消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
「……ごめん、森下さん」

その一言で、彼の表情が、すっと静まる。

「今の私……ちゃんとしてなくて」

声が、わずかに揺れる。

「自分でも、どうしようもなくて……」

彼は何も言わない。
ただ、私を見つめる視線が、わずかに深くなった。

「……だから、私には誰かに選ばれる資格なんてないの」

正しい道を歩くには、もう、遅すぎた。

ふたりの間に、静寂が落ちる。

やがて彼は、
何かが腑に落ちたように、小さく息をこぼした。

「……そっか」

ほんの一瞬だけ、何かを言いかけて――
彼はそれを飲み込んだ。

彼の手に力がこもり、アルミ缶が小さく潰れる音がする。

「……無理だけは、すんなよ。
白石さんは、頑張りすぎるところがあるから」

そう言って、
いつものように砕けた笑顔を見せた。

見慣れた、優しい笑顔と、
その言葉だけを残して、彼は背を向けて去っていった。

どこまでも優しい人。
私の醜い部分に、触れずにいてくれた。

取り残された私は、冷え始めた缶を握ったまま、
しばらく動けずにいた。

もし私が――
彼の手を取って、
そのまま歩いていけるような人間だったなら。

きっと、私たちは、
陽だまりのような恋人になれた。

仕事帰りに待ち合わせて、コンビニに寄って。
どっちがコーヒー代を払うかで、くだらない言い合いをする。

映画を見て、ポップコーンは何味にする?なんて、
どうでもいいことで笑いあえた。

そのうち、子どもは何人欲しい?と、
ささやかな未来の話をして。

何年か後には、あたたかな家で、
ふたりの宝物みたいな寝顔を覗き込む。

そんな、どこにでもある、けれど何物にも代えがたい幸せを、
ふたりで生きていけたのだろう。

彼はきっと、いい夫になる。
いい父親にも。

それを今、私は自分の手で、捨てるように手放した。

正しい道がどこにあるのか分かっていて、
手放したあとに残ったのは、後悔ではない。

ただ、消えない罪悪感だけが、
泥のように胸の奥に沈んでいく。

​それでも、あの濁流のように流れ込んでくる熱を、
心が求めて止まない。

身体中に残る痕が、 逃げられない証のように熱く疼いて――

もう、離れられない。
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