あなたが愛しすぎて…
段ボールの山がまだ部屋の隅に積み上がったままの、新しい生活。
窓から差し込む光は以前の部屋より少しだけ明るいけれど、空っぽの空間に響く自分の足音には、まだ慣れることができなかった。
そんな私を、未知は強引に連れ出してくれた。
「あんた、このままじゃミイラになっちゃう! 強制的にデトックスよ!」
そんな誘いに、重い腰を上げたのが土曜の午後。正直、慣れない仕事と慣れない環境に疲れていて家でじっとしていたかったけれど、彼女の勢いに抗うのは最初から諦めていた。向かった先は、土曜日特有の熱気で賑わう街。
結局、両手いっぱいに買い物袋を下げているのは未知の方で、私はただ彼女の横を歩いていただけだった。
けれど、ショーウィンドウの明るい色や、通り抜ける風、そして彼女のとりとめのないお喋りが、いつの間にか私の中に溜まっていた澱を少しずつ流してくれたみたいで、「来てよかったかも」と帰り道にふと思えた。
自分では何も買わなかったけれど、心の中には新しい空気が満ちている。
夕暮れの光が、明日へのわずかな期待を映し出すように街を染めていた。駅へと向かう足取りが、いつになく軽やかだ。
そんな心地よい空気の中、隣を歩く未知が「基樹のいとこの家、寄っていい?絵里が今行ってる会社の近くなんだけど、基樹が3人でご飯行こうって。」と切り出した。
乗り込んだのは、私が平日の朝、重い足取りで揺られているあの路線だ。休日までこの電車に乗るなんて、少しだけ複雑な気分になる。
けれど、断る理由はなかった。どうせ真っ直ぐ家に帰ったところで、待っているのは一人の時間だ。それならばと、私はその誘いに「いいよ」と頷いた。
車窓を流れる景色は、私にとって「仕事」そのものだ。次を告げるアナウンスが、いつも通りオフィスの最寄駅を呼ぶ。
「……休みの日まで、この駅に降りることになるとは思わなかった」
「あはは、ごめんね。でも駅の反対側はあんまり行かないでしょ? ちょっと入り組んだところにあるんだよ」
改札を抜け、いつもならオフィスビルが立ち並ぶ出口へ向かう人の波を横目に、今日は未知の後に続いて、普段は決して使わない方の出口へと向かった。
駅前の喧騒を背に、入り組んだ路地の奥へと進む。
毎日、時間に追われながら通り過ぎていた表通りのすぐ裏側に、こんな場所があったなんて。そこには使い込まれた道具の匂いや、削られた素材の香りが微かに漂う、どこか厳かな空気を纏った建物がひっそりと佇んでいた。
「ここが、基樹のいとこの家だよ」
先に立って中へ入っていく未知の、その後ろ姿を追いかける。
「いらっしゃい」
作業場の奥から、作業着が似合う雰囲気を漂わせた基樹君が顔を出した。
「基樹君、ここ……本当に駅からすぐなんだね。毎日、向こう口のビルで働いてるのに、全然知らなかった」
「あはは、そうだよね。こっち側は古い建物が多いし、表通りからは死角になってるから」
毎朝、仕事に向かうために慌ただしく通り過ぎる改札。疲れ果てて降り立つ夜のホーム。
殺伐とした私のビジネス街のすぐ隣に、大切な友人たちの繋がりが、息を潜めるようにして存在していた。
明日からは、いつもの駅のホームから見えるこの路地の方向を、少しだけ優しい気持ちで眺めてしまいそうだ。
ふと見ると…
基樹君の背後、濃い影が落ちる作業場の闇から、音もなく、まるですーっと溶け出すようにして一人の男性が姿を現した。
それが、章男さんだった。
作業灯の淡い光の下、彼が纏(まと)う静謐(せいひつ)な空気は、まるでその場の時間さえも止めてしまったかのようだった。
基樹君の後ろから音もなく現れたその佇まいに、私は思わず息を呑んだ。未知と過ごした華やかな買い物の余韻が、彼の放つ独特の存在感によって、静かに、けれど深く塗り替えられていくのを感じていた。
「あ、いとこの章男。こっちは未知の友達の絵里ちゃん」
基樹君の紹介を受け、私は思わず息を呑んだ。
「……背の高い人」
見上げたその姿に、なぜかひどく懐かしい心地が胸に満ちた。「初めまして、荻野です。あ、荻野絵里です。」と頭を下げた私を、章男さんは真っ直ぐに見つめた。戸惑いも同情もなく、ただ透き通った光で。
けれど、私の奥にある「影」を、無理に背筋を伸ばしている歪な振動を、彼は残酷なほど鮮明に読み取っているようだった。
彼は隣に立つ基樹君の肩を軽く叩くと、掌をひらりと動かして工場の奥へと消えていった。扉が閉まる乾いた音が、夕暮れの空気に冷たく響いた。
章男さんの背中が見えなくなると、作業場に充満していた張り詰めた空気がふっと緩んだ。けれど、私の心臓の鼓動はまだ速いままだ。
「……なんか、不思議な人だね」
私が絞り出すように言うと、基樹君は「あはは、驚かせてごめん」と頭をかいた。
「章男さ、耳か聞こえないから態度で示しちゃうタイプなんだよ。でも、絵里ちゃんのこと拒絶してるわけじゃないからさ」
基樹の弁明は、湿った夜風に混じって消えた。私たちは逃げるように駅への道を急ぎ、路地裏にぽつんと灯る赤提灯の暖簾を割った。章男の家に漂っていた、あのひりつくような沈黙の残響を、酒と喧騒でかき消したかった。
だが、店内の喧騒に身を置いても、私の奥にある歪な振動を見透かされたような戦慄は消えなかった。それは数日が過ぎ、日常に戻ってもなお、胸の奥に澱のように残っていた。
だからこそ、今の私には「無心になれる時間」が必要だった。編集部時代のような、作家の機嫌を伺い、締め切りに追い回される殺伐とした日々を捨てて選んだ、中規模商社。
そこでの事務作業は、以前の私なら「単調すぎる」と切り捨てていたかもしれない。けれど、今の私には、この泥臭い忙しさが何よりの救いだった。
「荻野さん、ごめん。システムへの入力データ、先方の形式に合わせて修正が入っちゃって。これだけ今日中にインポートし直しておいてもらえる?」
「あと、明日の会議用の共有フォルダ、追加の資料アップしておいたから。各メンバーのタブレットで同期されてるか確認だけお願い」
時計の針は17時を回ったところだった。定時で上がれる日も多いが、週に二、三度はこうして、突発的なデータの修正や管理作業が重なる。
蛍光灯の白い光の下、私は無心でキーボードを叩いた。隣のデスクでは先輩が、ワイヤレスイヤホンでWeb会議をしながら、チャットツールで次々と指示を飛ばしている。
かつての私なら、こうした「名もなき残業」に焦燥を覚えていただろう。けれど、今の私には、この適度な疲労が心地よかった。手を動かし、次々とタスクを完了させていく。余計なことを考えなくて済むその時間は、擦り切れた心にとっては何よりの良薬だった。
19時。ようやくオフィスを出ると、外の空気は不気味なほど重たい鉛色に沈んでいた。
今朝、玄関に立てかけた傘を持たずに家を出たことを、私は激しく後悔していた。
駅までは歩いて10分。本降りになる前に駆け抜けようとした瞬間、空が割れたかのような、情け容赦のない豪雨が叩きつけられた。
「……っ!」
一瞬でブラウスが肌に張り付く。冷たさが体温を奪っていく。
激しい雨音に包まれながら、避難する軒下を探して荒い息をつくと、不意に、あの呪縛のような記憶が蘇った。
雨の日、改札で待っていてくれた圭佑。
何も言わずに大きな傘を差し出し、凍えた私の手を自分のコートのポケットに引き入れてくれた。
『絵里は、僕がいないとダメだね』
あの時感じた、独占欲を満たしてくれる、どこか傲慢で甘い体温。
あんなに温かかったのに。あんなに信じていたのに。
思い出したくないのに、雨の冷たさが暴力的に記憶を呼び覚まして、涙が溢れそうになる。もう涙も出ないと思えるくらい泣いたのに…私は、圭佑を失ったこと以上に、彼を信じていた自分自身の「空虚さ」に打ちひしがれていた。
このまま駅に向かい、一人きりの部屋に帰ることを想像して、足がすくんだ。
静寂の中で雨音を聞けば、嫌でも彼との記憶が蘇るだろう。あの部屋の壁も、空気も、鏡に映る自分さえもが、私の愚かさを責め立てる気がして、どうしても帰る勇気が出なかった。
今の私に必要なのは、私を憐れむ親友でも、心配する家族でもない。私の絶望なんてこれっぽっちも知らない、ただの「他人」の気配だった。
気づけば、駅の反対口へと足が向いていた。一度しか会ったことのない、章男の家。
彼なら、私がなぜずぶ濡れなのかも、何に傷ついているのかも問わないだろう。その無関心さが、今の私には唯一の救いに思えた。
震えながら走る視界の先に、あの土曜日、未知に連れられて訪れた時と同じ、半分閉まったシャッターの隙間から漏れる光が見えた。
私は逃げ込むように、その微かな光へと手を伸ばした。一人で凍える夜から逃れるために。
その時だった。
重たい金属が擦れる「ガラガラ……ッ」という音が響いた。
驚いて見上げると、シャッターが勢いよく押し上げられ、そこには作業灯のオレンジ色の光を背負った、章男さんが立っていた。
逆光の中で立つ彼の姿は、まるで迷い込んだ私を静かに掬い上げるために現れた、異世界の住人のようだった。
彼は何も言わなかった。ただ、以前会った時と同じ、凪いだ海のような瞳で私を真っ直ぐに見つめていた。
目の前に立つずぶ濡れの私を見て、章男さんは目を見開いて驚いた様子だった。そして濡れた服と、寒さに震える指先に視線を落とした。
言葉はなかった。彼はただ、右手のひらを下に向けて、上から降り注ぐ雨を表現するように指をヒラヒラと動かした。それから傘を差すような仕草をして、首を少し傾けて見せる。
「……傘、持っていなくて」
声にならない私の唇の動きを拾うよりも先に、彼の真っ直ぐな眼差しが「大丈夫?」という気遣いとなって届く。私は一瞬戸惑い、彼の手の動きをなぞるように、おぼつかない手つきで雨のジェスチャーを真似てみた。そして、力なく首を横に振る。
その答えを見た章男さんは、弾かれたように部屋の奥へと戻った。すぐに戻ってきた彼の手には、メモ帳とペンが握られている。
『雨すごいけど、傘持っていないの?』
急いで書き殴られた文字が、目の前に差し出される。私が小さく頷くと、彼は一瞬躊躇したが、すぐに安心させるような微笑を浮かべ、空いた手で「おいで」と手招きをした。
促すような優しい眼差しが、「中へ」と語りかけていた。
恐る恐る足を踏み入れると、章男さんはシャッターを下ろし、ストーブの前へと私を導いた。「待って」と掌を向けるジェスチャーを残して彼が奥へ消えると、すぐに真っ白なタオルと一本の傘を持って戻ってきた。
彼はまずタオルを、まるでおまじないでもかけるように、私の頭の上からふわりと被せた。
「……えっ」
驚いて顔を上げると、至近距離に彼の瞳があった。一瞬だけ視線が合ったあの日よりも、ずっと深くて、穏やかな色。
彼は、私の肩が小刻みに震えているのに気づくと、痛ましそうに少しだけ眉を下げた。それから手に持っていた、持ち手が使い込まれた木製の、落ち着いた紺色の紳士傘を差し出した。
『風邪をひくから、タオルで拭いて、傘持っていって』
差し出された文字の温度が、タオル越しに伝わってくる。その傘を受け取ると、ずっしりとした重みが、今の私の心細さを支えてくれるような気がした。
けれど、どうしても足が動かない。オレンジ色の光の中から、またあの孤独な雨の中へ戻るのが、怖くてたまらなくなってしまった。
圭佑と別れたあの日から自分に嘘ついて強がって
いたのにこの人の前だと強がらなくても受け入れてもらえる気がした。
「……あの、もう少しだけ、ここにいてもいいですか?」
雨音に混じって消えてしまいそうなほど小さな声だった。章男さんは一瞬、不思議そうに瞬きをした。ずぶ濡れで震える私を、蛍光灯の光とストーブの炎が照らし出す。私の瞳は、雨粒か涙かわからないくらいに、潤んでしまっていた。
彼は再びメモ帳を手に取ると、今度は少し丁寧に、落ち着かせるような筆致で書き込んだ。
『温かいお茶を淹れるから、待ってて』
その文字を読み、私は今日初めて、心の底から深く息を吐き出すことができた。
そこへ、奥の階段からトントンと足音が響く。
「章男、まだ仕事……あらっ! お客さん?」
降りてきた女性——章男さんのお母さんは、入り口に立つ私を見て驚きに声を上げた。章男さんはすぐにお母さんの方を向き、素早い手つきで手話を繰り出す。真剣な表情で何かを伝えている彼を見て、お母さんの表情がパッと明るくなった。
「ああ、未知ちゃんお友達の、絵里ちゃんね! こんばんは」
「えっ……?」
お母さんが名前を呼んでくれたこと以上に、章男さんが私の名前を覚えていてくれたことに衝撃を受けていた。あの日、ほんの一瞬挨拶を交わしただけなのに。口には出さなくても、彼は私のことを認識してくれていた。その事実が、胸の奥をじんわりと温めていく。
「あ、はい……お邪魔しております」
「まあ、そんなに濡れちゃって。章男、お風呂できてるから、準備してあげなさい」
「絵里ちゃんは、お風呂で温まったら一緒に夕飯食べていって」
「い、いえっ! あの、本当に雨宿りさせていただいただけなので! す、すぐ、失礼しますから!!」
「あら、そんな濡れた格好で帰ったら風邪をひいちゃうわ。乾かしておいてあげるから。章男、何か着れそうな服持って来て。絵里ちゃんには、サイズは大きいかもしれないけど、これ以上濡れたままでいちゃダメよ」
「でも、そこまでしていただくわけには……」
「いいのよ、遠慮しないで。章男、お風呂沸いてるから、 案内してあげなさい。」
お母さんの、まるで嵐のような勢いに押されるようにして、私は脱衣所へと連れて行かれた。
章男さんがテキパキとお風呂の準備をしてくれている間、申し訳なさで縮こまっていると、お母さんがひょいと脱衣所の入り口から顔を出してくれた。
「絵里ちゃん、これ私のだけど、化粧水使ってね。ドライヤーもそこにあるから」
「ありがとうございます。……お風呂、お借りします」
お母さんに案内され、脱衣所でひとり一息ついた、そのあとだった。
控えめなノックの音が、ドアの向こうからした。
少しだけドアを開けると、章男さんが照れくさそうにネイビーのスウェットを差し出していた。
「これ、洗濯したてだから。……俺のだけど、よかったら使って」
見ると、畳まれたスウェットの胸元に、小さな付箋が貼ってある。
そこには『サイズ、大きいかもしれないけど』と、彼らしい少し角ばった丁寧な字も並んでいた。
「あ、ありがとう……」
ドアを閉めたあと、そのメモをそっと指でなぞってみる。直接言うだけじゃ足りなかったような彼の気遣いが見えて、胸の奥が温かくなった。
受け取ったスウェットからは、章男さんの家の洗剤の匂いがした。
それを持って浴室に入ると、湯気と一緒に温かい香りが全身を包み込む。
湯船に肩まで浸かりながら、ついさっき貸してもらったスウェットの感触を思い出す。
(……章男さんの、ちょっと大きいんだろうな)
そんなことを考えたら、お湯のせいだけじゃない熱が、じわじわと頬に広がっていくのがわかった。
湯船の熱がじんわりと芯まで染み渡り、強張っていた肩の力がゆっくりと抜けていく。冷え切っていた体が物理的に解けていくのと同時に、心に溜まっていた澱(おり)のようなものも一緒に溶け出していく気がした。
風呂上がり、借りたばかりのスウェットに袖を通す。
少し長めの袖口からは、清潔な柔軟剤の香りがふわりと立ち上がった。それは、先ほどまで隣にいた彼の、静かで凪いだ空気そのものを纏っているかのようで。
大きめのサイズ感が、今の自分を優しく守ってくれているような錯覚を覚えた。
「……不思議だな」
ついさっきまで、圭佑のことを思い出しては、胸が締め付けられるような痛みと涙が止まらなかったのに。
あんなに孤独で、凍えそうだったはずの心が、今は借り物の衣類のぬくもりと、彼のさりげない気配に包まれて、嘘みたいに穏やかな温度を取り戻している。
悲しみが消えたわけじゃない。けれど、この静かな優しさに身を委ねている今の自分は、きっともう大丈夫だと思える。そんな確信に近い温かさを噛み締めながら、私は静かにリビングへと戻った。
リビングへ向かうと、食卓には大皿が並び始めていた。
「さあ、冷めないうちに食べて。大したものは用意できなかったけれど」
「あ、何かお手伝いすることはありませんか?」
私が声をかけると、お母さんは「いいのよ、座ってて」と優しく制した。「絵里ちゃん、その格好とても似合ってるわ。少し大きいけれど、可愛らしいね」と目を細めるお母さんに、私は顔が熱くなる。
ぶかぶかの袖をぎゅっと握りしめると、隣に座った章男さんが、湯気の立つお皿を私の前へと静かに引き寄せてくれた。
手話がわからない私のために、彼はときどき手を止めては、メモ帳に言葉を書き記してくれる。
メモ越しの会話は、声による会話よりもずっと時間がかかる。けれど、その「空白の時間」こそが、相手を想い、言葉を選ぶための贅沢な時間であることを、私は初めて知った。
『口に合うといいんだけど、母さんの料理、』
「……すごく美味しいです。体が温まります」
外はまだ雨の音が響いていたけれど、明るいリビングは温かな料理の匂いと、メモを通じて交わされる静かな言葉たちで溢れていた。
夕食を終え、お母さんと一緒にお皿を拭く。
「章男があんなに甲斐甲斐しく誰かのお世話をするなんて、あんな顔、初めて見た気がするわ。またいつでも遊びに来てね、お節介しちゃってごめんなさいね」
背後からかけられたその温かな言葉に、張り詰めていた心の糸がふっと緩むのを感じた。
「はい。ありがとうございます……」
そう答える声が、自分でも驚くほど震えていた。
借りていた部屋で自分の服に着替え終えると、私は脱いだスウェットを丁寧に畳んだ。彼の匂いが微かに残るその柔らかな布地をそっと抱きしめるように持ち、私は一階へと続く階段を下りていく。
一段、また一段と下りるたびに、工場の方から微かな物音が聞こえてきた。
一階に降りると、そこにはいつもの彼がいた。けれど、さっき言われた言葉が耳の奥でリフレインする。私に向けてくれた、あの献身的で、どこか必死ささえ感じさせた彼の表情。
「あの……これ、洗濯してお返したいので、一度持ち帰ってもいいですか?」
おずおずと差し出すと、彼は『自分で洗うから大丈夫』とメモに書き、そのまま新しいページにペンを走らせた。
『駅まで送る。危ないから』
断る間もなく、彼はドアを開けた。
外はまだ、しとしとと雨が降り続いている。一本の大きな傘に、二人で入る。章男さんは、私が濡れないように、さりげなく傘をこちら側に傾けてくれていた。彼の右肩が雨に濡れているのが見えて、申し訳なさと、それ以上の温かさがこみ上げる。
歩調を合わせてくれる彼の横顔を、私は盗み見るように眺めた。お母さんの言葉が耳の奥で繰り返される。
一本の大きな傘の下、肩を並べて歩く。隣に彼がいて、私の歩幅に合わせて歩いてくれている。それだけで、もう十分だった。
駅のロータリーに到着すると、章男さんは静かに足を止めた。彼は傘を私に預けるように持たせると、ポケットからあのメモ帳を取り出した。
かじかんだ指先で丁寧にペンを走らせ、書き終えたページをそっと見せてくれる。
『夕飯に付き合ってくれて、ありがとう』
連絡先も、次の約束もない。けれど、その言葉の裏側にある純粋な体温が、紙を通して伝わってくる。私はただ、その誠実な瞳をじっと見つめ返し、深く頷いた。
「こちらこそ、本当に……ありがとうございました」
章男さんは、ホッとしたように目元を和ませると、一度だけ深くお辞儀をした。私が傘を返そうとすると、彼はそれを拒むように、もう一度私の頭上へ傘を押し戻した。
「でも、章男さんが濡れてしまいます……」
私の震える声を遮るように、彼は軽く片手を挙げる。何事かを手で素早く形作ったが、今の私にはその意味を読み取ることができなかった。
彼はそのまま、銀色の壁のような雨の中へ、迷いなく駆けだしていった。
改札を抜けても、手のひらには傘の柄を通した彼の熱が残っている。瞼の裏には、あの一行の言葉が、消えない火傷のように焼き付いていた。
(また、会いたい……)
そう願う自分の気持ちに、驚くこともなかった。数時間前まで背負っていた孤独も、冷たい雨の感覚も、もうどこにもない。
ただ、彼が貸してくれた紺色の傘の重みと、胸に残った温かな言葉。それだけが、雨の夜道を歩く私を、優しく包み込んでいた。
彼が最後に残した手話が「大した雨じゃない」という強がりだったことに、私が気づくのは、もう少し先のことだった。