

​駅の改札。待っていた未知が、私の強張った肩をそっと抱き寄せた。

「……引っ越し、準備終わった?」
​「うん…。」
​そう答える声が、少しだけ震えた。

想い続けているからこそ、離れなければならない。
愛しているからこそ、二度と会ってはいけない。
​夕焼けに染まる駅のホーム。
私は一度も振り返ることなく、今井圭佑という物語が綴られたこの街を、置き去りにした。



引越し当日、ガランとした部屋は驚くほど広く、自分の足音だけが空虚に響いた。

彼が不意に訪ねてきては、私の仕事の邪魔をしながら笑っていたあのソファも、今はもうない。

​鍵を不動産屋に返し、そのまま新居へ向かう電車に揺られた。

街の景色が、彼と過ごした馴染みの風景から、全く知らない無機質な街並みへと塗り替えられていく。

​たどり着いた新居は、まだカーテンすら掛かっていない、寒々しいアパートの一室。

窓を開けると、春を拒むような冷気が容赦なく流れ込んできた。

​段ボールの山に囲まれた部屋で、私はようやく床に腰を下ろした。

膝の上で光るスマートフォンの画面。そこに浮かぶ『今井圭佑』の名前を指先でなぞり、ようやく私は削除ボタンを押す事ができた。

​もし、あの妊娠が彼の嘘だったとしてもあるいは、本当に彼が家族を選んだのだとしても。もう、どちらでもいい。彼を失うことより、彼を信じていた自分自身を失うことの方が、ずっと、ずっと怖かった。

名前の消えた画面が、鏡のように今の私の顔を映し出す。泣いてもいない、ただひどく疲れ切った、見知らぬ女の顔だ。

​始まりは、そんな絶望のどん底からだった。後に私の世界を変える「静寂」の主が、すぐそばまで来ていることなど、当時の私は知る由もなかった。







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