消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
祈りの残骸
エレベーターを降り、エントランスへ踏み出す。
足元が歪んでいるような錯覚に襲われながらも、
真美は前を見据えた。
崩れずにいられるのは、強さなどではない。
現実を拒絶しようとする本能が、
心に深い麻酔をかけているからだ。
その時だった。
前方から、二人の女性が言葉を交わしながら歩いてくる。
整った身なりに、さりげない華やかさがある。
誰かのためではなく、自分のために整えられたような。
同じ場所にいるはずなのに、
彼女たちは眩しいほどに、違う世界の住人に見えた。
すれ違った、その瞬間。
呼吸が、止まった。
突き刺すように、一人の女性から届いた匂いに、
心臓が嫌な音を立てて、大きく跳ねた。
色が、音が、急速に引いていく。
知っている。
……知っている。
夫の肌に、シャツに、執拗にこびりついていた、
皮膚の熱を帯びたような、微かな甘い匂い。
あの会議室にも色濃く漂っていた、逃れられない女の熱。
金縛りにあったように、すれ違う。
何もなかったかのように。
真美は、ただ前方から差し込む光だけを見つめ、
出口へと向かって歩いていく。
──由依の視線が、ぐらりと揺らいだ。
すれ違った上品な女性から、ふわりと漂ってきた匂い。
いつも彼から香っている、
清潔な洗剤の香りが、かすかに混じる。
心臓が凍りつく。
私には決して触れることのできない、陽だまりの――
日常の匂い。
さっきまで、彼に触れていた指先を、
きゅっと握り込んだ。
けれど、振り払おうとするほど、
彼に触れられた感触が鮮明に蘇り、
どろりとした熱を持って全身を侵食していく。
遅れて、惨めな自己嫌悪が、
罪の刻印のように痛みとなって滲み出す。
「黒崎部長とのプロジェクトも、あと少しで終わるね」
隣で、相沢さんが明るく笑う。
「……そうですね」
うまく笑えた気がしなくて、少しだけ視線を落とした。
「白石さん、どうかした? 大丈夫?」
周囲の音が、
膜を隔てた向こう側のように、おぼろげに遠のいていく。
「ええ、大丈夫です」
「そう? プロジェクトが終われば、
少しは早く帰れるようになるし。もうひと踏ん張りだよ」
相沢さんは肩をすくめて、続けた。
「でも残業から解放されるのは、もう少し先かな」
息に混じって、喉からかすかに音がこぼれた。
「……でも、今日は」
視界が、ゆっくりと泥の中に沈んでいく感覚に、
バッグの持ち手を縋るように握りしめた。
「えっ、なに?」
「……今日は、早く帰れると思います」
「えっ、なんで? 今は、むしろ追い込みじゃないの?」
私は、これからも――
元の場所へと戻っていく彼の背中を、
ただ暗がりの底で見送る。
行く先に光はない。
引き返せば、救いがあると分かっていても、
歩みは止められない。
振り返らず、出口に背を向け、ただ一歩ずつ。
私は私の意志で、深く、堕ちていく。
―― 次回、最終話へ。
足元が歪んでいるような錯覚に襲われながらも、
真美は前を見据えた。
崩れずにいられるのは、強さなどではない。
現実を拒絶しようとする本能が、
心に深い麻酔をかけているからだ。
その時だった。
前方から、二人の女性が言葉を交わしながら歩いてくる。
整った身なりに、さりげない華やかさがある。
誰かのためではなく、自分のために整えられたような。
同じ場所にいるはずなのに、
彼女たちは眩しいほどに、違う世界の住人に見えた。
すれ違った、その瞬間。
呼吸が、止まった。
突き刺すように、一人の女性から届いた匂いに、
心臓が嫌な音を立てて、大きく跳ねた。
色が、音が、急速に引いていく。
知っている。
……知っている。
夫の肌に、シャツに、執拗にこびりついていた、
皮膚の熱を帯びたような、微かな甘い匂い。
あの会議室にも色濃く漂っていた、逃れられない女の熱。
金縛りにあったように、すれ違う。
何もなかったかのように。
真美は、ただ前方から差し込む光だけを見つめ、
出口へと向かって歩いていく。
──由依の視線が、ぐらりと揺らいだ。
すれ違った上品な女性から、ふわりと漂ってきた匂い。
いつも彼から香っている、
清潔な洗剤の香りが、かすかに混じる。
心臓が凍りつく。
私には決して触れることのできない、陽だまりの――
日常の匂い。
さっきまで、彼に触れていた指先を、
きゅっと握り込んだ。
けれど、振り払おうとするほど、
彼に触れられた感触が鮮明に蘇り、
どろりとした熱を持って全身を侵食していく。
遅れて、惨めな自己嫌悪が、
罪の刻印のように痛みとなって滲み出す。
「黒崎部長とのプロジェクトも、あと少しで終わるね」
隣で、相沢さんが明るく笑う。
「……そうですね」
うまく笑えた気がしなくて、少しだけ視線を落とした。
「白石さん、どうかした? 大丈夫?」
周囲の音が、
膜を隔てた向こう側のように、おぼろげに遠のいていく。
「ええ、大丈夫です」
「そう? プロジェクトが終われば、
少しは早く帰れるようになるし。もうひと踏ん張りだよ」
相沢さんは肩をすくめて、続けた。
「でも残業から解放されるのは、もう少し先かな」
息に混じって、喉からかすかに音がこぼれた。
「……でも、今日は」
視界が、ゆっくりと泥の中に沈んでいく感覚に、
バッグの持ち手を縋るように握りしめた。
「えっ、なに?」
「……今日は、早く帰れると思います」
「えっ、なんで? 今は、むしろ追い込みじゃないの?」
私は、これからも――
元の場所へと戻っていく彼の背中を、
ただ暗がりの底で見送る。
行く先に光はない。
引き返せば、救いがあると分かっていても、
歩みは止められない。
振り返らず、出口に背を向け、ただ一歩ずつ。
私は私の意志で、深く、堕ちていく。
―― 次回、最終話へ。