世界で一番、透明な私へ。 〜二色の花が咲く場所〜
第10章
それぞれの色が、輝く場所
アトリエに通い始めてから、半年が過ぎた。
あの日、初めてドアを開けたときの緊張は覚えているし胸を締め付けた不安が、遠い記憶のように感じられる。 秋の深まりを感じる十月下旬、アトリエ主催の小さな展覧会が開かれることになった。
テーマは【自分の色を信じて】——半年間、私が少しずつ重ねてきた色と、心の層そのものを表すような、今の私に優しいテーマだった。
先生から明梨さんも出してみない?と声をかけられたとき、私は一瞬、考えた。
だけど蒼太くんが「絶対いい作品になるよ。一緒に出そう」と、目を細めて笑顔で背中を押してくれた。その温かい言葉と、信頼に満ちた眼差しが、私の迷いを優しく確実に溶かしてくれた。 半年間のレッスンで重ねてきた色が、私を少しずつ強くしてくれていた。
「はい、出します。出したいです」
私は深呼吸をして、勇気を出して何枚か出すことにした。
「良かった。じゃあ、申し込んでおくから頑張りましょうね」
展覧会当日、アトリエのギャラリーは柔らかな秋の光に満ちていた。 白い壁に作品が丁寧に並べられ、床には淡い木の香りが漂っている。高い天井から差し込む柔らかな自然光が、キャンバス一つひとつを優しく照らし、まるで作品が静かに息づいているようだった。
秋の風が窓の隙間からそっと入り、軽やかなカーテンの揺れが、部屋に穏やかなリズムを刻む。 訪れる人は意外に多く、近所の家族連れや同じアトリエの生徒たち、先生の知り合いなどが静かに作品を眺めていた。足音が控えめで、時折交わされる小さな感嘆の声や、ささやき合いが、ギャラリー全体に温かな余韻を残していた。
私の作品は、入り口から少し奥の壁に飾られていた。
メインは『二色の花が咲く場所』の大きなバージョンと、新しく描いた『虹の向こう側』。 後者は、川辺で蒼太くんと一緒にスケッチした日の記憶を基に描いたものだった。
黄金色の花と青い花の上に、淡い七色の虹がかかっている。二つの色が、虹の光を受けてさらに輝いているように見える。花びらの端に残る紫の影が、過去の痛みを優しく包み込みながらも、しっかりと根を張っている様子を表現していた。
虹の色は、薄く何層にも重ねた水彩で、透けるような透明感を出した。描いている最中、何度も胸が熱くなり、涙がにじみそうになった記憶が蘇る。
私は作品の前に立ち、胸の奥が熱くなるのを感じていた。 みんなが私の絵を見てくれていることが嬉しい。
あの頃の私は、こんな風に自分の作品を堂々と飾れる日が来るなんて、想像もしていなかった。影の中に隠れ、誰かの視線を恐れて下を向いていた私が、今、こうして光の中に立っている…… 達成感と、ほんの少しの不安が混ざり合い、目頭が熱くなった。
指先が微かに震えるが、それはもう恐怖ではなく、静かな興奮と誇らしさだった。
半年間、毎週のようにアトリエに通い、蒼太くんと隣で筆を動かし、先生の優しいアドバイスを受けながら積み重ねてきた時間——すべてが、この一瞬に凝縮されている気がした。
隣に立っていた蒼太くんが、小さな声で言った。
「やっぱり明梨さんの作品、すごく目立ってるよ。 特にこの虹の色……あの日一緒に描いたときの空に、すごく似てる。光と影のバランスが、すごく美しい。君の青が、ますます深みを増してるね」
私は少し照れながら頷いた。頰が熱くなるのを感じる。
「明梨さんの絵はまるで月みたいだね」
「え、月?」
「そうだよ、明梨さんの絵は道標みたいだから。太陽は強い光を放つでしょ。それだと……一部の人には眩しすぎるんだ。だけど、明梨さんは優しい光の月明かり ですぐそばでみんなを暗闇から導いてくれる。だから月。優しいお月様」
お月様……
「私ね、蒼太くんと一緒にスケッチして、初めて『自分の色を誰かと共有してもいい』って思えた日なんだ。初めて出会った日も蒼太くんの言葉が、私の青を少しずつ明るくしてくれた。『綺麗だ』って言ってくれたあの日が、私の転機だった」
そのとき、ひかりとお母さんが展覧会にやってきた。 ひかりは白いワンピースを着て、いつものように明るい笑顔を浮かべていた。髪が秋の光に輝き、元気いっぱいに私のところへ駆け寄ってくる。足取りが軽やかで、その姿を見るだけで胸が温かくなった。 お母さんは少し緊張した様子で、私の作品の前に立った。視線がゆっくりとキャンバスを巡り、時折目を細めてじっくりと見つめている。
光梨が最初に声を上げた。瞳を輝かせて。
「お姉ちゃん……すごい! この二色の花、発表会のときよりずっと綺麗になってる。 青い花が、以前より自信を持って咲いてるみたい……。黄金色の花も、優しくて温かくて、まるでお姉ちゃんの優しさがそのまま出てるみたいだね!」
私はひかりの言葉に、胸が熱くなった。喉の奥がじんわりと疼き、言葉が少し詰まる。
「ありがとう、ひかり。 あのとき、ひかりが夜中に一人でピアノを練習してる姿を見て、私も自分の色を信じようって思えたの。 あの日の夜の光梨の背中が、私の勇気の源だった。ひかりの頑張りが、私の青を強く、深くしてくれたんだよ」
ひかりは私の手をそっと握った。 その手の温もりが、とても優しかった。
小さな手のひらが、私の指に絡みつくように温かく、姉妹の絆を改めて感じさせる。
「私も、お姉ちゃんの絵を見て、勇気をもらってるよ。 私はピアノで、お姉ちゃんは絵で……それぞれ頑張ろうね。 もう、お姉ちゃんは私の影なんかじゃない。 お姉ちゃんは、お姉ちゃんでいいんだよ。ずっと、そう思ってた。むしろ、お姉ちゃんの絵は私の音を優しく包んでくれる気がする」
その言葉が、私の胸の奥に深く染み込んだ。 長い間抱えていた劣等感が、静かに、けれど確実に溶けていくのを感じた。目頭が熱くなり、視界が少しぼやける。胸の奥が、じんわりと温かい。
私は、私の色でいい……。 ひかりと並んで、ちゃんと輝けるんだ……。 これからは、互いの色を尊重し合いながら、一緒に歩いていける。
お母さんは少し離れたところから、私たちの会話を聞いていた。 やがて、母さんがゆっくりと近づいてきて、小さな声で言った。声が少し掠れ、感情がにじんでいる。
「……明梨、この絵、本当に美しいわ。 お母さん、ずっとひかりのことばかり追いかけて、明梨の頑張りをちゃんと見てあげられなかった。 ごめんね。 でも、今はちゃんとわかるわ。 明梨の絵には、明梨にしか出せない優しさと強さがある。あの青の深みは、明梨の心そのものね。寂しさや痛みを乗り越えてきた強さが、静かに輝いている。 これからは、もっとちゃんと二人を見守るから……。お母さんも、頑張るわ。家族みんなで、支え合っていこうね」
お母さんの目には、ほんの少し、涙が光っていた。 それは、後悔と愛情が混ざった、複雑で温かい色だった。長い間、無意識に偏っていた視線を、今ようやく正そうとしている母の気持ちが、痛いほど伝わってきた。
私はお母さんの言葉に、胸がいっぱいになった。長年のわだかまりが、優しい言葉で少しずつ溶けていく。喉が熱くなり、言葉が出てこないまま、ただ小さく頷き、母さんの手をそっと握り返した。家族の絆が、静かに、しかし確かに修復されていく瞬間だった。
展覧会の後半になり、ギャラリーの少し静かな角で、蒼太くんが私の隣にやってきた。すると静かに言った。
「あかりさん……少し、いいかな?」
彼は私を窓際の柔らかな光が差し込む場所に連れて行った。 秋の夕陽が、ガラス越しに優しく部屋を染めてオレンジと金の光が床に長く伸びている。風が軽くカーテンを揺らし、外の木々が優しくざわめく音が聞こえてくる。
蒼太くんは少し頰を赤らめ、視線を少し逸らしながら、勇気を出して言葉を紡いだ。
声がわずかに震えている。
「……あのさ、僕、ずっとあかりさんのことが気になってた。 実は……小学生の頃、合同講習会で一度会ったことがあるんだ。 あのとき、明梨さんが淡い青の絵を描いているのを見て、一目惚れした。 すごく静かで、真剣に筆を動かしている姿が、忘れられなくて……。 講習会の最後、明梨さんが描いた雨上がりの空の絵を見て、胸がぎゅっと締め付けられた。 あの青は、ただ綺麗なだけじゃなくて、寂しさと優しさが混ざっていて、僕の心に深く刺さった。 それ以来、どこかでまた会えないかなって、ずっと考えていた。 発表会で再会したとき、本当に驚いたし、嬉しかった。 一緒にスケッチして、アトリエで隣に座って、話すたびに、その気持ちがどんどん大きくなっていった。 うまく言えないけど…… あかりさんの隣にいると、すごく安心するんだ。もっと一緒にいたいって思うんだ。 ……僕と、付き合ってくれないかな?」
蒼太くんの声は少し震えていて、耳まで真っ赤だった。 彼は視線を床に落としたまま、緊張で指を軽く握りしめている。
その姿が、なんだかとても可愛らしくて、私の胸も激しく鳴った。心臓が痛いほど速くなり、息が少し詰まる。指先が冷たくなる。あぁ、きっとこれが恋なんだ……
私は言葉が出てこなくて、しばらく彼の顔を見つめていた。 頭の中が真っ白になりそうになる。深呼吸を何度も繰り返し、震える声で、でも精一杯の気持ちを込めて答えた。
「……うん。私も、蒼太くんのことが好きだよ。 一緒にいると、胸がドキドキするし……絵を描くのがもっと楽しくなる。 小学生の頃から想ってくれていたなんて、知らなかった……。 ありがとう。これからも、ずっと一緒にいたい。一緒に絵を描いて、一緒に色を重ねていきたい」
その瞬間、蒼太くんの顔がぱっと明るくなった。 彼は大袈裟に目を丸くして、嬉しさを隠しきれずに声を上げた。
「えっ……ほんとに!? やった……! 明梨さん、ありがとう!」
蒼太くんは興奮のあまり、思わず私の両手を軽く握りしめた。 そのまま自然と軽いハグのような形になり、彼の胸が一瞬私の肩に触れた。
温かい体温が伝わってきて、私の心臓がさらに速く鳴った。甘い疼きが、胸いっぱいに広がり、頰が熱く火照る。
すぐに気づいて慌てて離れた蒼太くんは、耳まで真っ赤になって、照れくさそうに笑った。
「ご、ごめん……嬉しすぎて…… 僕、こんなに嬉しいの、初めてかも…… 小学生の頃から好きだったのに、ようやく伝えられて……夢みたいだよ……これからも、よろしくね」
私は頰が熱くて、言葉が出てこなかった。 ただ、胸の奥が甘く疼いて、自然に笑顔がこぼれた。目頭が熱くなり、幸せな涙がにじみそうになる。
この気持ち……本物なんだ……。 蒼太くんと一緒にいられる……これから、もっと一緒にいられる……。 私の色を、誰かと分かち合える……
ふわふわした曖昧な感じがようやく一歩前へ進んだ瞬間だった。 ふわふわとした初めての恋が、私の中に静かに、けれど確かに花開いていた。秋の光が、二人の影を優しく包み込む。
展覧会の帰り道、光梨が私の手を握って言った。
「お姉ちゃん、今日の絵、本当に素敵だったよ。 私も、お姉ちゃんみたいに、自分の道をちゃんと歩けるようになりたい」
私はひかりの手を優しく握り返した。
「うん。私も、モデルとしての光梨も、光梨の弾くピアノの音をこれからも聞いていたい。 私たちは、二色の花だよね。太陽のようなひかりと、月の私。それぞれの光で、並んで輝ける。これからも、互いの色を応援し合おうね」
夕陽が、私たちの影を長くけれど優しく地面に落としている。 その影は、もう誰かの形を模した不確かなものではなかった。 私の足で、私の光に向かって歩いている、
ちゃんと私自身の影だった。誇らしく、力強く、温かい影だ。
これから、私の色は、もっと広がっていく。 青い空の下で、黄金色の光の中で、二色の花は、静かに、けれど確かに、咲き続けていく。 虹の向こう側には、新しい色が待っている——そんな予感が、胸いっぱいに広がっていた。
私は心の中で静かに繰り返した。 私の名前は、あかり。 私を照らす光は、私自身の中にあった。 そして、それを分かち合える人が、ちゃんとここにいる。 これからも、自分の色を信じて、描き続けていこうと思えた。