消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
視線の残像
── 同時刻 ──
営業部の若手たちは、
黒崎部長が会議室に入ってくると、
一斉に姿勢を正した。
「お疲れさまです!」
彼は軽く手を挙げて応える。
その落ち着いた雰囲気に、
自然と空気が引き締まる。
自席に着き、
長い足を組んで資料をめくる。
その動きに、無駄はない。
「佐藤、昨日のA社の案件はどうなった?」
「予定通り、順調に進んでいます」
「油断するな。あまり資料に頼りすぎるなよ。
A社が気にしているのは、
値段より納期の確実さだ」
資料を指で軽く叩きながら言う。
佐藤は、驚いたように顔を上げた。
「……どうして分かるんですか?」
彼は、その目をまっすぐに見据える。
「相手の立場で考える癖をつけろ。
お前ならできる。期待している」
会議室の空気が、ふわりと軽くなる。
佐藤は、思わず顔をほころばせた。
── その瞬間。
なぜか転勤してきたばかりの彼女の、
少し緊張した表情が脳裏に浮かんだ。
ページをめくる手が、一瞬だけ止まる。
……疲れているだけ。
そう片づけるように、
再び視線を資料へ落としたが、
その映像は、なぜか鮮明に残り続けた。
── 就業終了前 ──
初日だというのに、私は一日中、
彼の声や気配に気を取られていた。
周囲の眼差しが、彼を特別視していること。
その人が、自分に少しだけ向けた視線。
胸の奥で静かに疼くそれに、
気づかないふりをして仕事に没頭しようとした。
けれど、心は静まらなかった。
退社の準備をしていると、
背後から足音が近づく。
全身が反応する。
振り返ると、黒崎部長が立っていた。
「お疲れさま」
左手首の腕時計に触れながら、
落ち着いた声で言う。
整った指に視線が落ち、
その根元で、結婚指輪が光った。
「初日で疲れただろう」
「はい……少し。
でも、早く皆さんの力になれるよう、頑張ります」
彼の手が腕時計の上で止まり、
片方の口角がわずかに上がった。
「前の支店での経験は、
本社でも十分に活かせる。
期待しているよ。
だが、無理はするな」
完璧な、部長の顔と声。
それなのに、視線が絡んだ瞬間、
彼の目がほんの一瞬だけ柔らいだ。
胸が小さく跳ねる。
「ありがとうございます」
次の瞬間、
彼の表情が、ほんの一瞬だけ止まったように見えた。
── それに気づいたのは、俺の方だった。
礼を言いながら、
わずかに視線を揺るがせたその仕草が、
なぜか胸に引っかかった。
それは、上司としてでは説明できない、
別の衝動の始まりのようで。
感情の揺れを悟られないよう、
距離を取るように自席へ戻る。
この胸のざわめきが、
後戻りできないものになるとは、
まだ、この時の俺は知らなかった。
営業部の若手たちは、
黒崎部長が会議室に入ってくると、
一斉に姿勢を正した。
「お疲れさまです!」
彼は軽く手を挙げて応える。
その落ち着いた雰囲気に、
自然と空気が引き締まる。
自席に着き、
長い足を組んで資料をめくる。
その動きに、無駄はない。
「佐藤、昨日のA社の案件はどうなった?」
「予定通り、順調に進んでいます」
「油断するな。あまり資料に頼りすぎるなよ。
A社が気にしているのは、
値段より納期の確実さだ」
資料を指で軽く叩きながら言う。
佐藤は、驚いたように顔を上げた。
「……どうして分かるんですか?」
彼は、その目をまっすぐに見据える。
「相手の立場で考える癖をつけろ。
お前ならできる。期待している」
会議室の空気が、ふわりと軽くなる。
佐藤は、思わず顔をほころばせた。
── その瞬間。
なぜか転勤してきたばかりの彼女の、
少し緊張した表情が脳裏に浮かんだ。
ページをめくる手が、一瞬だけ止まる。
……疲れているだけ。
そう片づけるように、
再び視線を資料へ落としたが、
その映像は、なぜか鮮明に残り続けた。
── 就業終了前 ──
初日だというのに、私は一日中、
彼の声や気配に気を取られていた。
周囲の眼差しが、彼を特別視していること。
その人が、自分に少しだけ向けた視線。
胸の奥で静かに疼くそれに、
気づかないふりをして仕事に没頭しようとした。
けれど、心は静まらなかった。
退社の準備をしていると、
背後から足音が近づく。
全身が反応する。
振り返ると、黒崎部長が立っていた。
「お疲れさま」
左手首の腕時計に触れながら、
落ち着いた声で言う。
整った指に視線が落ち、
その根元で、結婚指輪が光った。
「初日で疲れただろう」
「はい……少し。
でも、早く皆さんの力になれるよう、頑張ります」
彼の手が腕時計の上で止まり、
片方の口角がわずかに上がった。
「前の支店での経験は、
本社でも十分に活かせる。
期待しているよ。
だが、無理はするな」
完璧な、部長の顔と声。
それなのに、視線が絡んだ瞬間、
彼の目がほんの一瞬だけ柔らいだ。
胸が小さく跳ねる。
「ありがとうございます」
次の瞬間、
彼の表情が、ほんの一瞬だけ止まったように見えた。
── それに気づいたのは、俺の方だった。
礼を言いながら、
わずかに視線を揺るがせたその仕草が、
なぜか胸に引っかかった。
それは、上司としてでは説明できない、
別の衝動の始まりのようで。
感情の揺れを悟られないよう、
距離を取るように自席へ戻る。
この胸のざわめきが、
後戻りできないものになるとは、
まだ、この時の俺は知らなかった。