消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
── 午前中 ──

資料を渡そうとした瞬間、
黒崎部長の指先が
私の手のすぐ近くをかすめた。

ふと、空気が変わった気がして息を呑む。

思わず顔を上げると、
一瞬だけ視線が交わった。

彼はすぐにそらし、
何事もなかったように説明を続ける。

けれど、その横顔に、
ほんのわずかな違和感を覚えた。

すぐに消えたようにも思えて、
私は自分の目を疑った。


── 数時間後 ──

コピー機の前で資料をまとめていた。

背後からの
「お疲れさま」という声に振り返ると、
自然と見上げる位置に、黒崎部長が立っていた。

かすかに、心臓が鳴る。

「お疲れさまです」

軽く会釈をする。

「その資料、見せてもらえるか?」

「はい」

ページをめくる音に、緊張が増す。

整った顔。
大きな手。
綺麗な指先。

その指先で紙に触れながら
彼は柔らかく言葉を続けた。

「丁寧にまとめているな」

その一言で、
見とれていた自分に、はっとする。

「ありがとうございます」

少し顔が熱くなったのは、
褒められた照れからか、
あるいは、別のものか。

彼が去ったあと、
自分の鼓動が少し速いことに気づいた。

顔を上げると、
彼の広い背中が遠ざかっていくところだった。


── お昼 ──

隣の席の女性が、
サンドイッチを片手に椅子を寄せてくる。

「私、相沢佳奈。
29だから、白石さんより一つ上かな。よろしくね」

「よろしくお願いします」

軽く会釈をする。

「さっき、黒崎部長に褒められてたよね?」

慌てて首を振る。

「そんな……」

「『丁寧にまとめているな』って。
黒崎部長、士気を上げる言葉は言っても、
めったに褒めないのに。あれ珍しいよ」

彼女はくすっと笑う。

「イケメンで驚いたでしょ?」

反応に困り、曖昧に答える。

「まぁ……そうですね」

彼女は頬杖をつき、さらに続けた。

「仕事できるし、頼れるし、声もいいし。
あの顔で、あのスタイルでしょ?
モテないわけないよね」

「……ですね」

笑って聞き流した。

「でも残念。既婚者なのよね。
黒崎部長、すごく愛されてるって噂。
子どもはいないみたいだけど、
彼も相当な愛妻家らしいよ」

夫婦の話を聞いただけなのに、
なぜか胸の奥で、
鈍く軋む音がした。

私は微笑みながら、
気づかれないように、
胸のざわめきを押さえ込んだ。

「あんなにモテるのに、
少しも隙や弱みを見せない。
部下も女の子たちも、みんな言ってる。
『絶対に裏切らない人』だって」

─ 裏切らない。

その言葉が、妙に心に残った。

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