消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
日常に混じる異物
── 同じ朝 ──

朝の光は、やさしい。

キッチンに差し込む淡い陽射し。
トースターの中で、パンが静かに焼ける音。

真美は、エプロンの紐を結ぶところから一日を始める。

フライパンで卵をほぐし、火加減を気にしながら、
スクランブルエッグをゆっくり仕上げていく。

焦げ目がつかないように、何度も木べらを動かす。

「……今日は、少しだけバター、多めでもいいよね」

その“多め”の基準。
卵の柔らかさ。
パンの焼き色。
コーヒーの濃さ。

すべてが、夫の好みに――
自然と、そうなっていく。

夜、帰りを待つ時間も。
こうして細やかに整える朝も。

真美にとってはすべてが、愛情の延長線にある。

変わらない日常。
変えないことで、守ってきたもの。

夫の鞄を手に取り、いつものように玄関まで見送る。

今朝も、穏やかなまま終わる――
そう思っていた。

夫が靴べらに手を伸ばし、身をかがめた、その時。

ネクタイの結び目が、
少しだけ歪んでいるのが目に入った。

……曲がってる。

結び目を直そうとして、その下へ、視線が滑る。

シャツの襟元。
ネクタイに隠れる位置。

そこに、あるはずのないものが視界に飛び込む。


うっすらと残る、赤い痕――


伸ばしかけた指が、凍りつく。

「……」

時間から切り離されたように、体が動かない。

「行ってきます」

夫の声は、いつもと変わらず穏やかで、
何事もなかったかのように身を翻す。

喉元まで込み上げてくるものを、無理やり飲み込んだ。

「あ……うん。行ってらっしゃい」

強張った口元に、いつも通りの笑みを貼りつける。

ドアが閉まる音が、やけに響いた。

​静まり返った家に、コーヒーの残り香だけが漂う。
真美は、その中でひとり、立ち尽くしていた。
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