消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
残骸の果て ─ 最終話 ─
── 夜 ──
真美は、夕食の支度を終え、壁の時計に目をやる。
十九時五十分。
「そろそろ、帰ってくる頃ね」
その独り言が消えるより早く、玄関の鍵が回った。
「……ほらね」
小さく呟き、火を弱めて鍋に蓋をする。
目を閉じれば、暗闇に音だけが浮き上がる。
重い扉が、開く音。
靴を脱ぎ、揃える音。
聞き慣れた、足音。
それは真美が、夫を愛おしみ、信じてきた安心の音色。
玄関へ向かうと、そこには今朝と同じ、
歪みのないネクタイを締めた夫がいた。
何ひとつ変わらない、いつもの帰宅。
そのすべてが、真美の知る夫の動きと寸分違わない。
「おかえりなさい」
見慣れた顔。
「ただいま」
聞き慣れた声。
そして、混じる――
あの匂い。
微笑みを絶やさず、自然な動きで上着と鞄を受け取る。
まだ、残ってる。
それでも、笑顔の仮面は貼り付けたまま。
「今夜はね、鍋にしたわ」
微笑みも、声の調子も、いつも通り――
そうでなければならない。
食卓には、鍋のほかにも料理を並べた。
いつもより、多めに。
「どれも栄養のあるものにしてるのよ。
プロジェクト、大変そうだから」
湯気の向こうで、夫が顔を上げた。
「今日は、たくさん作ったの。早く帰ると思って」
夫の箸が、ぴたりと止まる。
「……どうして、そう思った?」
真美は首を傾げ、柔らかく微笑む。
「お昼にね、あの会議室で、
あなたと食事をしたから……かしら」
箸が器に触れ、カチンと乾いた音が響いた。
音が落ちた場所から、空気がゆっくりと沈んでいく。
見えない扉が内側から閉じられていくように。
「……そうか」
夫はそれきり、口を閉ざした。
ただ目を伏せ、
何事もなかったかのように食べ続けている。
「たくさん食べて。
あなたが、私の一番大切な人だから」
同じ鍋を囲み、同じ温度のものを、
ただひたすら機械的に口に運び続ける。
壊れていく時計の針を、無理やり動かし続けるように。
ただ、日常の振りをして――。
それが、夫が一生をかけて
私の傍らで果たし続ける、償い。
夫の指にある銀色の輪が、鎖めいた冷たい光を弾いた。
その冷たい光は、
鏡合わせの呪いのように、真美の指にも見えない錠をかける。
逃げられないのは、私も同じ。
それでも、その光に縋るように視線を落とし、
指先でそっとなぞる。
その光ごと閉じ込めて、離すことのないように。
この鍵を握っているのは、この先もずっと
――私だけ。
立ち上がる白い湯気が、ふたりの輪郭を曖昧にぼかし、
テレビから流れる無機質な音だけが、
この家の沈黙を埋め続けていく。
─ 完 ─
真美は、夕食の支度を終え、壁の時計に目をやる。
十九時五十分。
「そろそろ、帰ってくる頃ね」
その独り言が消えるより早く、玄関の鍵が回った。
「……ほらね」
小さく呟き、火を弱めて鍋に蓋をする。
目を閉じれば、暗闇に音だけが浮き上がる。
重い扉が、開く音。
靴を脱ぎ、揃える音。
聞き慣れた、足音。
それは真美が、夫を愛おしみ、信じてきた安心の音色。
玄関へ向かうと、そこには今朝と同じ、
歪みのないネクタイを締めた夫がいた。
何ひとつ変わらない、いつもの帰宅。
そのすべてが、真美の知る夫の動きと寸分違わない。
「おかえりなさい」
見慣れた顔。
「ただいま」
聞き慣れた声。
そして、混じる――
あの匂い。
微笑みを絶やさず、自然な動きで上着と鞄を受け取る。
まだ、残ってる。
それでも、笑顔の仮面は貼り付けたまま。
「今夜はね、鍋にしたわ」
微笑みも、声の調子も、いつも通り――
そうでなければならない。
食卓には、鍋のほかにも料理を並べた。
いつもより、多めに。
「どれも栄養のあるものにしてるのよ。
プロジェクト、大変そうだから」
湯気の向こうで、夫が顔を上げた。
「今日は、たくさん作ったの。早く帰ると思って」
夫の箸が、ぴたりと止まる。
「……どうして、そう思った?」
真美は首を傾げ、柔らかく微笑む。
「お昼にね、あの会議室で、
あなたと食事をしたから……かしら」
箸が器に触れ、カチンと乾いた音が響いた。
音が落ちた場所から、空気がゆっくりと沈んでいく。
見えない扉が内側から閉じられていくように。
「……そうか」
夫はそれきり、口を閉ざした。
ただ目を伏せ、
何事もなかったかのように食べ続けている。
「たくさん食べて。
あなたが、私の一番大切な人だから」
同じ鍋を囲み、同じ温度のものを、
ただひたすら機械的に口に運び続ける。
壊れていく時計の針を、無理やり動かし続けるように。
ただ、日常の振りをして――。
それが、夫が一生をかけて
私の傍らで果たし続ける、償い。
夫の指にある銀色の輪が、鎖めいた冷たい光を弾いた。
その冷たい光は、
鏡合わせの呪いのように、真美の指にも見えない錠をかける。
逃げられないのは、私も同じ。
それでも、その光に縋るように視線を落とし、
指先でそっとなぞる。
その光ごと閉じ込めて、離すことのないように。
この鍵を握っているのは、この先もずっと
――私だけ。
立ち上がる白い湯気が、ふたりの輪郭を曖昧にぼかし、
テレビから流れる無機質な音だけが、
この家の沈黙を埋め続けていく。
─ 完 ─